マグニチュード9.0
1,000年に一度の災害といわれる東日本大震災そこに住む会員は,宣教師は,霊的な側面も含めてこの大惨事の中に何を見たのか─今月より長期連載でお伝えします。(編集室)
- 宮古支部
日本東京神殿にて─
その日,そのときにそれが起きるとはだれも予想していなかっただろう。2011年3月11日午後2時46分。東京神殿では2時半のセッションが始まったばかりだった。盛岡地方部宮古支部の扶助協会会長である佐々木敏枝姉妹はエンダウメントの部屋で強く長い揺れを感じた。儀式は中断,40人ほどの参入者はまず壁際に寄るよう指示され,揺れが収まるといったん部屋の外へ誘導される。神殿会長会が安全を確認し,セッションは再開されるも,また強い余震を感じて再度の中断となった。堀田徹神殿会長から状況説明がなされた。震源は宮城県沖,マグニチュード8. 8*……どよめきが上がる。東京でこれだけ揺れたのに,まして東北ではいかほどか─。シャンデリアなど落下する恐れのあるものの下には行かないよう指示され,細心の注意を払ってセッションは継続されたが,その間に何度も余震の揺れを感じた。─この日,新幹線をはじめとする東北地方への交通路はすべて不通となり,佐々木姉妹は1週間にわたって東京に足止めされることとなる。
岩手県宮古市─
同時刻,岩手県宮古市では専任宣教師の栗田昇理長老と同僚のディック長老が新会員を訪問していた。胸ポケットに入れた携帯電話に地震速報が届き,栗田長老が画面を見た瞬間,これまで経験したことのないような強烈な揺れを感じた。
「仙台伝道部には,ブルーブックと呼ばれる緊急時のマニュアルがあります。前日の10日にゾーン大会があり,地震や津波が生じたときの対処方法を宣教師たちは勉強していましたので,焦りはまったくありませんでした。神様の守りがあったのだと感じます。ブルーブックに従って,アパートに戻りガス栓を閉めました。」アパートのそばの閉伊川河川敷を真っ黒な津波がさかのぼり,車が流されていく。黒いのは,破壊された港のタンクから流出した重油らしい。きつい異臭によってせき込む二人。
ブルーブックに従って避難した小学校には一つの教室に50人ぐらいの人がいた。「そのほとんどは子供たちでした。」夕方になって支給されたのはせんべい2枚だけ。そのとき,宣教師アパートの中に食糧を買い置きしていたことを思い出した。毎日伝道していた美しい宮古の町は一瞬にして破壊されていた。がれきに覆われた町並みに目を疑う。アパートは,1階部分が天井まで水没したらしく,自動車が突っ込んでめちゃめちゃになっていた。幸い,2階にあった長老たちの部屋は無事だった。スパゲッティーなどの食材を持ち出して宮古支部へ向かう。
「教会堂は閉伊川のそばにあったので,津波で流されたと思っていました。しかし,同僚と見に行くと,驚いたことにまったく震災の影響を受けていませんでした。教会堂から20メートルほど離れた所は甚大な被害を受けていましたが,さらに驚いたことに,宮古支部の教会堂は,水道,ガス,電気が通じていたんです。周囲の家屋のライフラインが寸断されているにもかかわらず,宮古支部だけはいつもと変わらない状況でした。」二人が教会の冷蔵庫の中を確認すると,多くの食材が保存されていた。さっそく肉を焼き,スパゲッティーをゆで,その食事のすべてを小学校の教室に避難している子供たちへ届けた。
「食べ物を分かち合ったことも喜ばれましたが,子供たちを相手に避難所で英会話教室を開いたことも大変喜ばれました。わたしたちが宣教師であると説明しなくても,様々な機会にそれを宣言する機会に恵まれました。しばらくして支給される食料の中には,お茶やコーヒーもありました。その度に,知恵の言葉の戒めや,神様を信じていることを語り,よく理解してもらいました。避難所にいたとしても宣教師として働くことができました。」
夜になって毛布が配給されたが,子供たちに行き渡る程度しかなかった。「わたしたちは最初,床に寝ようとしたのですが寒すぎました。」避難所の小学校を離れ,栗田長老とディック長老は暗がりの中,自分たちのアパートへと向かって行った。
「アパートへ続く道を探していたときのことです。大きな道を歩いていると,突然,わきへ続く民家の駐車場の方へ行くべきだとわたしも同僚も感じました。進むのが難しい所でしたが,先へ進むように御霊の促しを受けました。10メートルぐらい歩くと,よどんだ大きな水たまりがあり,進むことはできませんでした。しかし,そこへとどまるべきだという強い思いが込み上げてきたんです。わたしはバッグから小さな懐中電灯を出し,前方を照らしてみました。すると,さらに10メートルぐらい先に同じような小さな光が見えました。わたしたちの光に気がついたのか,助けを求める声が聞こえてきました。」
栗田長老とディック長老は消防団や警察官を捜しにいったが,周囲にはだれもいなかった。小さな光の中で助けを求める人と自分たちの間には,入るのをためらう黒い液体のたまりが広がっていた。「二人で顔を見合わせると,水の中に思い切って一歩を踏み出しました。水面下には何があるのか分かりませんでしたが,とにかく踏み込みました。」救助されたのは90歳ほどの男性だった。彼を避難所まで運ぶと二人の宣教師は名前も告げずに立ち去った。「もし,わたしたちが御霊のささやきに従うことなく大きな道を進んだら,衰弱する中,助けを求めていた人には出会わなかったと思います。」
見れば,ディック長老の足からは血が流れていた。汚れた水の中に踏み込んだときに瓦礫かワイヤーでけがをしたものだった。「消毒することもなく,病院へ行くこともなく,そのままにしておいたら治りました」とディック長老は笑う。そして,被災した人たちを思い出すように「そんなけがは大した問題じゃありません」と話す。
ぬれた服のまま,いすに座り目だけ閉じて朝を待ち続けた。「寒くて寝ることはできませんでした。」朝になって支給された食事はおにぎりが一つ,それを二人で分け合って食べるような状況だった。それでも二人の宣教師にとって避難所にいることは心を悩ますことではなかった。「福音のおかげで,いつも平安を感じていました」と栗田長老は話す。
しかし3月16日,伝道地の宮古を離れて盛岡へ移動するようにと連絡を受けたことは,栗田長老やディック長老にとって大きなショックだった。「愛する人たちを残して伝道地を離れたくありません。しかし,宣教師なので命じられるままに行動しなければなりませんでした。」一時的に盛岡へ移動した栗田長老たちは伝道部会長へ何度も電話をした。「伝道地へ返してもらえないでしょうか。」そのたびに,建岡伝道部会長は「残念ですが,それはできません」と返事をした。
「それは,わたしたちだけではなかったと思います。仙台伝道部で働くすべての宣教師がそのような思いを持っていたと思います。」伝道地へ残りたいと願う宣教師を説得したのは,地元の会員だった。「わたしたちは宣教師を愛しているので,ぜひ, あなたたちには,命じられる場所へ移ってほしい。」その言葉に押されるように,すべての宣教師は後に札幌伝道部へと旅立った。
「札幌へ着くと,地域会長会の崔長老,建岡伝道部会長,札幌伝道部のダニエルズ伝道部会長によって特別な大会が開かれました。そこでもまだ,多くの宣教師は自分の伝道地へ戻りたいと願っていたと思います。心の整理がついていない宣教師たちへ,3人の指導者は愛情を込めて語ってくれました。全員の宣教師が涙を流し,建岡会長と一人一人が抱き合いました。そして,それを境に,全員が札幌伝道部の宣教師として熱心に働く決意ができました。」
「あなたたちが伝道地から離れたくないのはよく分かります。しかし,これは主の預言者からの召しです。」3人の指導者から語られたその言葉は,宣教師たちの心を奮い立たせるものだった。
「わたしたちは,会員や求道者の愛情に後押しされるようにして伝道地を変えました。伝道部から一時的に離れることを願っていた宣教師など一人もいません。わたしたちが旅立った理由は一つしかありません。それは,主の預言者の召しだったから。それだけです。」宣教師として,行けと命じられればどこへでも行き,その土地の人々を愛する。それが宣教師の召しだ,と栗田長老は言う。そして,地震と津波は「自分たちの中にも大きな変化を与える経験でした」と語ってくれた。
佐々木姉妹は1週間後の3月19日,秋田空港から盛岡を経由してようやく宮古市に帰った。そのときすでに,金沢から緊急支援物資を満載した2トントラックの第1便が来ており,盛岡から先は佐々木姉妹の車が先導して宮古支部を目指した。「ほんとうに教会の方の対応が早かったので助かりましたね,特に最初に来てくださった金沢ステーク,その日と次の日の2台がすぐに来て,すごい!ってびっくりしました。食べ物,飲み物,着るもの,トイレットペーパーから何からこの部屋にいっぱいになるくらい積んで来ましたね。」数日後には教会から布団や灯油,軽油なども届き始める。これらの物資は宮古支部の会員のみならず,介護施設や避難所,また生協の支援物資提供コーナーを通じて広く市民に配布された。「奇跡的」に無事だった宮古支部の教会堂はその後,唯一の沿岸部の支部として,支援物資受け入れやボランティアセンターにと大きく活用されることとなった。
─今,宮古支部の玄関のガラス戸には,金沢から送られた応援メッセージが感謝を込めて張り出されている。◆
- 一関支部
岩手県陸前高田市─
岡田美智恵姉妹は保育士で,岩手県陸前高田市の実家から,隣の大船渡市の,高台にある保育園に通っていた。あの日の午後2時46分,子供たちをそろそろお昼寝から起こそうかという時分に最初の揺れが来た。パジャマ姿の子供たちに「お布団かぶって待っててね」と話しかけるもなかなか揺れが収まらない。「(外に)出なさい」と園庭から園長先生の呼ぶ声がした。保育士も園児も裸足のまま小雪の舞う園庭へ出る。ただならぬ地震に驚き,3時過ぎには親御さん方が次々と迎えに来る。しかし,すでに津波が押し寄せて低地には帰れなくなっていた。
岡田姉妹はその晩,帰れない子供たちとともに避難所の小学校の教室で過ごした。ストーブもなく夜はひどく冷え込む。園からありったけの布団を運び,折り重なるようにして休んだ。「早く夜が明けてほしい反面,明けたら現実を見るのが怖いね,という感じでした。」
交通路も寸断されており,翌日昼過ぎにやっと陸前高田市に入ることができた。
実は地震の直後に,両親から岡田姉妹の携帯電話へメールが届いていた。(少し高台にある)親戚のところに避難している,と。その後すぐ携帯は不通になったが,さほど心配はしていなかった。ところが帰ってみると,その親戚宅まで津波で傾いている。「ここまで来てしまったんだ,とわたし自身すごくショックを受けて。」大げさでなく,かつて確かにそこにあった陸前高田の街は文字どおり消滅していた。「 もうほんとうに何もなくなっていたんですよ。だだっ広い,どこまでが海でどこからが街か分からない状態で。……何か,悲しいでも苦しいでもなくて,何の感情もないというか。」 空っぽの街を見て心まで空っぽになってしまったかのようだった。
幸いなことに家族とは無事に再会でき,親戚にも亡くなった方はいなかった。しかし,市役所の職員だった親友は亡くなった。この正月に同窓会で再会したばかりだった。「言葉がなかったですね。」遺体が見つかったとき首から下げていた職員証が泥だらけで添えられていた。「どんなに苦しかったんだろうな。」洗面器に温かいお湯を入れ,彼女のご主人と一緒に職員証を洗った。
岡田姉妹の家は海岸から歩いて10分もかからない所にあり,夜,眠っていると波の音が聞こえるほどだった。向かいには姉の家族が住んでいた。それらの家も家財も,土台だけ残して根こそぎ津波にさらわれてしまった。けれども岡田姉妹はあっけらかんと言う。「これまでほんとうに無駄なものに囲まれていたなあ,と。」そしてしみじみと自身の状況を振り返る。「わたしは主に愛されている,恵まれていると感じます。わたしにも姉にも義兄にも仕事はある,車もある,家族も無事,失ったのは家だけです。」避難所には家族を失い,職場を失い,明日の暮らしの目処も立たない被災者も少なくない。─岡田姉妹は自問する。「わたしにできることは何だろう。」
「震災の前に夢を見ました。宣教師に召される夢でした。(夢の中で)すごくうれしかった反面,『この年齢で宣教師なんて……』と現実的でないと思う自分がいるんです。」
岡田姉妹は夢の意味を思い巡らし,「先祖に伝道することかな?」と系図資料を取り出した。その数日後に地震と津波が来たのである。
今,陸前高田市の山手にあるスポーツ施設を転用した避難所に家族で暮らす岡田姉妹。ここから保育園へ毎日通勤している。夕暮れ時に避難所へ帰って来ると駐車場では炊き出しが行われている。玄関前を駆け回っている小学生の男の子に「今日は楽しかった?」と明るく声をかける。保育士としての経験を生かして岡田姉妹は避難所の子供たちと積極的にかかわり,それとなく彼らをケアしている。「お父さんを亡くした子が何人もいるんです。」
「人には役割があります」と岡田姉妹は言う。もちろん避難所には役割分担があり,岡田姉妹は清掃班に属している。しかしそれだけではなく,「周りの模範になること,子供たちやお年寄りに声をかけること」を毎日の生活で心がけているという。教会からの物資の寄贈を通じ,岡田姉妹が教会員であることはこの避難所で広く知られるようになり,好意的に受け止められている。
そうしてあの夢,宣教師に召されるとは「このことだったのかなあ」と今,岡田姉妹は思い返している。
バイクの奇跡
4月の総大会の最初のお話で,モンソン大管長は東日本大震災に触れてこう話した。「会員たちは,車で行くことが困難な地域には,教会が用意したスクーターを使って支援を提供しています。」*─このスクーターの支援は,岩手県一関市から送られた1通のメールに端を発している。3月16日未明の午前1時19分,ようやく電気が復旧した一関支部の山崎弘貴支部会長のパソコンから安否確認報告とともに発信されたメールである。
「支部の必要性としては,大量のガソリン。そして燃費のいいスーパーカブ等のバイク……支部会長として,13日(日)と15日(火)は,陸前高田市および気仙沼の会員とスーパーカブに燃料を積んで連絡を取りました。しかし,スーパーカブ(借り物)も壊れ,津波被災地域への連絡方法も絶たれました。支援願います。」
一関支部は,地方部の多くのユニットがそうであるように広い地域にまたがっている。一関市から沿岸部の気仙沼市までは約50キロ,陸前高田市までは70キロほどもある。震災後の停電と断水,極度のガソリン不足の中で,会員の安否確認のため山崎会長が取った交通手段は,燃費のいい原付バイクだった。
3月13日の安息日,聖餐会だけの集会を終えた山崎会長は,それまで安否確認の取れなかった岡田姉妹を捜索するべくバイクで陸前高田市へと向かう。震災発生の前日にたまたま給油し満タンだった車のタンクから,ホースを使って吸い上げた少量のガソリンをペットボトルに移し, バックパックに背負って出発する。
陸前高田市にたどり着くも岡田姉妹の自宅方面はがれきにふさがれ近づけない。「ある日突然に津波ですべてを持って行かれるわけですからね。どこに何があったかも分からない。もうぐちゃぐちゃになってしまっている。あれを見たら,被災者の方のために何かしなければと思いますよね。しかし,ガソリンがないと人を助けられないな,と痛感しました。」
そうした状況で山崎会長は,彼自身が「奇跡」と呼ぶ経験を何度かすることになる。
広い陸前高田市でしらみつぶしに避難所を回り,ようやく岡田姉妹の名前を名簿に見つけたのは夜9 時を回ったころだった。遅い時間で岡田姉妹との面会はかなわなかったがまずは一安心,いざ帰ろうとしたとき,バイクの燃料計がゼロになっていることに気づく。「これは絶対家までたどり着けないと観念したんですよ。」仕方なく,背負っていたペットボトルからなけなしのガソリン500ccほどをタンクに移し,行ける所まで行こうと考えた。ところが─「一気に入れたら,メーターがするすると満タンまで行ったのにはびっくりしましたね。」タンク容量は3リットル以上ある。
帰り道をたどりながら山崎会長の心にあったのは,「岡田姉妹,生きててよかった!」という思いと,イエス・キリストがパン5つと魚2匹を分け与えて約5千人の群衆の必要を満たされた奇跡(マタイ14:15−21参照)だった。
3月15日(火)に山崎会長は気仙沼市から陸前高田市を回った。夜になって帰ろうとしたときバイクの後輪がパンクしてしまう。交通手段はほかにない。タイヤのゴム部分が外れて車輪に絡まるので,付近の民家で工具を借りて取り外し,ホイール(車輪の金属部分)だけで走っていく。けれどホイールを支えるスポークがばらばらに外れ始め,20キロほど行った峠の頂上手前付近でとうとう壊れてしまった。停電中のことであたりは漆黒の闇に包まれており,雪まで降っている。「とぼとぼとバイクを押しながら,その心細いこと……。」数十分が過ぎたそのとき,1台の車が通りかかる。山崎会長は道路に立ちふさがるようにして大きく手を振った。そうして3台の車をヒッチハイクで乗り継ぎ,一関市まで帰って来た。
伴侶の山崎由理恵姉妹は家で気をもんでいた。「絶対に日が暮れる前に帰って来てって言ったのに,帰って来ないんですよ。まだ津波警報も出ている中,がれきもたくさん,雨や雪も降っていて,すごく心配しました。」ようやく11時過ぎに帰り着いた山崎会長の打ったのが件のバイク支援要請メールであった。─ちなみに数日後,山崎会長が支援物資を積んだトラックで陸前高田市へ赴いたとき,地域のガソリン不足のためか,往復3時間の道のりですれ違った車はわずか20台ほどだった。「よくあれで,しかも夜中にヒッチハイクできたなあ」と山崎会長は改めて驚く。「でもそのころから, 何があっても無事に,けがもなく生きて帰って来られるな,神様の守りがあるな,というのは感じていました。」
「『主が雨を地のおもてに降らす日まで,かめの粉は尽きず,びんの油は絶えない』とイスラエルの神,主が言われる……。」(列王上17:14)後に山崎会長は支部の会員の前で証した。「自分のためにガソリンをを使ったら,すぐなくなります。でも,他人を助けるために使ったなら,それはなくなりません。」
宮城県気仙沼市─
気仙沼市在住の吉城由美子姉妹はJR南気仙沼駅の近く,気仙沼湾の岸壁から数百メートルの地域に住んでいた。揺れを感じたとき,最初はすぐに収まるだろうとお茶などすすっていた。が,だんだん揺れは激しくなり,物が落下してくる。「これは尋常な揺れじゃない」と直感した。看護士をしている夜勤明けの娘さんが飛び起きてきた。「母ちゃんこれはだめだから逃げろ!」足が丈夫ではない吉城姉妹はそろそろと立ち上がり,ベランダの手すりにしっかりつかまって揺れが収まるのを待つ。けれど待てども収まらない。まだ揺れているうちに大津波警報が鳴り出した。吉城姉妹は足の痛みも忘れ,大急ぎで保険証,年金手帳,預金通帳,現金など生活に必要な最低限のものをかき集め,最後にガーメントを一そろい入れて,地震発生から5分ほどで車に飛び乗った。娘さんの運転する車と2台で1.5キロほど先の高台にある気仙沼市民会館を目指す。後ろの娘さんの車を確認しながら進んだが,途中で見失ってしまった。気は焦っていたが1度わき道で車を止め,娘さんの車が現れるのを待った。しかしなかなか来ない。よほど戻ろうかと思ったそのとき,創世記にあるロトの妻の話を思い出す。「うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。」(創世19:17)そこで娘さんを信じて先に進むことにした。表通りは混むと思い,細い裏道を進むもこちらでも渋滞が始まり,のろのろ運転でしか進めない。しかし初動の早さが幸いし,無事に市民会館へたどり着けた。娘さんに「今どこにいる?」と携帯メールを打つと,市民会館付近の気仙沼小学校に着いていることが分かった。娘さんは港で船のエンジニアをしている吉城姉妹のご主人を迎えに会社へ寄っていたのだった。
吉城姉妹のご主人が漁船のエンジンルームで修理をしていたとき,携帯電話から緊急地震速報の警報音が鳴った。すぐに陸に上がろうと甲板に出たが,揺れがひどくて岸壁に移るのに一苦労する。三陸海岸の人は地震イコール津波という感覚が身に付いている。会社の同僚とともに高台へ急いで避難した。本震から30分ほどで巨大津波が気仙沼市を襲った。「(予測は)6メートルくらいと言っていたけど,実際到達した津波は10メートルを超えていたんじゃないかな。」岸壁にあった船の燃料備蓄タンクが流され,海に油が流出して火がついた。街が流され海が真っ赤に燃える一部始終をご主人は高台から目撃する。
家を流された吉城家族は市民会館の近くにあるご主人の実家に身を寄せた。 市内は壊滅状態でライフラインも途絶え, 2,3日は食べることで精いっぱいだった。実家には備蓄がなかったので,高台に住む教会員の篠島姉妹を訪ね,「水と灯油を分けてもらえないか」と頼むと快く分けてくれた。在庫物資を販売していた店に,寒空の下ご主人と2,3時間並んでわずかな食糧を手に入れた。
「わたしは耳も悪かったのでそれを改善するために(普段から)精神安定剤を飲んでいました。それを持ち出すのを忘れたので,薬のないまま数日を過ごして精神的に不安定な状態になってしまったんです。不安定なので人の中にいるのが嫌で,独りでいたかったんですね。独りで避難所に入ろうかとまで思い詰めました。それで車の中で独りになって神様に,『助けてください! 山崎支部会長,ここに来てわたしを見つけて助けてください!』って泣きながら大きな声で何度も叫び求めました。─そうしたらびっくりするじゃないですか,その日のうちに山崎兄弟が現れるんですよ目の前に!」
御霊の声なき声に従い
3月15日の気仙沼市で,山崎会長は6人の会員を尋ね歩いた。「どこから順番に回ったらいいのかなあ,と考えて(最初に)思いついたのが,篠島ご家族のところです。高い所にお住まいなのでまず津波の心配はないだろうと。」篠島家は家屋は無事だったが,近所の公民館に避難していた。たまたま公民館前にいたお子さんに出会わなければ篠島姉妹とも会えないところだった。
篠島姉妹は,吉城姉妹が親族のところに避難していると山崎会長に伝えた。しかし……,「小学校や中学校や図書館がある所の横の,車3,4台の駐車場,そこから延びるけもの道の先。」土地勘のない山崎会長にはその説明ではお手上げだった。
次は,菅野姉妹のところに行こう,とのひらめきがあった。菅野姉妹に会って必要なものを尋ね,ついでにさっき聞いた吉城姉妹の居所をそのまま説明してみる。すると─「あ,そこなら分かる,って言うんですよ。」実は菅野姉妹も,吉城姉妹に何か起きたのではないかと心に感じ,避難所の名簿を懸命に探したけれど見つからなかったのだという。そこで彼女と一緒に道をたどると,確かに説明どおりの場所にご主人の実家,「吉城」の表札があった。吉城姉妹だけを単独で探していても決してたどり着けなかっただろうと山崎会長は振り返る。「そういった,ひらめきというか導きが随所に見られました。」由理恵姉妹も言い添える。「回る順番が違っていたら絶対に見つからなかったですよね。」
山崎会長は神様の御手に使われていたとしか思えない,と吉城姉妹は語る。「わたしのところに見えたとき,抱きしめんばかりに,『吉城姉妹,生きてたーっ!』って涙を流しながら喜んでくれて,どっさり支援物資を置いて行かれました。……わたしが証したいのは,ほんとうに声を上げて叫んで心から求めるときに,神様は必ず助けてくださるということです。」
あのバイクが壊れた3月15日,日暮れまでに帰るという由理恵姉妹との約束もあったので,山崎会長は夕方に気仙沼市からいったん帰路に就いた。ところが1,2キロ走ったところで,「ああ違う,やっぱり今は(陸前高田市へ)行くべきだ」と強く感じてバイクを反転させた。3月18日,新たに購入したバイクで被災地に入ったときも同様に,1度帰りかけたが,心の思いに従って陸前高田へ向かった。
陸前高田市の岡田姉妹のご両親,特にお母さんは教会に対してこころよく思っていなかった。ところが15日,山崎会長が岡田姉妹の避難所を訪ね,支援を通して教会とかかわるにつれて,お母さんの気持ちが変わってくる。「(それまでのことがあったので)心配していたんですけど,取り越し苦労というか……ふたを開けてみると母は,山崎さん,山崎さんって呼んでお友達になっていて」と岡田姉妹は喜ぶ。
「何か必要な物はないですか?」18日に山崎会長が岡田姉妹のお母さんに尋ねると,布団が欲しいとのことだった。しかし避難所にはほかにも布団のない人はたくさんいる。自分たちだけもらうわけにはいかない,と岡田姉妹。それならと山崎会長は,スカイプ会議(インターネット回線を使ったテレビ電話会議)を通じて現地災害対策本部と話し合い,避難所全体に必要な数の布団を要請する。3月20日,盛岡の神権指導者によって調達された100組ほどの布団が,金沢ステークから来たトラックによって届けられることとなった。
その後,避難所のリーダーとも顔なじみになった山崎会長は,現地の要望を吸い上げてすぐに物資を届けるように心がけた。風呂が欲しいと言われ,一関支部の古いバプテスマフォントまで寄贈した。山崎夫妻は支援物資を積んで何度も被災地に赴き,岡田家族のもとへもしばしば訪れた。「今では,避難所のご飯までごちそうになるようになって……」と由理恵姉妹。山崎会長もしみじみ振り返る。「(岡田姉妹のお母さんが)『どうぞどうぞ,食べていって』ってそんな感じです。まあそれくらいまで,いい関係を築けたのかなあ。」
吉城姉妹はこう述懐する。「(一関支部の)教会に行くと,被災地で暮らしている兄弟姉妹の分の食糧,お布団,電化製品……そういったものが部屋いっぱいにぎっちり詰まっていて,これはだれだれの,と,ちゃんと仕分けしてあって,さあ持って行って,と言うんですよ。ほんとうにありがたかったです。わたし正直言って,うちの教会が─ソルトレークに本部があって千数百万の聖徒がいることは知っていますが─何かあったときこんなに大規模な動きができる教会だとは,ほんとうに思っていませんでした。」
山崎会長も日焼けした顔をほころばせる。「一晩並んで10リットル給油がやっとのときに,一関支部へ支給された1,100リットルくらいのガソリンを右から左へ届けて(被災地の)皆さんに感謝されたのはうれしかったですねえ。教会の力,聖徒の皆さんの力はすごいなあ……。」
岡田姉妹も言う。「わたしたちは,教会だけでなく全国,世界中の方々から多くの支援を頂きました。主の道を終わりまで歩み続けることで,いつかこのご恩をお返しできるのでは,と思っています。わたしが苦しいとき,悲しいとき,神様はともに苦しんでくださっていることを感じます。
今のわたしは,とても幸せな気分でいます。主の愛がわたしを支えてくださっていることを証します。」◆
石巻支部
宮城県石巻市─
「 本来の予定でしたら,津波が押し寄せてきた所に近い場所で伝道していたかもしれません。」
宮城県石巻市で伝道していた牧衣美姉妹は地震が発生したたき,アパートで先輩同僚の門真衣姉妹とともに計画会を行っていた。「その日,門姉妹が歯の痛みを感じていたので,出かける時間が1時間ばかり遅くなっていました。地震が襲ってきたのは,計画会が終わった直後のことでした。」
地震の後,二人は近くの高校へすぐに避難した。栗田長老(3ページ参照)同様,被災の1日前に仙台伝道部で災害時の訓練を受けていたからである。二人は地震発生約3時間後に建岡伝道部会長へ連絡を取ることができ,被害を受けていないことを伝え,石巻支部の大沼支部会長へも連絡した。大沼支部会長は「学校へいるならば安全なので,その学校の先生の指示に従うように」と二人に伝えた。
「最初は学校のグラウンドにいましたが,ラジオで6メートルもの津波が来るという情報が流れたので,体育館の2階へ避難しました。洪水のように徐々に水位が上がってきて,何度も死ぬかもしれないと思いました。津波を経験したことがなかったので,それがどんなものか想像することはできませんでした。門姉妹は常に冷静で,わたしたちは死なないよと話していました。」
体育館に避難した二人は,互いの体温で暖を取りながら寒い夜を過ごすこととなった。「夜が明けると水は徐々に引き始めていました。その日は体育館の1階の掃除を手伝いました。学校の先生たちと一緒に,流れ込んだ汚水をモップでひたすら外へ押し出すという作業でした。ブーツを履いていましたが,もう使えなくなってしまいました。作業中に,『あなたたちは何をしている人たちなの?』と尋ねられましたので,元気よく『わたしたちは宣教師です!』と答えていました」と笑う。
津波の水が引き始めたとはいえ,二人が歩くとひざぐらいの深さがあった。「アパートは近かったので歩いて帰りましたが,水の中を歩くのは大変でした。水は黒く,臭いもひどく,汚いものでした。その中をバシャバシャと歩いていました。」
避難した校舎の窓には「SOS 1600人」と書かれていた。食料も何もかも不足していた。幸いにも二人のアパートの部屋は無事で,多少の食料も確保することができた。二人で倹約すれば,1か月は生活できるかもしれないと思ったという。しかし,体育館には食べ物がなく,泣いている子供たちもいた。「そんな環境の中で二人だけ食べる気にはなれませんでした。空腹の子供へ食料を分けましたが,わたしたちの少ない食料ではすべての人を助けることはできません。すべてを与えれば,自分たちも生きることはできないかもしれないと思い,悩みました。」だれもが食料を求めている中で,二人の姉妹宣教師が取った行動は意外なものだった。「断食をすることにしたんです。どうせ食べられないならば,最初の日は断食をしてみようと。」
それから二人は,空腹になっても何も食べず,空腹感が限界になったときにだけ水と少しの食料を口にするだけにした。「5日間の間に,1日の1食分ぐらいしか口にしていませんでした。昼間は普通の伝道のとき以上に歩き回っていましたが,驚いたことに,空腹感を感じたり,疲れを感じることはまったくありませんでした。とても不思議な経験でした。」祝福はそればかりではなかった。「体育館に滞在中に,ストレスを感じることもありませんでした。何度も何度も祈って,心の中で賛美歌を歌っているときに安心感が広がってきました。それは命が安全ということではなく,生きるかもしれないし,死ぬかもしれないけれど,どちらにしても神様の御心だと感じる安心感です。この地上と霊界はすごく近いということも感じました。わたしが死んだとしても霊界で神様が必要としている,生き残ったとしたら現世で神様が必要としていると感じました。避難していた5日間の天気は良く,夜は満天の星空が広がっていました。その星空を見たときに,地が変わっても,天や神様は変わらない,いつもわたしたちは愛されていると感じました。」
体育館へ避難していた2日目にちょっとした問題が発生した。「わたしたちは昼間はほとんど外出して会員を捜していました。2日目に体育館へ戻ると,二人の女性が学校の先生にクレームを伝えていました。体育館の倉庫に衣装ケースとバケツを置き, それをトイレ代わりにしていたのですが,汚物があふれてひどい状況になっているというものでした。学校の先生たちも初めての経験で困っている様子でした。その話を聞き,よし! じゃあ,わたしたちがお手伝いをしよう,と思ったんです。」二人は宣教師の雨合羽を着て,マスクを着け,倉庫へ入ると汚物の清掃を始めた。だれもが嫌がる仕事を二人の若い女性が黙々と行っている姿は,体育館にいる人たちの心に無言のメッセージを伝えるものだった。「それを見ていた人たちが数人手伝うようになりました。トイレ掃除をしているわたしたちを見ていたお年寄りが感謝を込めて食料を下さったり,助け合いの気持ちがあふれていました。わたしたちのいた体育館に避難している人たちは,互いに互いをいたわり合うような助け合うような雰囲気を持っていました。」
仙台伝道部のほかの宣教師のことを思い浮かべる牧姉妹の目から涙がこぼれ落ちる。「被害が大きかった場所にいた宣教師も,被害が少なかった場所にいた宣教師も,みんなそれぞれの環境の中で一生懸命やっていたと思います。教会員や求道者の安全を確認するために歩き回り,避難所を訪れ,探すことに一生懸命でした。それでも,被災地を巡りながら,石巻に住む人たちの多くの命が失われたことを感じたときは,とても落胆しました。」
被災した経験から学んだことはたくさんある,と牧姉妹は語る。「津波の被害を受ける前は,感謝できることがこんなにも多いと気づくことはありませんでした。同僚がいる,蛇口から水が出る,食べるものがある,日常の当たり前のことがすべてそろっているというのは,奇跡なんだと思いました。そして,いちばん大事なことは昇栄することだと感じました。わたしたちが生きている現世は,単なる準備期間にすぎないのだと思いました。大切なのは,わたしたちのそれぞれが,主の望まれている場所で望まれていることを行うということです。わたしは宣教師として石巻に残って,ヘルピングハンズに加わり,復興支援を手伝うことになるのだと思っていました。しかし,主の召しはわたしが考えたものとは違っていました。伝道地を離れ,札幌伝道部へ行くことでした。」
今は,召されるままに主に従うことを決心している牧姉妹だが,石巻を離れるときに,夫婦宣教師として働く長老から言われた言葉が心によみがえるときがある。それは「後ろを振り返ってはいけませんよ。振り返ると,塩の柱になってしまいますよ」(創世19:26参照)というものだった。◆