リアホナ 2005年4月号 夫婦の履歴書 第10回 非まじめのすすめ──永遠の友を得た夫婦宣教師

夫婦の履歴書 第10回 非まじめのすすめ──永遠の友を得た夫婦宣教師

元東京南伝道部夫婦宣教師──潟沼誠二・陽子ご夫妻

1957年,小樽。民家を借りて集会をしている小樽支部の暖房はコークスストーブである。コークスとは石炭を乾留(蒸し焼き)したもので,通常の石炭より無煙で火力が強い。しかし着火はやっかいだ。まず煙突からストーブを外し,前の灰をかき出す。焚きつけの紙の上に薪を乗せてその上にコークスをざっとかぶせる。紙についた火は薪を燃やし,やがてコークスが燃え始めるのである。

1957年9月ごろ,大学生の潟沼誠二青年は東京から小樽の実家に帰省していた。その玄関に同年輩の二人のアメリカ人青年が立つ。ガッドフリー長老とサマーズ長老である。伝えられたメッセージに,残念ながら家族は関心を示さなかった。ただ,潟沼青年だけが興味を抱き,家庭集会が始まる。しかし──「最初は全然,言うこと聞かなかったんですね。もうけんかばっかり,議論ばっかり……」後年,学者としての人生を歩むことになる潟沼青年は議論では負けない。そうするうちに「実りのない時間が過ぎて,11月の中ごろ」,北の大地が白く覆われ始めたある日のこと。宣教師と会うため小樽支部へと出向いた潟沼青年を,長老たちは真っ黒な顔をして迎えてくれた。彼のために一生懸命,コークスストーブの火を起こしてくれていたのである。

「そのときに,ビリビリっと来るものがあって。自分と同じくらい若い人が,ほかの人のためにどうしてそこまでできるんだろうか──」潟沼青年は,宣教師の教える教義ではなく,愛の行いによって福音に目を開かれる。

「それから,わたしの態度は変わりました。」朝起きてから夜中まで,当時発刊されたばかりの佐藤龍猪訳『モルモン経』を読みふけり,バプテスマに至る2か月ほどの間に23回読んだ。「すごい,と思われるかもしれませんが,実はそうじゃなくて,どこか間違いがないかと思って読んだんです(笑)。けれど,全然,矛盾はしていないし。」潟沼青年は真剣に祈り,やがてはっきりと,この教会の真実を証する聖霊の確認を受けたのである。

この話には後日談がある。潟沼兄弟のバプテスマから数十年後,かつてのガッドフリー長老が家族を連れて札幌の潟沼家を訪れた。思い出話に花が咲く中,潟沼兄弟は当時知らなかったこんなエピソードを初めて聞かされる。

1958年1月13日のバプテスマ当日。町の銭湯を借りて長老たちはバプテスマの準備をしていた。その日はあいにくの猛吹雪でバスの運行も止まってしまう。坂の多い港町小樽で,潟沼家は高台の上にあった。潟沼青年は仕方なく,スキーを履いて長老たちの待つ銭湯へ向かう。約束の時間を過ぎても姿を現さない潟沼青年に後輩のサマーズ長老は,議論の多かったレッスンの経緯を振り返り,彼は来ないよ,と言う。しかしガッドフリー長老は答えた。いや絶対来る,と。「だから,間違ってないかと思って23回読み返したわたしがころっと参っちゃった。わたしを参らせたのは何か,やっぱり(ガッドフリー長老の示した)キリストの愛だと思うんですね。それはすごく大切なものじゃないか。」それは45年後,潟沼ご夫妻の夫婦伝道の原点となった。

「非まじめ」のすすめ

2003年11月。伝道地の山梨県甲府に赴任して最初の聖餐会,壇上に立った潟沼長老はこんな話を始める。「昔の卒業式っていうのは祝辞がものすごく多かったんです。代読なんです。まったくもう,うんざりしちゃうんですよね。北海道知事殿,北海道教育長殿,北海道議会議長殿,小樽市長殿,小樽市議会議長殿,小樽市教育委員会委員長殿,だーっとある。それで司会の副校長が,祝辞の後に卒業生代表の答辞を読ませるからね,『答辞っ』と言ったらわたしが思わず『カボチャ!』って答えて,厳粛な卒業式がだめになっちゃって。」

「それから,鶴の恩返しの話。与ひょうへの恩返しに鶴が機を織る,その鶴が帰って行った後にまたもう一羽,傷ついた鶴を助けると,やって来て機を織るという。しかしものすごく静かすぎる,いったい何をしているのか,とのぞくと部屋にあった貴重な品々がない。鶴だと思ったら,さぎだった。……」

神妙な顔つきで次から次へと冗談を繰り出す潟沼長老は,北海道教育大で教鞭を執っていた当時,年間講義録ならぬ年間冗句集が毎年発行されて学生に人気を博していたという。──「浦島太郎のお話……」「もうやめましょう,(笑)はいおしまい。」姉妹が制止しないと延々と止まらない。

「まじめの反対は不まじめとよく言いますけれども,わたしは“非まじめ”になりたいと思います。」そう宣言する潟沼長老に,大学教授で,かつて10年以上ステーク会長を務め,地区代表や地域幹部七十人を歴任……との先入観で見ていた人は面食らったかも知れない。のっけから本領を発揮する潟沼長老に,潟沼姉妹は「横ではらはらしながら」聞いていたという。「不謹慎だと批判されるのではないかと。でも,これはお世辞でもなんでもなく,甲府の人たちの信仰の深さと愛の深さ,人なつこさ,あまり批判しないでありのままを受け入れてくださるところはすばらしい。だから宣教師たちも,甲府を離れたくない人はいっぱいいました。わたしたちも,夫婦宣教師というよりも,心から一つになって,友達という感じになれたと思うんですよね。」

潟沼長老はこう振り返る。「不まじめじゃないんです。非まじめ。ですから,とにかく楽しくやる。そして絶対にですね,教会に来なさい,というふうには言うまい。とにかく何か一緒に遊べることがあったら一緒に遊ぶ。つまり,友達になろう,というのが根本だったんですね。福音の知識をぶつけて,こうだからああだと言って説教なんかしない,と。そういう気持ちで行きました。」その徹底した“非まじめ”ぶりにはそれなりの理由がある。

名前でなく行いによって

以前,フルブライト交換教授プログラムでブリガム・ヤング大学にて3年にわたり教鞭を執った潟沼教授は,日米の気質の差をこう評する。「向こうの方(アメリカ人)は,教義とか教会のプログラムとか運営の方法とか,論理的にちゃんと説明して教会に行くべきだと言えば行く。でも日本人はロジック(論理)だけでは動かない。正しいと分かっていても……そういう強固な自我,アメリカ的なものとは違った,『情的なもの』で心を動かされ,態度を変えていくというのが日本人の心です。」かつて潟沼青年も宣教師の示した愛の行いに突き動かされたのである。

「……わたしの民の監督になりなさい,……名前ではなく,行いでそうしなさい,と主は言う。」(教義と聖約117:11)

潟沼ご夫妻には障害を持つお孫さんがいる。小さいころは体がまったく動かせず,「植物人間のようでした。」医師も回復の見込みはないと診断していた。その子の病院を訪れて祝福した人の一人に十二使徒の故ニール・A・マックスウェル長老がいる。その後,「ほんとうに信じられないような奇跡が起きてきて」今では自分で動けはしないまでも,歌を歌い,感情を表し,独特の方法でコミュニケーションが取れるまでになっている。「ちょうどマックスウェル長老がその後体調を崩されて。その前で体もつらかったでしょうにね,わたしたちはいいって申し上げたんですけど,わざわざ病院まで来てくださって。それから,ソルトレーク神殿の特別な祈りの輪に加えるとおっしゃって。」潟沼ご夫妻がそこに見たのは,中央幹部の「名前」ではなく,「行い」によってキリストの僕となっている姿だった。潟沼ご夫妻もそれに倣い,元指導者,あるいは夫婦宣教師,といった「名前」ではなく,「行い」で働きかけるのである。

人々の心を知る

またレックス・D・ピネガー長老は日本各地の指導者にこう語ったという。「皆さんは主に召された指導者です。しかし,忘れないでいただきたのは,皆さんが指導する人々も神様から召されているということです。」──それを受けて潟沼長老は言う。「将来,王になり女王になる,そういう人たちにどんな態度で接しなければいかんのか……教会から足が遠のいているからと言ってね,あたかも頭を剃り腰に皮帯を締めたレーマン人に対するような接し方は間違っている。そんな人たちじゃ決してない,ほんとうにすばらしい人たちです。皆さん熱心に教会に奉仕しておられた方ばっかりなんですよ。いろんな試練があって,

でも,神様を信じていて……」教会に足を運ばなくなっても,戒めを守り,立派な家庭を築いていらっしゃる方々も多い,と甲府の会員について潟沼長老は話す。しかし,たとえそうでなくても,とも潟沼長老は強調する。本来,人が戒めを守る,教会に足を運ぶといった「宗教の実践」について,神ならぬ他人がとやかく言えるはずもない。「その宗教上の考えが他人の権利と自由を侵害するように促すものでないかぎり,人は宗教の実践については神に,しかも神にのみ責任を負う。」(教義と聖約134:4)

けれども──潟沼姉妹は言う。「教会に来ていらっしゃる方と,足の遠のいておられる方との間で,意識の中に差を作っちゃうんですよね。すると,それを敏感に感じて,……自分は神様をまだ捨ててないし,お祈りもしてるんだけれども,教会員はわたしを受け入れてくれてないっていう心の寂しさを感じてある方は涙を流していらっしゃった。で,教会の方たちはそれを知らないで,まだ彼たちは戒めを守ってるの? ってすぐそこに来ちゃうんですね。だけど,そういう外面的なことじゃなくて,神様との交流をこの方たちは持っていらっしゃる。だからわたしたちが,彼は今教会に来てないという意識ではなく,同じ神様の子供だっていう思いで接するときに,その方たちの居場所はある,そういう思いをお互いに感じることが大事かなあと。」

「あなたがたは遠くの国々における戦争について聞く……しかし,……あなたがた自身の地における人々の心を知らない。」(教義と聖約38:29)との聖句を潟沼長老は引く。「痛切にわたしは感じたんだけど,人々の心を知らないために,どんなに主の教会が成長できないでいるか。もし人の心を知ったら,日本の教会はもっとすばらしく発展するんじゃないかと,甲府の経験で学ばせていただきました。」

心をともにして得た永遠の友

もっとも,こうした「ロジック」を潟沼ご夫妻は甲府の人々に説いたわけではない。ただマックスウェル長老のように行いで示しただけである。会員宅を訪問するうちに「少しずつ心を開いてくださって。それは主がその機会を作ってくださったとしか言いようがないんです。やっぱり非まじめに。いろんな方法がありますから」と笑う潟沼長老。ゴルフ好きの人がいると聞けば,中古のショップでゴルフクラブを仕入れ,一緒にやろう,と訪れる。ジャズが好きと聞けば一緒にジャズコンサートに出かける。北大出身と聞けば北海道の話題で盛り上がる。「(教会に来ているかどうかなんて)全然,区別はないんです。もう友達ですから。そういう方々がわたしたちをほんとうに愛して大切にしてくださって,もう家族のようにね。」

北海道の羊が食べたい,と漏らすと駆けずり回って手に入れ食事に招待してくれる人。桃なんか絶対買うなよ,あれは買って食べるもんじゃない,と言ってたくさんの桃をくれる人。なかなか取れない貴重な休みを割いて温泉に連れて行ってくれる人。重荷を負っていて,「この人がよく教会にとどまっているな,我々だったら教会に来ているだろうかと,ともに涙を流すしかなかった」人。──ともに笑い,ともに泣く。

非まじめのすすめ,とは自分を開く術だった。「互いに,鎧甲つけて教会員生活やっちゃだめですよ。つまり,自分をさらけ出すことで,ともに喜んだり笑ったり悲しんだり泣いたりするのが兄弟姉妹なんです……わたしを筆頭に,みんなどこか癖があって,みんな不完全なんですから。思いやりを持ちながら忍耐しながら,責めずに。」

無農薬栽培を教えてくれる師匠ができた。ブドウ作りの大変さを教えてくれた。それからキノコ採り,温泉,桃の花見……そういう友達が甲府にたくさんできた。「ほんとうに親しくなってね。それが自分たちの人生にとって幸せでした。友達ってお金で買えません。」

「わたしにとっては,今までのどんな教会の召しよりも,夫婦宣教師の召しっていうのはほんとうにすばらしい召しでした。」「最高でした。」「こんなにすばらしいことは今までなかった。」

潟沼ご夫妻の赴任中,たくさんの人々が教会に足を運ぶようになった。しかし,潟沼ご夫妻はその数について語りたがらない。自分たちが何かを残せたとしたら,それは数ではない,と。甲府ワードの森澤正之監督は潟沼ご夫妻のもたらしたものをこう語る。「元地域幹部七十人ということで,厳しい方かな,というイメージも持たれていたんですけど,実は非常に優しい方で,良い意味でいい加減な感じで,ワードの会員たちも,教会員というのはあまり気張らなくても気楽にやっていけばいいのか,とそういう思いを持って,それぞれの方々が非常に,『柔らかい気持ち』を抱くようになってきたと思います。」

潟沼ご夫妻が甲府を離任する日。心づくしの弁当や子供たちの手作りクッキー,お花などが届けられて車はいっぱいになった。大勢に見送られ後ろ髪を引かれる思いで出発,中央高速道に乗る。少し走って気がつくと,だれが置いたのかペットボトルに入れて凍らせた麦茶があった。「わたしたちがきっとのどが渇くだろうと思って,ちょうどそれも半解凍で飲みごろになっていて。──そういう愛をたくさんわたしたちは受けましたね」と潟沼姉妹。

「……中央高速道を,ずっと泣いて帰って来た。」潟沼長老は思い出して涙ぐむ。「ほんとうに兄弟姉妹,家族と別れたという感じでね。」◆