家庭に自然と伝道に出る流れを作る──牛久ワード,赤松家の場合
1973年3月初旬,アジアに組織された最初のステークである日本東京ステークでは,当時,十二使徒であったスペンサー・W・キンボール長老を迎えてステーク大会が開かれた。3月4日,日曜の一般大会にて,キンボール長老は12歳から1 4 歳の少年たちを演壇に招き,各々に300円ずつプレゼントして,預金通帳を作り伝道資金をため始めるよう勧めた。「全部の若い男性が伝道に行くべきだということです。男の子が生まれたら,すぐ銀行に行って預金口座を作ってください。……
兄弟姉妹の皆さん,犠牲は天の恵みをあなた方にもたらすことと思います。わたしたちは,主がそうせよと望んでおられることを行うために,自分のしたいことを忘れたはずです。」※1
この日,この同じ会場に,幼い二人の子供たちを連れて若き日の赤松成次郎・孝子ご夫妻が集っていた。「ああ……これが教会の指導者の姿勢なんだ,と思ってわたしたちは,小さいころから伝道資金を始めたんです。みんなそれぞれに,ほんとうに赤ちゃんのときから,銀行に一人ずつ口座を持たせたんです。」その後生まれた三人の子供たちにも口座を作った。「それが,我が家の伝統の始まりです。」
赤松家,伝統の始まり
牛久ワード出身の赤松ご夫妻は現在,教育宣教師として沖縄県宜野湾市に住んでいる。上と下が女の子,真ん中3人が男の子の5人の子育てを終えて念願の夫婦伝道に赴いた。赤松ご夫妻は自身の子育てを振り返り,多くの良き家庭の伝統をはぐくんできたことを懐かしそうに語る。
さて,赤松家のお正月はこうである。まず,5人の子供たち全員が年の初めの父親の祝福を受ける。それから祝福師の祝福を受けている子は祝福文を持って来て,それぞれで読み返す。「じゃあ,今年どういう気持ちで1年過ごすか考えてください……」それが終わると,「はい,お年玉!」──祖母と両親からもらったお年玉を,什分の一,そして伝道資金に分けるのが5人の子供たちの年中行事であった。幾らを伝道資金に割くかは子供たちに任された。その額の多い少ないは問題ではなかった。
「実際20年たってどのくらいたまるかって言えば,1か月分……2か月分もないです。(むしろ)伝道資金をためてるっていう意識の中ですごく役立ってますよね。」その後,5人の子供たちのうち3人はアルバイトなど自分で全額をため,2人は親の援助を受けて,全員が伝道に出て行った。
それから,「祝福師の祝福はすごく大きいです……」と赤松兄弟。子供たちは全員,14歳か15歳で祝福師の祝福を受けた。こんなエピソードが残っている。いちばん上の女の子は,「あまり勉強は好きじゃないし,高校卒業だけでいい?」と言っていた。両親はあまり深く考えずに「ああ,いいよ」と答えた。手先が器用な子だったので,服飾の専門学校に進んだら,と思っていた。ところが,祝福師の祝福を受けたとき,そこには伝道から帰還してさらに学業を続けると述べられていた。「天のお父様が期待しておられるのは,考えてたのとちょっと違うようだよ……」彼女は頑張って大学に進学し,在学中に伝道に出て帰還,残りの2年を修めて卒業する。
「それから特に意識するようになりました。やっぱり神様からお預かりしている子供たちだから,神様がどう望んでいらっしゃるか(に添って)助けていきたい,と。」赤松家の子供たちは折に触れて祝福文を読み返す伝統がある。「どの子も祝福文に対しては意識がすっごく強いですね。仕事を考えるとき,学校を選択するとき,いつも祝福文を読んでから考える。そういう意識は一人一人にありました。」上の4人の子の祝福には伝道のことがはっきりと宣言されていた。それが,自然と,伝道には出るもの,という意識につながっていったという。末っ子の祝福文には直接「伝道」という言葉はない。けれども赤松兄弟の「祝福文は聖文と同じ,行間を読んでごらん」とのアドバイスに従って熟考し,「どうもこれは伝道のことのようだ……」と感じるところがあって,やはり伝道に出て行った。
さて,赤松ご夫妻をして子供たちの意識をここまで伝道に向けさせることになったのには,実は若干の理由がある。
伝道に出ないともったいない
赤松兄弟は,当時学生として住んでいた東京の吉祥寺で1967年に改宗した。「当時の神権指導者はね,赤松兄弟,伝道は……なんてね,ひとっことも言わなかったんですよ。わたしたちより2,3年若い人たちは伝道出てるんです。彼らは神権指導者の勧めがあったかどうか分からないんですけど。わたしは,ああ,勧められていたら,出たのに!という(思い)がずーっとあるんですよ。だから子供たちには,励ましてくれなかったから出なかった,そういう思いは絶対持ってもらいたくないなあ,と。」やはり若いころ経済的に恵まれず伝道に出る機会のなかった姉妹とともに,子育てを終えたら伝道に出ることは二人にとって長年の願いであった。
「もう,すごく楽しいです!」赤松姉妹は現在の心境をいきいきと語る。「教育宣教師であっても,伝道の宣教師も兼ねてるわけです。夫婦宣教師って,目に見えない形ですけど,第一線なんですよ。(教会に)来てない方のところに行ったり,宣教師のお手伝いをしたり,証を述べる機会もいっぱいありますでしょ。それってほんとうにお金に換えられない……そう思いましたねえ。」
赤松ご夫妻は昨年9月に赴任する際,どこに住もうかと深く瞑想した。「どうも,宜野湾ステークが御心にかなうんじゃないか……」そして現在のアパートを見つけ,最寄りの普天間ワードに集ったその初日のこと。一人の姉妹がご主人の改宗について助言を求めてきた。改宗して8年,3人の子供も改宗したが,何回レッスンしてもご主人がバプテスマを受けない,という。赤松ご夫妻はご主人のレッスンに立ち会い,その姉妹の相談に乗り,姉妹が変わっていくにつれてご主人も変わってくる。……そして4か月後,8年越しのバプテスマが実った。「わたしたちここに来た意味があったねえ,ってすごくうれしかった。伝道に出た子供たちはみんなそれを味わってると思うんですよ。だから出なければ分からないですよ。自分が体験してみないと,人から聞いただけでは。子供たちは,お金や時間に換えられない祝福を伝道でもらうんじゃないですかね。」
こういうこともあった。「一人の子は,祝福文にはあるんですけど,本人は大学生活ルンルンですから,あまり伝道に出る気がなかったんです。もう(1年生の)3学期が近づいて『……そろそろ伝道は?』って持ちかけると,『あ,出なきゃいけないのか』とちょっと暗くなったようでした。……でも帰って来たら,別人のようになって。おとなしい子だったのが,ものすごく明るく活発な子になりました。(その後就職の際に,)この会社は無理だろう……って(親が)思う会社へ堂々と行って,面接でパスするんですよね。人への接し方を学んできた。あの子がそのまんま大学卒業して就職してたら今の仕事はなかったと思いますねえ。(それから,)福音を恥としなくなる,それは伝道の成果だなあ,と。伝道って人も変えちゃうんだな,祝福だな,こういうチャンスを皆さん逃さない方がいいですよね。」
優先順位をはっきりさせる
昔は経済的に苦しかったので,子供の学費のため姉妹はパートや内職をすることもあった。しかし子供が小学生のうちは,学校に送り出すときと帰って来るときは必ず家にいるようにした。「母親がね,子供が家にいるときにはいる。優先することを優先する,何が大切かってことを学んでるかもしれませんね,知らず知らずのうちに。」
「セミナリーはやっぱり大変ですよ,早朝でしたからね。で,セミナリーをしてるために勉強がしにくい,そのときには高校進学するときに1ランク落としてもいい。その範囲内で行ける学校でいいんだよ,教会がいちばんで,その次に学校でいいんだよ,ってそういう指導を。(笑)」やれ下流社会だ勝ち組負け組だとやかましい昨今では,世の風潮に流されて優先順位を逆にしかねない危うさがある。「でも,この年になって子供を見ていると,どこどこの大学行ったからって,関係ないです。ほんとにそのとおりだなあって。それは分かってきましたね,年取って余計。」
末っ子は奨学金を受けて3年制の看護学校に行った。その奨学金は,卒業後,系列の病院で3年間働けば返還しないでよいことになっていた。しかし……「でも,どうする? 何を優先する必要がある?」と問いかけると,「……やっぱり,伝道を優先するほうがいい」──結局,系列の病院で看護師として1年間働き,その1年で,返還しなければならない残り2年分の奨学金と伝道資金を同時にためて伝道に出て行った。
赤松ご夫妻は,とりわけ特別なことをしたわけではありません,と言う。昔の教会では,建築資金にしろ伝道にしろ当然という空気だった。家族の祈りも,聖文学習も,家庭の夕べもしかり……。「わたしたちも子供たちを伝道に出すのは当たり前だって意識がありますからね,それをどういうふうにしたら子供たちが出られるように励ませるかな,と。教会で教えられてる事柄をそのままずうっとしていったら,子供たちは,自然に伝道に出て行ったという感じですけどね。」◆