リアホナ2011年3月号 信仰の風景 初めての選択

信仰の風景 初めての選択  

大阪北ステーク高槻ワード  義村彩加(よしむらさやか)姉妹

わたしの信仰はまだ完成されているとは言えませんが,わたしが今,教会に来ることができている一つの選択についてお話しします。

わたしが高校生のとき,初めてテニス部に入りました。高校1年生の春,初めての試合が日曜日にありました。

今まで日曜の運動会を何回も休んだりしていたのですが,今回ばかりは,なぜかすんなりと教会を選べなくて,試合の開会式のぎりぎりまで迷いました。

そのときはいろいろな思いが浮かびました。

「これはサタンの誘惑だ。」

「でも教会を休んで部活に行って,高校を卒業したらまた教会に行って。そうやって教会を続けている人だってたくさんいる。その人たちは教会も部活もどちらも取ってずるい!片方を犠牲にしてつらい思いをするのは不公平だ! わたしだって教会に戻れる自信がある。」

「でも,もし今,試合に行ったら,高校生活3年間のうち,教会に行けなくなる週が出てくる。それでもいいのか? 今までのわたしの努力や我慢したことはどうなるのだろう? 神様にも見捨てられるかも。」

「それに今,試合を優先したら,わたしの選択の基準が変わって人生のすべてが変わってしまう気がする。どうしたらいいのだろう。」……

それまで日曜の運動会などを休んでいたのも,両親の言いなり98パーセント,自分の意思2パーセントという感じで,理由も自分の信仰ではなく,「親に言われているから」でした。しかしこのときは「彩加の選択に任せる」と言われました。

─初めて,自分の選択をする時が来ました。

このように悩む前にお祈りもして,悩んでいる間,聖典も開いていました。母も「こんな聖句があるよ」と読ませてくれました。わたしの頭の中にも,安息日を守ること,神様を優先すること,人生の目的,いろいろな聖句が浮かんできました。でも,そのときはどんな聖句にも力を感じず,すべてから切り離されている感じでした。

最終的に,「……人が存在するのは喜びを得るためである」(2ニーファイ2:25)という聖句と,「神様を信じて耐え忍ぶ者だけに与えられる喜びがある」という感じの言葉がわたしの心に留まりました。

「神様の言う『喜び』ってどういう意味だろう。それはわたしが仲間や先生とテニスをするとき感じる喜びよりもいいものなのか? この3年間,日曜日の大事な試合を休む『つらさ』以上のものを与えてくれるのか?」それを知りたいと思いました。

「その喜びが分かるまで,神様の言っているとおりにしてみよう。もしそれでも何もいいものがないと分かったら,そのときはこの教会をやめてやる!」

こう決意して,高校の3年間,最後の大きな引退試合にも出ることなく,今も教会に来ています。神様の言う喜びがはっきり分かったわけではありません。でも,テニスの合宿を途中で抜け出して参加したワードで証を聞いて, 御霊に満たされ涙が止まらなかったり,日曜日に教会に来てよかったと思うことがたくさんありました。

このような経験ができたのも,わたしが迷っている間,プレッシャーをかけるでもなくそばで見守ってくれたり,合宿中も教会に行けるよう送迎してくれたりした両親や妹たちのおかげです。家族に感謝します。彼らがいなかったらわたしの決意は実行できませんでした。

これからも,インスティテュートなどに出席しながら信仰を増し加えていきたいと思います。◆