─改心のプロセスを永続させる デレック・リン・ウェスマン
Endureとは,まさに何かを耐えることですが,もう一つの一般的な意味は,「残る,あり続ける」。フランス語の古語にもeエンデュレルndurerという言葉があり, 「とどまる,耐える,許容する,維持する」などの意味があります。英語のendureのラテン語の語源は indurare ─何かを「固める」という動詞です。enは「(目的語を)その状態にする」,durというのは「固い」という意味なんです。「確固として堅固である」(ヒラマン15:8)という言葉ともイメージが響き合っています。何かが確固として堅固になると当然,ゆるぎないものになり,永く存続しますからね。
Endureの形容詞形はEnduring = 末永く存在し続ける。Enduring love = 永続する愛,といった表現もあります。だから,わたしの感覚では,何かつらいことを我慢するというよりも,「せっかく得た良い状態を保っていく」という意味だと思うんですね。第2ニーファイ9:24を見ると,「もし彼らが,悔い改めて神の御名を信じ……,またその御名によってバプテスマを受け……,最後まで堪え忍ぶことをし……」最後まで堪え忍ぶ(endure to the end)が登場する直前にはバプテスマがあり,endure が永く続くという意味ならば,バプテスマの状態を永く保ちましょう,という意味になります。 その鍵は,聖餐の儀式ですね。バプテスマを受けてからは,定期的に聖餐を取ることによってその良い状態を保つことができます。リングウッド長老は,教会員が家庭で聖文を学んでいて,個人の祈りをしていて,かつ,聖餐や神殿などの必要な儀式を受け続けていれば,これが個人のほんとうの改心(true conversion)であり,教会の真の成長(real growth)だとおっしゃるんです。
ただ,必要な儀式を受けつつ,神様のもとへ戻る道を歩むうえでは当然,試練に遭いますし,日本語訳の文字どおり堪え忍ぶ必要があるかもしれません。仕事でお酒を飲めと言われるような社会的な圧力に耐えて戒めを守る,とか。ところで,第1ニーファイ22:31には「あなたがたは,神の戒めに従順で最後まで堪え忍ぶならば,終わりの日に救われるでしょう」とあります。ここがおもしろいんです,英語では,「if ye shall be obedient to the commandments, and endure to the end, ye shall be saved at the last day.」(強調付加)となっています。英語の表現では,「戒めに従順で」,それに加えて(,and )endure to the end,と区切って書いてあります。わたしにはそれは,戒めを守って,なおかつ,聖餐などの儀式もしっかり受けましょう,ということに思えます。例えばバプテスマを受けた後,教会に一切集わないで,しかし神様の戒めを守っている状態だったら? それだけじゃ救われない気がするんです。人はいつも罪を犯しますし,そのために必要な儀式があるからですね。
東欧の共産圏で,かつて外国でバプテスマを受けたけれども地元に教会がなく,ずっと什
分の一をため続けて,何年も後に訪れた,神権の鍵を持つホームティーチャーに納めたという会員の話があります。※2 彼は最後には,神権の鍵をもってしかできない儀式を受けられるようになりました。それはものすごくうれしいことだったんです。だから,戒めを守ることも彼らにとって大切でしたが,教会でしか受けられない神権の鍵の行使や儀式を切に願っていたことが伝わりますね。それが,戒めを守る, and 必要な儀式を受け続ける(endure to the end)だった。多くの人が,戒めを守り続けること=終わりまで堪え忍ぶこと,と同じ一つの行動にまとめてしまっていますけれど,別々に考える余地が十分あると思うんです。
神権による儀式の力を得て「保つ」
Endure の名詞形は endurance です。これはスポーツ科学の分野では特に,人のスタミナを言う言葉です。マラソンといった,長時間にわたって運動を持続しなければいけないスポーツを endurance sportsと言います。その選手は endurance athlete と呼ばれるんです。英語で言う endurance は,「長い時間,頑張る状態を保つ」ことを表します。
聖文では,わたしたちが神様のもとへ帰る道を競技にたとえることがあります。「わたしは自分の行程を走り終え……」(使徒20:24),「人が自分の力以上に速く走ることは要求されてはいないからである。」(モーサヤ4:27)─マラソンのように,ダッシュしすぎてその後,挫折しないように,求められている以上にペースを逸脱せず,とか……そういった原則を踏まえつつ神様のもとへ戻ろうとすることは賢明じゃないですか。そういう意味で,わたしはこの endure to the end というのは良い表現だな,と思うんです。個人的に慰められますよね。
Endure to the end, 最後まで堪え忍ぶ(良い状態を持続する)には,そのためのエネルギー,Power(力)が必要です。そのpowerがどこから得られるのかというと,必要な儀式と,必要な学びと,霊的な経験,ですね。聖餐の儀式を受けているか否かは,持続する力と非常に連動していて,そのpowerを受けていないと堪えられなくなるかもしれません。教会という組織に神様の権能を与えて,そこで神権の鍵を管理し,必要な儀式を提供すること,それが教会の存在意義です。
家庭で聖文を学ぶことの力
けれども,リングウッド長老が言うには,最も大切な事柄が─儀式以外に─起きるのが家庭である,と。独身会員でも家族でも,家庭で聖文を学んでいれば,そして霊的な経験をしていれば,その人がほんとうの改心(true conversion)を続けていることが分かるんですね。教会でしか福音を学ばない状態が続くと─何もないよりはいいかもしれないけど─家族や個人にとっては,神様が用意されているほんとうの祝福にまでは届かない。人が真の
改心をするのに,教会が果たす役割はあくまでサポート,神権の鍵と必要な儀式を提供する役割だ,とリングウッド長老は言うんです。
それを聞いたとき,ああ,なるほど!と思ったんです。自分はいかに家庭のことをおろそかにしていたか─子供たちの福音の学びを教会の方に任せてしまっていたかな,と。(談)◆
福音を学ばない状態が続くと─何もないよりはいいかもしれないけど
─家族や個人にとっては,神様が用意されてい
るほんとうの祝福にまでは届かない。人が真の
改心をするのに,教会が果たす役割はあくまで
サポ
(強調付加)となっています。英語の表現では,「戒め
に従順で」,それに加えて(,and )endure to the end,
と区切って書いてあります。わたしにはそれは,戒め
を守って,なおかつ,聖餐などの儀式もしっかり受けま
しょう,ということに思えます。例えばバプテスマを受け
た後,教会に一切集わないで,しかし神様の戒めを守っ
ている状態だったら? それだけじゃ救われない気がす
るんです。人はいつも罪を犯しますし,そのために必要
な儀式があるからですね。
東欧の共産圏で,かつて外国でバプテスマを受けた
けれども地元に教会がなく,ずっと什
じゅう
分
ぶん
の一をため続
けて,何年も後に訪れた,神権の鍵を持つホームティーチャーに納めた
という会員の話があります。※2 彼は最後には,神権の鍵をもってしかで
きない儀式を受けられるようになりました。それはものすごくうれしいこ
とだったんです。だから,戒めを守ることも彼らにとって大切でしたが,
教会でしか受けられない神権の鍵の行使や儀式を切に願っていたこと
が伝わりますね。それが,戒めを守る, and 必要な儀式を受け続ける
(endure to the end)だった。多くの人が,戒めを守り続けること=終わ
りまで堪え忍ぶこと,と同じ一つの行動にまとめてしまっていますけれ
ど,別々に考える余地が十分あると思うんです。
神権による儀式の力を得て「保つ」
Endure の名詞形は eエンデュランスndurance です。これはスポーツ科学の分野
では特に,人のスタミナを言う言葉です。マラソンといった,長時間にわ
たって運動を持続しなければいけないスポーツを endurance sports
と言います。その選手は endurance aアスリートthlete と呼ばれるんです。英語で
言う endurance は,「長い時間,頑張る状態を保つ」ことを表します。
聖文では,わたしたちが神様のもとへ帰る道を競技にたとえることが
あります。「わたしは自分の行程を走り終え……」(使徒20:24)