七十人 青柳弘一長老
生活の中心にイエス・キリストがおられる
すべて の こと の 中 に 神 の 手 を 認めない 者 と,
神 の 戒め に 従わない 者 の ほか に,
人 は どの よう な こと に ついて も
神 を 怒らせる こと は ない〔。〕
(教義と聖約 59:21)
(記者)食事の祝福の祈りや,車で出かける前に祈る教会員は多いでしょうが,形式的,習慣的に行うものではなく,心の内面で主の手を認めていないと意味がないということでしょうか?
そうです。
そのときは,主をほんとうに愛している,主の愛を感じている,主を信頼している,その信仰が,心の大きな力になってくると思いますね。
わたしたちがこの地上に生活しているすべてのことは,キリストによって恩を受けて,キリストによって生かされている,すべてのものがキリストに頼っていると言ってもいいと思うんですね。これを御霊によって理解することがほんとうに必要です。
わたしたちは,キリストを通し,主を介在してすべてのことを行うことができます。ですからニーファイが言うように,不完全で無力な自分にはできないけれども,主がともにいてくだされば,そして主が命じられれば山をも動かすことができる,という信仰につながってくるのです。
学校で,友達のだれだれとうまくいかない,どうしようかと悩む。そういうときに祈って,キリストの贖いの力を受ける。自分の弱さを知って,贖いの力を受けて何とか乗り切ろうとする,自分の人生の様々な(困難な)局面を通じて贖いの力を感じる。そういう経験を積み重ねることで,キリストを身近に感じて,喜ぶことができるようになると思うんですね。
そしてなおかつ,キリストはわたしたちの不完全さから起こる罪をも,わたしたちが苦しまなくて済むように,身代りになってくださいます。罪だけではなくて,わたしたちの不完全さから起こる様々な苦しみや悲しみ,そして傷を負うつらさを癒してくださる,慰めてくださる。そしてわたしたちが試練に立ち向かうとき,試練に耐えられるように強くしてくださる。こういう,キリストの贖いの力が存在するわけですね。これを経験したら,わたしたちの生活の中心にキリストがおられることが理解できてくると思うんです。
ニーファイはそのことを,第2ニーファイ25:26の中で言っています。キリストの贖いのことを話し,キリストの贖いを喜び,キリストのことを教え……わたしたちの毎日の家庭の中で夫婦で,また親子で,いつもキリストの贖いについて語り合う。わたしはキリストによってこんなに贖われている,キリストにこんなに愛されている……そういう,キリストの贖いの喜びをお互いに分かち合うことができる。また,一緒に聖典を読んでキリストのことをほめたたえる,キリストに感謝をする……こういうことが家庭や,教会のすべての組織の中で行われるようになることが,一つの大きな,理想的な目標だというふうに思いますね。◆
20 ……あなたがた を 造り,あなたがた を 守り,あなたがた に 喜び を 得 させ,……
21 ……あなたがた が 自分 の 意 の まま に生きて 動き,行動 できる よう に
あなたがた に 息 を 与えて 日々 守り,
いかなる 瞬間 に も あなたがた を支えて くださって いる 御方 に,
たとえ 全身 全霊 を 尽くして 仕えた と して も,
それでも なお,あなたがた は ふつつか な 僕で ある。
22 見よ,神 が あなたがた に 要求 して おられる の は,
神 の 戒め を 守る こと だけ で ある。……
神 は 一度 言われた こと は決して 変更 されない ので,……
24 ……あなたがた が命じられた とおり に 行う なら ば,
神 は すぐに祝福 を 授けて くださる。
また 現に これまで,あなたがた に 報いて くださった。
その ため に あなたがた は,今 も 神 に 恩 を 受けて いる し,
これから も とこしえ に
いつまで も 恩 を 受ける で あろう。……(モーサヤ 2:20−22,24)
わたしたち は キリスト の こと を 話し,
キリスト の こと を 喜び,キリスト の こと を 説教 し,
キリスト の こと を預言 し,
また,どこ に罪 の 赦ゆるし を 求めれば よい か を,
わたしたち の子孫 に 知らせる ため に,
自分 たち の 預言 した こと を書き記す の で ある。
(2ニーファイ 25:26)