35年越しのLove, Share, Invite

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ローカルページ1月号:35年越しのLove, Share, Invite

鈴木雅子さんは1968 年に奈良県で生まれ,幼少期に大阪,滋賀へと引っ越した。茶の間にある父の書棚には聖書物語や聖書が並んでおり,物心ついたときから聖書物語のきれいな絵に心引かれ,取り出してはページをめくった。人の創造やアダムとエバの堕落,出エジプトや金の子牛の話などが,柔らかい心に深い印象を残した。公務員だった父の転勤の影響で,雅子さんは短期間だけカトリック系の幼稚園に通ったことがある。父に連れられて,日曜日に何度か教会に行ったこともあり,小学1 年生のときには,「寝るときには枕元に置いて寝なさい」とマリア像とロザリオを買ってくれた。誕生日には本を選んで買い与え,大きな病気をしていたにもかかわらず,休みごとに史跡巡りに連れて行ってくれたのも父だった。

父と契約で結ばれていたことを思い出しました

まだ小学6 年で,冬休み最後の日のことだった。「すぐ病院に来なさい。」ずっと父に付き添っていた母から電話があった。状況がよくわからないまま,4歳下の弟と一緒に急いで病院に向かった。玄関に入ると,ロビーで若い看護師が自分たちを待っていた。「お父さんね,だめだったの。」彼女はそう言うと,幼い子どもたちを不ふ憫びんに思ったのか,声を上げてわーっと泣いた。その瞬間だった。「生まれる前のことを,ふわっと,全部思い出したんですよね。それは,頭の中にちゃんと情報があったのに,すっかり忘れていて,『あ,そうだった!』という思い出し方でした。父が早く亡くなる─わたしはそれを分かって父の子どもとして生まれてきたし,父とは契約で結ばれていて,ずっとつながれていたことも知っていた。周りの人とも約束を交わしていて,看護師もそのことを知っていたはずなのに,そんなに泣いてどうしたの?」心の中で問いかけた。病室に入ると,母も他の人も皆泣いている。父の身体にそっと触れるとまだ温かかった。「母も,父が早く亡くなることを知って結婚したはずなのに,どうして忘れちゃったの? と思いました。」別れは寂しかったが,それは約束されていたことなので,悲しいとか父が哀れだとは思わなかった。入退院を繰り返し,病に苦しみながらも,自分を愛し抜いてくれた父。「父の死によって,わたしが人生で学ぶべきこと,やるべきことが発動することも知っていました。」心を乱すことなく父を見送った。父は,四十九日までに数回夢枕に出てきた。顔と顔を合わせて会話ができたから,それは夢ではなかったという。自分が亡くなってもあっけらかんとしている娘を見て,父は安心した顔を見せた。最後に覚えている光景は,駅のホームだった。父は最後に汽車に乗り込み,一緒に行こうとする娘に「雅子はここまでね」と制し,去って行った。そこで父を見ることはなくなった。「父が亡くなって不利益はあったけれど,それはすべて大人になるためのサンドペーパー※ 1 でした。」真実を知っているので,父がいないことを悲観することもなかった。その後も家族は何度か引っ越しをし,母の故郷である金沢で高校1年までを過ごした。

※1─紙やすり。自分を磨くための訓練の意

先生は本物のクリスチャン

家族は,雅子さんが高校2年に上がる 前に千葉県に引っ越した。1 学年10 ク ラスを擁する公立高校での学校生活は 楽しかった。ある日の昼休み,「職員室 に行ったら,先生がお弁当の上に片手を のせてお祈りしてたよ。クリスチャンだか ら」と友達が教えてくれた。岡 おか 田だ 治 はる 之 ゆき 先 生は当時38 歳。生徒たちの間で「ティー チャー」と呼ばれ,慕われていた。「穏や かで,いつも微笑んでいらっしゃる。これ までそんな先生に出会ったことがありませ んでした。職員室に向かっているときも, 頭を上げて,本当に楽しそうに明るい感じ で歩かれるんですよね。」当時,先生と生 徒の間には厳格な距離があり,生徒と対 等な感じで接する先生などいなかった。 世界史に出てくるキリスト教にあまり良い 印象がなかったが,先生との出会いで温 かく明るい雰囲気を感じるようになった。 岡田先生は2 年間担任をし,英語を教 えてくれた。雅子さんは英語が大の苦手 だったので,机に突っ伏して寝てばかり。 良い生徒ではなかった。先生はそんな自 分を心配してくれるが,怒ることはなかっ たという。一方で,国語が大好きで,将来 は高校の国語の先生になりたいと思った。 しかし,大学受験をするが結果は不合格。 就職先も決まらないまま卒業式を迎える ことになる。 卒業式は好天に恵まれた。「もう,これ で学校に来なくていいよね。」教室は普段 通りの明るい雰囲気で,皆は席の横や後 ろを向いて,友達と談笑していた。やがて 先生が教室に入ってきて,教卓の前に立っ た。なんとなくがやがやと前を向いた生 徒たちは,最後のホームルームが始まる のを待っていたが,先生はうつむいたまま だ。どうしたんだろうと心配していると, 先生は絞り出すように,「慣れているはず なのに,どうしてこんなに別れがつらいん だろう」─言葉に詰まりながら涙ぐんだ のだった。ハンカチを取り出して目頭を押 さえたり,手で涙を拭う友人たち。皆がも らい泣きをしていた。「先生が,しかも男 の先生が泣くなんて……。すごい衝撃で した。生徒は誰一人泣いていないのに, わたしたちとの別れを悲しんで泣いてくだ さっている。あの瞬間に,皆の先生への 思いはマックスになりました。愛されてい ると思いました。」満たされた思いで母校 を巣立った。

わたしはなぜ捜されているのだろう

卒業後まもなく,家族は県外に引っ越すことになる。仲の良かった友人とは連絡を取り合っていたが,その頃は携帯電話もなければ,遠距離通話も高額だったため,連絡を取り合うのはもっぱら文通だった。卒業から2 か月ほど過ぎた頃,千葉県にいる友人から「先生が仲の良かった子たちに電話して,あなたがいなくなったと捜しまわっているよ」と,すごい勢いで電話がかかってきた。「あしなが育英会への奨学金返済の手続きは,ちゃんと済ませてきたし,支払いももう始まっている。何も捜されるようなことはしていないはずだ。わたしは何をやったんだろう。わたしはなぜ捜されているのだろう。」雅子さんは驚き,少し動揺した。すぐ電話をかけると,先生はこれまでと変わらない,優しく穏やかな声で,「今どうしているの?」と近況を尋ねた。もう新しいクラスの担任をしているにも関わらず,先生は進路が定まらず卒業して行った教え子を,ずっと気にかけてくれていたのだった。胸が熱くなった。これまで10 回以上引っ越しをして,転校も多かったが,これほど人として純粋に自分を心配し,大事に思ってくれる先生は初めてだった。こんな風に捜されたこともなければ,愛されたこともない。本物のクリスチャンだと感じた。十代の敏感な心には,上辺だけではない心からの関心によって,自分が価値のある存在だと思えたのだった。その後数年間,年賀状のやり取りがあったが,筆不精もあり連絡は途絶えてしまう。しかし,先生のことは時々思い出し,また会えますようにと祈っていた。

カトリック教会との出会い

雅子さんは29 歳で結婚し,幸せな生活を送っていた。その中でもずっと,父が連れて行ってくれた教会に行ってみたいなという気持ちがあった。子育てに手がかかる時期が過ぎたころ,雅子さんは行動を開始する。父と行った教会のたたずまいは覚えているが,転居が続いたので,場所の記憶は定かではない。途方に暮れたが,唯一の手がかりであるマリア像とロザリオがある教会を捜してみたところ,ようやくカトリック教会だと分かった。ふらっと立ち寄った金沢の教会堂で,雅子さんはずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。聖書物語では偶像礼拝はいけないと書かれていたのに,なぜマリア像があるのか。大量虐殺をした人は地獄に落ちるというが,それは本当なのか。キリストが生まれた月はどこにも書かれていないのに,なぜ12 月にクリスマスをするのか……。一つ一つの説明を受けて,納得できた。少しの疑問は残るが,拒否感や違和感はない。何よりも父の影響なのか,キリスト教にとても興味があった。2011年,雅子さんはカトリックの洗礼を受け,熱心な信者となり,奉仕にも励む生活が続いていた。

先生の教会について,いろいろなことを知りたいです

2019 年10 月,いつもはテレビを見ないのに,その日はたまたまテレビがついていた。大きな土砂崩れの様子が映し出されており,気になってテロップを見ると,そこは先生が住んでいた町だった。千葉市は9月に台風15号,10月には台風19 号と大雨が相次ぎ,甚大な被害を受けていたのだった。心配になり,すぐに同級生だった友人に電話をするが,先生は7,8年前に引っ越しており,誰も連絡先を知らないという。高校を卒業して34 年が経っていた。もう退職しているはずの先生の無事を祈りつつ,その年の暮れ,卒業アルバムに載っていた住所宛てに年賀状を出したのだった。2020 年元旦,岡田兄弟は昔の教え子からの年賀状を手にし,宛名を見て驚く。どうやってこの住所で届いたのか。神様の御手を感じた岡田兄弟は,「わたしはきっと,この子に福音を教えるようになる」,そう妻の綾あや子こ姉妹に語った。それから2 か月ほどは,手紙のやり取りの中で福音の話に触れられずにいたが,「自分たちからはレッスンを絶対勧めないようにする。きっと彼女の方からきっかけとなる言葉を言うから,モルモン書もそのときに送る。」信じて時を待った。それからまもなく,「先生の教会について,色々なことを知りたいです」と書かれた手紙が届く。「人が亡くなると神のみもとで永遠の安らぎを得ると教わったけれど,それならば,なぜ主の再臨があるのか,裁きはいつ行われるのかなど,どうしても自分の中で整合性が取れなくて……。」黙示録を読んでも分からないという彼女に,岡田兄弟は救いの計画の概要を伝えた。「矛盾がない!」雅子さんは一瞬で理解する。ミサで決まった祈りをすることについて,これが本当の祈りなのかという疑問もあった。「お祈りの定型文は,いつか誰かがしたお祈りであって,今のあなたの気持ちは違うよね。その人のそのときの気持ちでお祈りするんだから」の答えも腑に落ちた。恩師からの説明を聞いて,「あー,やっと分かった」と飢えが満たされていく感覚─今まで分からなかったこと,求めていたことが解決するかもしれない。さらに確かな福音の真実を求めて,雅子さんは教えを受けることを決意したのだった。

モルモン書への抵抗

2020 年3月,COVID-19 によるパンデミックのため,外国人宣教師は自国に帰り,残った宣教師でオンライン伝道を模索していたときだった。雅子さんは,岡田兄弟からゆうパックで送られてきたモルモン書や福音の原則など数冊の本を前にして,困惑していた。「本当は読みたくなかったのですが,ほかならぬ先生から送られてきた本なので,しぶしぶ読むことにしました。」特にモルモン書については強い偏見があり,聖書を切り貼りした本のように感じられ,かなり斜に構えたという。カトリック教会では役割も果たす敬虔な信者で,モルモン書に強い偏見を持ちながらも,それでも真理を探し求め,福音を自分から直接聴きたいという教え子─岡田兄弟は,本当に自分たちが福音を教えていいものかと思案した結果,以前から世話になっている井上龍一兄弟※ 2に相談することにした。「全然構わないですよ。会員はすべて宣教師だと教わっているでしょう。ですから福音を教えてあげたらどうですか。」即答だった。岡田兄弟も,彼女の福音のスタートを,自分たちに託されてもいいんじゃないかと感じた。週1 回,約3時間の携帯電話によるレッスンが,岡田兄弟と妻の綾子姉妹によって始まった。岡田兄弟は,日本に伝道部がまだ二つしかない時代に専任宣教師として伝道をした経験を持つ。綾子姉妹も,もっと伝道に心を注ごうと決意していた時期だった。夫妻は携帯電話のスピーカーフォンを使って二人で一緒にレッスンを行い,約半分ずつの時間を担当した。レッスンと言っても福音の話ばかりではない。歴史や政治など雅子さんの関心は広く,しばしば話は膨らんでいく。「レッスンは難しい言葉ではなくて,楽しい話をしているという感覚,分け合っているという感じでやっていました。」夫妻は雅子さんを自分の娘のように,「雅子」「雅子ちゃん」と呼ぶ。「教えることは苦痛じゃなくて喜びでした。考えながらよく聴いてくれて,受け入れていく。これだけ吸収してくれる子に教えることができるのは,幸せなことでした。」雅子さんも話をするのがうれしくて,その時間では足りないほどだった。ただ,モルモン書への偏見は根強かった。理由は10 年以上も前にさかのぼる。初めてカトリックの教会堂に入ったとき,雅子さんはたまたま廊下で出会った人に奥へと案内された。その人は「異端が3つあります」と言い,教会の名前を並べた。その一つが末日聖徒イエス・キリスト教会だった。雅子さんは自分でも事実を確認しようと,異端と名指しされた別の教会の人にも尋ねる。「モルモンはいい人だけど,自分たちで作った聖典を使っているので,異端です。気をつけてください。」その言葉と嫌悪感が心に焼き付いた。「岩のように硬い気持ちでした。レッスンが始まってからも偏見は続き,その気持ちはなかなか拭えませんでした。誰が何と言おうと,受け入れる可能性はまったくなかったと断言できます。」先生とのレッスンは楽しいが,モルモン書には強い抵抗感があり,なかなか読み進めない。葛藤を抱えながらもレッスンは続いた。岡田兄弟は「あれだけ聞く耳があるから大丈夫」とゆったりと構え,彼女を信じ続けた。

※ 2 ─元日本東京神殿会長

すべて良い木は良い実を結ぶ─突然,岩が崩れました

モルモン書への偏見に苦しみながらも,聖書の言葉が雅子さんの心にずっとささやきかけた。「あなたがたは,その実によって彼らを見わけるであろう。……すべて良い木は良い実を結び,悪い木は悪い実を結ぶ」※ 3「たくさんある教会が木だと考えました。わたしは先生という良い実を知っている。そんな人は他にいるだろうか。この実を実らせた教会は,きっと間違いないだろうと思いました。聖書の言葉を口にすることなく,キリストの光を感じさせてくれる先生のいる教会は,もしかしたら本物かもしれない。モルモン書は信じられないけど,先生がそうおっしゃるならそうかもしれない。わたしが出会った中で,こんなにクリスチャンらしい人は他にいないのだから。」恩師を固く信じて,心にまかれた種を捨てようとする底知れぬ力と必死で戦った。それでも,岩のようにかたくなな心は頑として揺らがなかった。カトリックに入るときもそれなりの決心をしたのだ。同じイエス・キリストを信じるのだから,あえて教会を移るほどでもないとも考えた。否定,嫌悪から入ったレッスン。岩が崩れるはずがない。そう思っていた。しかし─「ある日突然,穴がシューっと空いて,光が見えて,受け入れられるようになりました。」偏見や拒否が打ち砕かれ,教会のこともモルモン書のことも受け入れられ,バプテスマを受けたいと思うようになった。「一滴一滴の水滴のように,先生の言葉が心に落ちて行って,その岩にとうとう穴が空いた感じです」と譬える。「多分,乱暴なやり方では岩は溶けなかったと思います。それだと,後でひずみが来ますよね。先生の温かさ,優しさ,寛容さ,キリストの光,すごい忍耐がなければ,岩は溶けなかったと思います。

※ 3 ─マタイによる福音書7:16 −17

自分が清くなったことが分かりました

雅子さんは,引き受けていた役割を途中で放棄するのは無責任だと思い,12 月末までカトリックに通おうと思った。しかし,岡田兄弟から「未練は断ち切って,即移った方がいい」と勧められ,それに従う。あいさつに行くと,「残念だけど,あなたが決めたことだから。今までありがとうね」と寛容な言葉をかけられた。神父はどこの教会に行くのかと尋ねた後,「あなたがどこの教会に行かれても,神の道をまっすぐ歩めるようお祈りしていますね」と送り出してくれた。岡田兄弟は言う。「彼女には,責任感も力も人との繋がりもありました。でもイエスを信じたら,網を置いて,主について行くことですよね。彼女は本当に網を置いたんです。」2020 年10 月18 日,雅子姉妹は金沢ワードの教会堂でバプテスマを受けた。バプテスマ会には夫の鈴木重信さんも出席した。宣教師と会ったのはバプテスマ前の面接のときだけという,異例の改宗だった。「自分が清くなったことが分かりました。それは以前に受けた洗礼とはまったく違うものでした」と雅子姉妹は証言する。

信じていることを自然に表したい

岡田兄弟はいまだに不思議に思うことがある。「自分は未熟な人間。何が彼女に訴えたのか分からない。ただ真面目に一生懸命教えていただけなんですよね。彼女と1対1での会話は2 ,3 回,それもほんの一言二言ですから,びっくりしています。わたしのことを覚えていることすら驚きです。」教師として,取り立ててこうしたいということはなかった。「ただ伝道中に自分が教えてきたことに対して,自分も忠実に従っていきたいと思っていました。今度は自分が実践する番,試される番だと思って,必死だったんですね。自分が学んできたこと,信じていることを,毎日の生活の中で自然に表して行きたいな,と思っていただけだったと思います。」意図せず,声高にでもなく,「ごく普通で自然な方法で」※ 4 伝えられた福音の光。それは雅子姉妹を温かく包み込み,闇を払い,岩をも貫き通すほどの力も有していた。7か月間に及ぶレッスンの後も,勉強会はごく普通の会話の中で,今も楽しく続けられているという。

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2022 年10月,雅子姉妹は東京神殿に参入し,自身のエンダウメントを受けた。それまでパンと水にあずかれば十分だと思っていたが,イエス・キリストをより身近に感じる体験となった。幼いときに思い出し,人生を導いてくれた父との契約─それを永遠のものにするために,よく準備をして近いうちにまた参入したいと思っている。