リアホナ 2005年3月号 日本におけるアジア最初の祝福師,渡部正雄兄弟,天に召される

News Box 日本におけるアジア最初の祝福師,渡部正雄兄弟,天に召される

教会の開拓者であり,アジアで最初の祝福師である渡部正雄兄弟が2月6日(日)早朝,(日本時間2月6日夜)ユタ州オレムの自宅で安らかに息を引き取った。享年90歳であった。

渡部兄弟は1914年6月6日に満州の鶏冠山で渡部専治と高野今の次男として出生した。1934年に,ロシア語を専門に教育するために外務省がハルピンに設立した官立の大学で学ぶ。中国語,ロシア語,そして母国語である日本語を流暢に使いこなした。

大学を卒業して1週間後に,奉天浪速高等女学校を卒業して4日後の(旧姓)渡辺尚子姉妹と1938年3月20日に結婚する。優秀な成績を修めた渡部兄弟は,卒業生の中から1名選ばれる留学生に推薦され,23歳の渡部兄弟と16歳の尚子姉妹は,その後北京で外交官としての新婚生活を送ることとなった。

第二次世界大戦後に,渡部兄弟の人生は大きな変化を迎えた。

北京の大使館から東京の外務省本省勤務となり,終戦後は,終戦日米連絡事務局と改名された外務省の仙台事務所へ転勤となった。友人の多くが自らの命を犠牲にし戦死した中で,生き残った渡部兄弟は人生の目的について自問し,キリスト教会の聖職者との交流も深めていった。そのような中で出会った末日聖徒イエス・キリスト教会の二人の宣教師(オールドハム長老/赤城長老)から紹介された「ジョセフ・スミスの見神録」に霊感を受け,「モルモン経」に感動し,1949年11月6日に仙台で最初の改宗者として広瀬川でバプテスマを受けた。渡部兄弟の家でバイブル・クラスを開いていた他宗派の宣教師が改宗を考え直すように勧告したとき,渡部兄弟は次のように語った。「末日聖徒イエス・キリスト教会に真理を見いだしたのです。真理は人を変えますが,人は真理を変えることはできません。あなたがたも末日聖徒イエス・キリスト教会を研究されるように望みます。」

教会の会員になった渡部兄弟は積極的に宣教師と布教活動に従事した。仙台の駅前ではみかん箱の上に立ち,道行く人に街頭伝道を行った。バスでも汽車でも電車の中でも,隣に座る人には必ず教会のパンフレットを渡して集会へ招待した。このころ仙山線の車内で渡部兄弟からパンフレットを受け取った人が,15年後,移民先のブラジルで,専任宣教師として働いていた渡部兄弟の三男,正和兄弟に出会いバプテスマを受けたこともあった。

仙台で支部長として奉仕し,のちに教会の資料や教材を翻訳する手伝いをポール・C・アンドラス伝道部長から依頼され,横浜へと転居した。

支部長,地方部長,伝道部系図委員長,ステーク宣教師などの様々な召しを果たしてきた。1972年には,東京ステークの祝福師として召されたが,これはアジアで最初の聖任であった。また渡部兄弟はアジアで最初に,神殿における結び固めの権能を受けた神権者でもある。

渡部兄弟と尚子姉妹はハワイ神殿,東京神殿,台湾神殿で,神殿宣教師として奉仕した経験も持つ。台湾神殿では副神殿長として奉仕した。

1990年には子供や孫のそばで暮らすためにユタ州へ移住した。生前はブリガム・ヤング大学のアジア系の会員が集う支部で祝福師として奉仕し,中国語,英語,日本語で祝福を授けた。

渡部兄弟は祝福師の職を受けている間,1,700人以上もの人々に祝福を授けた。それは渡部兄弟にとっても大いなる喜びであった。また,神殿結び固め執行者(シーラー)として,ハワイ神殿,東京神殿,台湾神殿で奉仕し,プロボ神殿では神殿儀式執行者として働いた。

渡部兄弟は今,1996年に他界した妻の尚子姉妹と再会していることだろう。渡部兄弟姉妹は4人の息子と二人の娘,23人の孫,26人の曾孫に恵まれている。葬儀と埋葬は2月12日にオレムで行われた。雨交じりの雪というあいにくの天候にもかかわらず,300人から400人の参列者が詰めかける。渡部兄弟の6人の子供たちが次々と壇上に立ち,故人の生前の思い出を語った。そののち,妻の尚子姉妹が眠るオレム・シティー・セメタリーに埋葬された。◆