リアホナ2014年12月号 非常時に即応する聖徒たちの助けの手

非常時に即応する聖徒たちの助けの手

─福知山広域水害,広島大規模土砂災害の現場に学ぶ,奉仕の業の実際

8.17 福知山水害

8月16日土曜日,岡山県東部から京都府にかけての一部の地域で,周囲が見えなくなるほどの豪雨が通過し,京都府福知山市で大きな被害をもたらした。

岡山県との県境の山間部では午前11時頃から雨が降りだし,雲の高さは300mほど,周囲の山の頂を隠し,地面を揺り動かさんばかりの激しい稲妻と雷鳴が響き渡った。この豪雨が京都府方面へと移動し,京都市の北西約60キロメートルにある福知山市を襲う。山間の盆地に位置する同市では24時間の降水量が,観測史上最多の303.5ミリに達した。福知山市街の脇を流れる一級河川・由良川の水位にはまだ若干の余裕があったが,市街中心部の複数の小河川があふれて排水が追いつかず,床上・床下合わせて4,400棟以上が浸水した。

この災害発生直後から翌週8 月25 日にかけて,大阪の複数のステークから兄弟姉妹がボランティア活動に駆けつけた。

8.20 広島土砂災害

同時期の8月19日から20 日未明にかけて,広島市の安佐南区,安佐北区が局地的な豪雨に見舞われ,50 数か所で相次いで土砂崩れが発生,多数の住宅がのみ込まれた。被災地はJR 広島駅から車で20 〜30 分ほどの山沿いの住宅地で,被害は全壊から床下浸水まで計408 世帯に上る(9 月9 日まで,広島市調べ)。子供から大人,お年寄りまで74人もの方が亡くなった。最後のご遺体が見つかったのは被災後1 か月目の9 月18 日であった。

ここでも,災害発生と同時に地元の安古市支部が,安否確認と被災者支援に即応し,広島ステークからも多くのモルモン・ヘルピングハンズ・ボランティアが被災地に入った。

ここでは,二つの被災地の事例から,いざというときに,支援の必要な人へどのように助けの手が差し伸べられるかをお伝えする。

◉ 助けの手を伸べる  

よきサマリヤ人のように─モルモン・ヘルピングハンズ活動が組織されるとき

大阪堺ステーク会長会顧問の尾崎昭彦兄弟は福知山市被災の報に接し,これは行く必要がある,と感じたという。「ステークで検討後,高等評議員の鈴木謙三兄弟に依頼して情報

の収集に当たりました。ボランティアセンターが立ち上がっていること,『すぐに人が必要だ』ということが分かりました。同時に教会管理本部からの情報と全国広報評議会からの呼びかけもあり,大阪堺ステークから7 人が(被災3 日後の)8 月20日(水)に出かけました。」

ステーク会長会が指示し,ステーク広報評議会と広報ディレクターが参加を呼びかけてモルモン・ヘルピングハンズ活動は組織される。全国広報評議会が後方支援をし,ヘルピングハンズについての情報※1 などをSNS ※2 を通じて提供する。

大阪堺ステーク─ 20日に参加した鈴木兄弟からは,「明日以降集められるだけの人をこちらに来られるように手配していただけませんか」と連絡があり,それを受けて翌21日(木),尾崎兄弟を含めた10人が現地入りした。「長靴,軍手などの比較的軽装の活動準備でした。被災地の方にお世話になるわけにはいかないので,弁当,水筒なども全部自分たちで準備し,自己完結型のボランティア活動でした。」

20日に現地入りした7人は,ボランティアセンターで割り当てを受けるまで約2 時間半かかったという。そこで尾崎兄弟らは,指示待ちではなく自分から積極的に動いた。「(ボランティア)登録の際,『自分たちで移動します。10人で来ています。すぐ行けるところを割り当ててください』と言ったところに,ある町内会長さんがちょうど,『すぐ来てほしい』と現れ,そこに行きました。

夕方には福知山地方部の地方部会長会の方がセンターにお礼を言いに来ていました。そこでは大阪ステークの会員にも出会いました。」

大阪ステーク─姉妹を含む6 人が,21日(木),23日(土)に参加した。「10人必要と言われていた作業の場所を6人で行いました。皆の頑張りがあったからこそできたことです」とステーク高等評議員の木村正治兄弟は語る。「作業は,被災した家の廃棄物の処理,4 トントラック3 回の廃棄物の積み込み,廃棄場での積み下ろし,2 件の家の家具出し,清掃,床板拭き,濡れた畳の撤去などでした。」

23 日には,「数件の家周りの溝掃除をしました。送ってくれた運転手さんによると,(暑さによる)体調不良や重労働などのため40 分ぐらいで切り上げるボランティアが結構いたことを教えてくださいました。教会からの参加者は大学生から60 過ぎの方。皆,腰が痛いと言いながらも,それぞれの体力に合わせて頑張ってくださいました。若い人たちもいつ倒れてもおかしくないというほどにフラフラで,作業はそれほど大変でした。」

大阪北ステーク─ 8 月25 日(月),4 人がボランティアセンターで割り当てられた地区へ入る。ステーク広報ディレクターの田中宏二兄弟は話す。「この辺りは,深い所では浸水が約2 メートルにもなったようで,近くの児童館ではホールの木床が浸水で膨張し,一部危険な状態になっていました。自治会長さんの指示により,使用できなくなった家具等を廃棄場所に運搬したり,被災したお宅の,泥で汚れた床を掃除したりしました。一度土砂が積もった所は,(拭いても)乾くとまた泥が浮いてきて落ちないんです。何度拭いても取れなくて大変でした。タオルを何度も洗いながら,相当根気強く擦り取らないと……。」児童館では,水をまきつつデッキブラシで泥を流していた。

すぐに飛び出して行きます

東日本大震災( 2011)のとき,仙台の現地対策本部へ緊急支援物資を最初に運び込んだのは大阪からのトラックだった。尾崎兄弟は,「阪神淡路大震災(1997 )の経験はやはり大きいのでしょうね。(あの時は)教会堂にすぐに物資トラック2台分が集まって,真っ暗な夜中の道を芦屋,神戸と進んで行きました。緊急時には(奉仕活動が)当たり前だという気持ちが生じていますね。スカウト活動をしているので,『災害派遣』もボーイスカウトで申請すると許可が早いですし……」と話す。「毎回ボランティアの要請があると何度か繰り返して参加してくださる方々もいますから,何かあったらすぐに飛び出して行きますよ,という気持ちは定着してきています。」

大阪北ステークから参加した千里ワードの福瀧徳明ビショップはこう話す。「現実に目の前で困っている人がいて,お祈りとか断食献金とかも大事なんですけれども,目の前で倒れている人を素通りして行くような感じがして……。よきサマリヤ人を思い出すんです。『ちょっとでも良いから,(自分のできることが何か)できないかなぁ』という思いで今回も参加しました。」さらに続けて,「こういうとき,若い方,元気のある方は後片付けも再建もできるのですけれども,一番困るのは社会的弱者,いわゆるお年寄りの方々ですよね。」田中兄弟も同意する。「独居老人の方々は,特に大変そうでした。」

尾崎兄弟も同様の経験をした。「老夫婦のお宅へも伺いましたが,『二人では何もできないんです』とおっしゃっていて,とても感謝されました。」

木村兄弟は言う,「ぼくらは奉仕する側ですよね。だけどぼくらが何かいっぱいもらったような気がします。」尾崎兄弟も実感を込めてこう語る。「ボランティア活動に行くと,汚れたり,少し危ないこともあったりするかもしれませんが,行くと元気をもらって帰って来ます。無理は絶対にいけませんが,可能な方は行っていただけたらな,と思います。途方に暮れた方々が喜んでくださるのを見るときに,命を頂いているような思いがしますよ。」◆

◉ 助けの手を伸べる

受ける側も助ける側も神様の力を感じて─広島ステーク安古市支部,危機的状況から安全な場所へ導かれた宮本ご夫妻,災害に即応して行動した西山支部会長

「 ぼくの人生の中で(あんな)雷を聞いたことがないですね。ピカッゴロゴロじゃなくて常に,光が止まらないというか。爆弾が投下されて炸裂するような音が至る所でドカンドカン」─広島ステーク安古市支部の西山勝支部会長はその夜の様子をこう語る。8月20日未明の広島土砂災害は安古市支部の地域で発生,何人もの支部の会員やその家族も被災した。

「(支部の会員の)宮本兄弟から夜中の3 時50 分くらいに,『土砂が崩れて玄関が開かず外に出られない』と相当緊迫した電話がかかってきました。」救助を求めようにも宮本家の電話からはつながらないという。西山会長が代わって警察や消防署に連絡を取った。しかし……「救助隊の方もかなり混乱している状態で,出動はしているけれど(被災地に)たどり着けないと。土砂が崩れて道も寸断されているので自分たちで命を守ってください,ということでした。」

安佐南区の県営住宅に住む宮本欣也兄弟はその晩,姉妹とともに床に就いていた。就寝時には雨はさほど強くはなかった。しかし夜中に,携帯への気象通報が頻繁に入り始める。「最初は30 ミリくらいの雨が降るという連絡があって,その次が80ミリ。次に100ミリくらいの通報が何度もあって。100ミリの雨といったらものすごい音がするんですよね。」あまりの雨の強さに宮本兄弟は浸水を心配する。1 度様子を見に行ったが大したことはないと横になった。しかし物音がするので気になり,外の様子を確認するため再び起き上がる。「玄関を開けようとしましたが開かないんです。これは大変だ,となったのですが真っ暗で動けない。明るくなるまで少し待ちました。」ここで宮本兄弟は西山会長に冒頭の電話をかけた。

「4時から5時頃,少し明るくなったのでベランダから下に降りて行きました。かなりの量の水が流れていて,そこを(姉妹と)二人で降りて安全な所まで行き,広島市内に住むわたしの兄に電話して迎えに来てもらいました。」

災害発生後,比較的早い段階で避難することができた宮本兄弟はこう語る。「最初はそんなに深刻に考えていなかったんです。物はなくなっても二人とも元気だし良かったかなと。でも家に行ってみると,1辺が2 メートルくらいの立方体の石が幾つもすぐ近くに転がっていたんです。あれが当たったら県営(住宅)の建物でも危なかったと,すごく怖くて言葉が出なかったです。」

後で思い返すと,避難のタイミングとコースも絶妙だった。「それしかないというタイミングで(家を)出ていると思います。(宮本ご夫妻の避難後に,)3回目の土砂崩れで家の中に泥が入ってきたんです。あのまま家にいたらパニックになったと思います。コースもここしかないんです。反対側は通れませんしね,他の道も全部通れないです。ここだけ比較的安全に通れる道があったっていうのは幸運でした。神様の導きだったと言えますね。」

ヘルピングハンズ始動

宮本ご夫妻が着の身着のままで避難している頃,西山会長は会員の安否確認をしていた。「朝の4時半くらいに皆さんにメールの一斉送信をして,住んでいる地域が今どのような状況にあるのかということの確認をしました。すぐに気づかれた方からは『大丈夫です』という返信がありました。明るくなって朝のニュースでテレビに(様子が)映ったとき,本当に大変なことが起きていることを知りました。」西山会長は,支部会長会や扶助協会の会長と連絡を取り合いながら会員の安否確認を続けた。同時に,地元・安古市支部としてのモルモン・ヘルピングハンズ活動を立ち上げる。

広島市は災害ボランティアセンターを設けて被災者の救援に当たっていた。しかし,「実は,わたしたち(ヘルピングハンズ)はボランティアセンターを通していないんです」と西山会長は言う。「センターの窓口には地域の方たちのための受付がありますが,手続きが終わるまでに2 時間から3 時間,長いときは4時間かかります。それでわたしたちは,必要に応じて会員の方たちのご近所を中心にボランティアに携わってきました。」

安古市支部ではまず,安否の確認を行うとともに,「今,何が必要なのか」を考えて行動した。「土砂の撤去作業から炊き出し,ボランティアの人たちの食事の用意,物資を買い出しに行って(被災した方の)家まで届ける,そういうことから始めました。」(西山会長)

援助を受けた宮本兄弟は感激の面持ちで語る。「(被災後)すぐにご飯を持って来てくれているんです。それはありがたかったです。いろいろな兄弟姉妹から,1週間くらい食べることを(心配)しなくてもいいくらい頂きました。」土砂の撤去についても「すごく助かっています。家中に泥が20 センチくらい積っているので,姉妹と二人でやってもどうしようもなかったですね。兄弟姉妹が10人近く来てくれて一気に出してくれたのですごく楽になり,荷物出しもそのおかげでできるようになりました。」

広島ステークからも援助があり,多いときには30人から40人で土砂の撤去作業に携わった。また地域の方々や大学生との協力もある。教会員を通してモルモン・ヘルピングハンズの活動を知った(教会員ではない)大学生が,それをライン※ 3 で発信し,多いときには20人近くのボランティアが集まった。広島市内からのボランティアも毎日何百人とやって来る。ヘルピングハンズも,一般のボランティアと交じり合って1週間,2 週間と土砂の撤去を続けた。

毎日のように働く被災現場から西山会長はこう語る。「今この地域に住んでいる人たち,避難所に行かれている人たちは24 時間ずっと大変な思いをされています。わたしたちがやっていることは本当に些細なことで,兄弟姉妹の皆さんも,今日やった作業がどれだけ役に立っているかつかみどころがない状況で続けているんです。でも地域の方たちと一緒になって心を一つにしてこの作業を繰り返していくことが一番大切なんじゃないかなと感じています。」

手を差し伸べる貴重な機会

大変な災害の中,主の力を感じる機会があった。支部会長会は対策会議の中で,教会から足の遠のいている会員も含め一人一人の名前を挙げて話し合いをする。その中に,被災地に住んでいたであろう一人の姉妹がいた。「(彼女の)住所がまったく分からなかったのですが,彼女をとても心配していた活発な姉妹があるときお店に行って,ちょうどばったりその姉妹とお会いしたんです。そこでお話をしたところ,涙ながらに『どうか助けてほしい』と言われて。」ヘルピングハンズはすぐに,その姉妹の家へ土砂の撤去作業に出かけた。「その姉妹を見いだすことができたんですね。この報告を(活発な)姉妹から頂いたときは神様の力をすごく感じて,まさに導きだなと感じました。そういう経験はたくさんあります。」

ヘルピングハンズ活動に出向いた先が期せずしてパートメンバーの姉妹の家だったり,嫁いで他県に行った会員の実家を訪ねて手伝うことができたりした。災害を境にして再び教会へ活発に集うようになった姉妹もいる。また, 英会話の生徒のある大学生がヘルピングハンズに参加し,会員との信頼関係を築いて9月にバプテスマを受けている。何より「安古市支部の兄弟姉妹が一丸となって,足の遠のいている会員に対しての援助作業を続けている。(援助)される側もさせていただく側も常に神様の力を感じている。そのことを皆さん強く思っていらっしゃるんじゃないですかね。」西山会長は,奉仕によって霊的な力を受け,会員の心も変化していると語る。「聖餐会でもこの災害から学んだ証が多いですね。その証を聞くことによってわたしたち会員一人一人の心が主に向いていきます。そして恐らく,この作業は長期的なものになっていくんじゃないかと思います。わたしたちは神様の息子,娘として,弟子として,心を一つにして,多くの人たちに助けの手を差し伸べる機会を頂いていることを感じています。」

土砂災害は多くの人命とともにあらゆるものをのみ込んだ。元の生活に戻るには長い時間が必要だ。実際,被災後2か月以上が過ぎた現在もボランティアの作業は続いている。

ヘルピングハンズの指揮を執り,被災した会員とそれを助ける会員の双方を目にしてきた西山会長は述懐する。─「いかに神様が常に助けの手を差し伸べてくださっているかを強く感じました。被災されている方々に対して,ステークや支部の多くの兄弟姉妹の方々がすぐに助けの手を差し伸べられたという貴重な経験をさせていただきました。わたしたちは(日頃)奉仕をするときに,何が必要かを考えながら,祈りを通して見いだしながら行うことが多いのですが,(この土砂災害では)まさに主がすぐに助けの手を差し伸べられたという感じでした。今,自分ができることを行っていったとき,御霊を通して助けの手を差し伸べることができました。それが今回,非常に大切な事柄だったと強く感じています。」◆