仙台ステーク古川支部 浅野弘行・千代子ご夫妻
石巻市で独り暮らしをしていた義母のもとに近い,東松島市へわたしたちが引っ越したのは4年前です。海や川が近く,春は桜やアカシアが咲き,冬にはいろいろな渡り鳥が来るなど,自然に恵まれて散歩をするのが楽しみでした。200メートルほど歩くと内海の漁港があり,対岸の大きな造船所では2万トン以上のタンカーが進水するのを見ることもありました。─とても気持ちの良い素敵な所ではあったのですが,わたしたちがそこに住んだときから心に決めていたことがあります。「近々,宮城県沖地震が必ず起こると言われている。大きな地震が来れば,必ず大きな津波も来るから備えをしよう」ということです。
● ガソリンは半分以下にしないようにする
● 貴重品(通帳,印鑑)は持ち歩く
● 72時間キットをいつも玄関に置く
● 濡れて困る物は,できるだけジッパー付きのビニール袋に入れる
● ブランケット(毛布)を丸めて袋に入れ,懐中電灯,はさみなどを車に常備する
● ある程度の大工道具は車に入れておく
● 霊的面では,何事も受け入れ,従う心を養い,主に頼る気持ちを忘れない
3月11日は朝から雪が降ったりやんだりの寒い日でした。9時半に石巻にいる義母が鳴子温泉に行くのを見送り,4月から義母と一緒に住むためのマンションを借りる仮契約を済ませました。午後は,家から20分くらいの所にある教会員の花屋さんの手伝いをしていました。わたしだけが手伝うはずだったのですが,わたしの肩が痛く,主人にも手伝ってもらうことにしたのです。
仕事が一段落したとき,経験したことのない大きな地震に見舞われました。主人に促され,すぐ外に出ました。瓦や電線が落ちて来ない所で,独りで立っておれず主人と,思わずお互いに両手でしっかりとつかまり合って必死に立っていました。車が飛び上がるように揺れていました。見ている前で玄関の引き戸が外れて倒れました。3分ぐらい続いたでしょうか。大きな揺れは3回も繰り返しました。
やっと地震が収まったとき主人は,「とにかく家に帰って72時間キットを持ち出さなければ,それには途中の橋を渡らなければ」と思ったそうです。わたしはあまりのすごさに呆然として何も考えられませんでした。「とにかく家に帰ろう」と言う主人の声ではっとしました。急いで荷物を持って車に乗り,家に向かい,すぐにラジオをつけ情報を得ました。間もなく緊迫したアナウンサーの声が大津波警報を告げました。
あと5分で家に着くところで津波の第一波の情報,と同時にわたしたちの目に飛び込んできたのは,前方の海岸の方から逃げて来る車の列でした。その直後にカーブを曲がったとき,わたしは前方に異様な空気を感じました。淀んで重苦しいような,ピリピリと張り詰めたような,圧迫されたような,恐ろしい,近寄ってはいけないものを感じました。次の瞬間,「お父さん,家はあきらめて逃げよう!」と叫んでいました。主人は躊躇することなく,すぐに車を反転させて,来た道を内陸の方へひたすら走りました。あと30秒遅かったらUターンはできなかったと思います。
「あきらめよう!」の言葉と同時に,自分たちの家はだめになるという覚悟ができました。「今まで経験したことのない,何かとんでもないことが起こっている。」そう感じたとき,心の中に次の聖句が浮かびました。「あなたはまだヨブのようではない。」(教義と聖約121:10)主がジョセフ・スミスに語られた言葉です。わたしたちはヨブどころかジョセフ・スミスほどでもない。そして開拓者たちのことが頭に浮かびました。当然,開拓者ほどでもない。「彼らから見たら,今,わたしたちの経験していること,またこれから経験することは一時的で大したことではない」と思いました。そこでわたしの中で気持ちの切り替えができました。
東松島は平坦地です。少しでも高いところへ逃げた方がよいのではないかと考え,山の方へ行くため少し戻りかけたとき,坂の下のほうから赤黒い液体が坂を渦巻くように上って来るのが見えました。わたしは気づきませんでしたが,主人は「ビリビリ,バリバリというようなすごい音」を聞いたそうです。2台前の車はすでに前輪が津波に取られてスリップしていました。そこからすぐにUターンをして,またもっと内陸へ逃げましたが,後ろを振り返る勇気も心の余裕もありません。
けっこう離れてから,途中1か所だけコンビニが開いていたので,すぐに食べ物(お菓子しかありませんでしたが)と飲み物を買いました(銀行からお金を下ろしたばかりで,普段よりも多めに現金も持っていました)。自分たちが無事で津波から逃げていることを,離れている家族に逃げながらメールで伝えました。しかし,間もなく通信ができなくなり,次に連絡が取れたのは10日後でした。
不安は平安に変わりました
その夜は,途中で見つけたお寺の駐車場で一夜を明かしました。お寺では自家発電で外のトイレに電気を付けてくださり,とても助かりました。雪が降るとっても寒い夜でした。早速ブランケットが役に立ちました。車があってよかったと思いました。ガソリンも前日の夜に半分になったので満タンにしたばかりでした。
ラジオから次々に流される情報はあまりにもすごく,想像を絶する恐ろしいものでした。そんな中,わたしは自分たちがこうして無事でいられたことに感謝しました。石巻の義母が温泉に行っていたので,義母のことを心配せず自分たちのことだけを考えればよかったこと,多めに現金を持っていたこと,ガソリンがいっぱいあること,主人と一緒にいられたこと,通帳も印鑑も持っていること,食べ物や飲み物が買えたこと。神様はほんとうにすべてを御存じで,わたしたちが助かるためにいろいろな備えをさせてくださったと感じました。そして御霊の導きに素直に従ったとき,わたしたちは守られました。主の愛と贖いの力を感じました。なんて幸せなんだろうと思いました。そう思うと不安は平安に変わり,感謝の気持ちでいっぱいになりました。わたしたちはこのときからずっと平安と感謝の気持ちでいっぱいです。何よりもいつも御霊を感じ,神様や聖霊をいつも近くに感じながら毎日を過ごしました。
翌12日の夜,お寺の駐車場に戻り,この日も車で過ごしました。停電していたこともあり星空がとってもきれいでした。星空を見ながら,「家にあった物でないと困る物は何だろうか?」と主人に聞かれ,二人の出した結論は「特になくて困るものはないね」,「ほんとうに必要な物はそう多くはないんだね」でした。
わたしたちは少量のお菓子と飲み物で2日間を過ごしましたが,長期戦になるだろうし,食料や情報を得るにはどうしても避難所を見つける必要がありました。お寺の近くの区長さんが来られ,近くの新しく開設された避難所の大塩小学校のことを教えてくださいました。わたしたちが避難所に入れたのは3日目からでした。
シオンのような避難所
大塩小学校で約20日間を過ごしました。ここは近くの大きな避難所の付属扱いで,ほとんど物資も回してもらえませんでした。わたしたちが初めて頂いた食事は,8枚切りの食パンを3等分した一切れのパン,ウィンナーソーセージ2個とイチゴが2個でした。次の日はパンがその半分でした。それでもほんとうに感謝でした。小さい子供たちも育ち盛りの子供たちもだれも文句を言いません。また,次に食べ物がいつ届くのかも分からない状態でした。
夜中にふと目を覚ましたとき,小学校の先生方が入り口と後ろの方とに座って番をしておられたのでほんとうにびっくりしました。同じく被災され,学校の仕事もある先生方にご迷惑をかけないよう,それぞれ役割を決め自分たちで避難所の運営を始めました。5日目くらいから食料が少し入るようになりました。1食分がコンビニのおにぎり1個です。大阪から,賞味期限の翌日に届きました。県内の飛行場がすべて津波でやられてしまい,あちこち寸断された陸路を必死に運ばれたものでした。美味しくて感謝して頂きました。それでも翌日になるとぱさぱさになり,硬くて食べるのが大変でした。そこで皆で相談し,大きな鍋でおじやにしました。温かい食べ物に飢えていた皆さんです。「美味しい!!」と歓声が上がるほどでした。食物が思うように届かない中,多めに来たときは次の食事の分を蓄え,確保するようにしました。このように毎食工夫して楽しい食事の時間となり,少ずつ笑顔が取り戻され,明るさが出てきました。
待望の支援物資も届きました。洋服や毛布などです。全員がそろっておらず不公平になるので,皆がいるときに開けることにしました。こうして皆,公平に振る舞うようになりました。
ラジオ体操をし,掃除をし,新しく入って来られる方たちの受け付けや,家族や親戚を探して来られた方々の応対もしました。
主人は子供たちに声をかけ,皆一緒に仲良く遊ぶようになりました。教会での初等協会や青少年クラスの召しの経験がここでも生かされました。ある日,6歳のお誕生日を迎えたはるかちゃんという子がいました。普通なら家族やお友達とお誕生日をお祝いするのにと考え,朝食の前にお誕生日のプレゼントをして,全員でお祝いしたこともありました。
大切なものは守られた
4,5日たったとき,同じ地区の方に,「遠くからだけど浅野さんのアパートの屋根が見えたよ,残っているみたいだよ」と教えていただき,さっそく行って見ましたが,瓦礫に阻まれ近づくことができませんでした。1週間くらいして,片付けが進んだ所から歩いて,やっと家に行くことができました。玄関は開かず,裏の窓が開いていたのでそこから入りました。
家の中はごちゃごちゃでヘドロだらけ,畳が家具の上に乗っていたりして,手のつけようがない状態でした。それでも祝福文の入った小引き出しが畳の上に乗っており,少し汚れてはいましたがいちばんに取り出せました。また,家族歴史の資料一式も,多少泥は付いていましたが取り出せました。72時間キットのリュックも取り出せました。ガーメントなど,チャック付きの袋に入れていた物はすべてきれいでした。
教会からの愛と支援を受けて
10日たって,携帯電話がやっとつながるようになり,家族や教会の皆に連絡が取れました。それまで,家族はもちろん,「浅野家族は無事らしいけど,どこにいるか分からない」ということで,ほんとうに皆さんに心配していただきました。居場所が分かると教会や会員からの援助がたくさん届きました。また教会の指導者,仲間,懐かしい方,初めての方,ほんとうにたくさんの方の訪問をいただきました。物資が少なかったので,教会からの支援物資はほんとうに助かりました。歯ブラシ,ウェットティッシュがうれしかったのを思い出します。わたしたちは歯ブラシもなく,飲み水しかなかったので顔も洗えませんでしたから。
多くの野菜や果物,調味料やカセットコンロを届けてくださったことで,避難所では朝晩の食事で味噌汁やスープを食べられました。また,毛布などの必要な物資を届けていただき,避難所の皆さんはとても喜んでくださいました。「浅野さんの教会ってすごいね」と良い伝道の機会になりました。たくさんの方の訪問,たくさんの物資に,「浅野さんて何者?」という質問が出たほどです。また,教会の傾聴ボランティアとアロママッサージの方も来てくださり,親しく話を聞いてくださいました。ボランティアの方が帰った後で一人の方が,「どうやってお礼をしたらいいかしら?」と聞いてこられました。教会も教会員もお礼は一切受け取らないこと,皆さんが喜んでくださったらそれがいちばんうれしいこと,そして「もしお礼をしたいと思ったら,いつか助けを必要としている人がいたらその方に何かしてください。それが広がったら皆が幸せになるんじゃないかな」と伝えました。翌日彼女はノートを切ってお手紙を下さいました。「皆さんにほんとうに感謝しています。わたしもだれかわたしを必要とする人のためになれるように頑張ります……。」現在,彼女はたくさんの人のために働いています。
皆で協力し助け合ったことで,わたしたちはほんとうに楽しい避難所生活を送ることができました。それぞれ大変な問題は抱えていましたが,避難所にいるときは皆で料理をしたり,楽しく笑ったりおしゃべりをしたりして,まるで教会のキャンプのようでした。避難所が楽しかったことで,皆さん希望が持てるようになったと感じました。日本中探してもこんなに楽しい避難所はほかにはないだろうと思うほどでした。たくさんの友達ができて,今でも時々会ったり電話したりメールをしたり,1年後に皆で会う約束もしています。
主の望まれる奉仕の場
避難所生活も2週間くらい過ぎたころ,わたしたちは少し焦りを感じ始めました。「いつまでもこんなことをしていられない。」ほとんどの方たちは自宅を掃除すれば帰る家がありました。でも,わたしたちには帰る家がありません。どうしたら避難所を出られるか……。方法は浮かびませんでした。借りられるような家はありません。相談しようにも不動産屋も被害を受けていました。ずっとここにいなければならないのかと焦る気持ちの中,一つの聖句が頭に浮かびました。「シオンでのんきに暮らす者は,災いである。」(2ニーファイ28:24)─わたしたちだって早く出て何かしたいのに,こんなときにどうしてこの聖句なの……? 分かりませんでした。ますます悩むばかりです。
2,3日して長町ワードの兄弟から電話があり,「宣教師アパートが今,空いているのでそこに来ませんか」とのお申し出をいただきました。またわたしたちのホームワードの多賀城からも同様のお誘いをいただきました。ほんとうにありがたく,どちらに行こうかと考えましたが,どうしても決まりません,というより心が動かなかったのです。
悩んでいたときに,古川支部会長会顧問の兄弟から主人に電話がありました。「ボラン
ティアセンターのコーディネーターとして古川支部に来てほしい。もし引き受けてくれたら古川の宣教師アパートに住めるように手配します。」─ボランティアができる!避難所を卒業できる! 一気に目の前が明るくなりました。わたしたちはあの聖句「シオンでのんきに……」の意味が分かりました。また,前の二つの宣教師アパート入居のお誘いに心が動かなかった理由も,そのときはっきりと分かりました。
わたしたちはすぐに古川へ行くことを決め,準備を始めました。わずかに持ち出せた荷物をまとめ,引っ越しです。4月1日,主人は古川ボランティアセンターのコーディネーターとして活動を始めました。
わたしたちは震災前,義母がいるので,パートタイム宣教師になる計画を進めていました。わたしたちが古川に引っ越したのは主の御心です。きっと今はこの古川で働くことを主が望んでおられるのだと理解しています。わたしたちが住んでいた町や知っている所を少しでも良くしたいと,ボランティアに来られる皆様のご奉仕にほんとうに感謝の毎日です。ここでもたくさんの愛に触れる日々です。
古川に移って7か月。わたしたちは主の御守りの中,抱えきれないほどの祝福を頂いています。以前の生活以上に祝福されています。毎日,主の愛を感じ,御霊に触れ,平安と喜びに包まれています。わたしたちは,自分たちが頂いている祝福を一人でも多くの方にお分けできればと思い,これからもずっとボランティア活動※を続けていきます。◆
※編集室注:浅野ご夫妻は,古川ボランティアセンターの活動が9月に終了した後も個人的に,公的支援が届きにくい在宅避難者(半壊した自宅に住む)への支援ボランティアを続けている