この町に末日聖徒17日本各地の末日聖徒のくらしの表情をお伝えするシリーズです

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主の御心に適かなって夢を追い求める

主の御心に適かなって夢を追い求める

──手作りチーズ工房と牧場を経営~広島ステーク安古市支部松原正典兄弟~

2009年11月13日。東京ドームに隣接するホテルで,『第7回オールジャパン・ナチュラルチーズ・コンテスト』が開かれていた。大手メーカーから小規模なチーズ工房まで,全国から集まった様々なチーズ業者がしのぎを削って自信作を出品する。そんな中に,夫婦二人だけの手作りチーズ工房を広島県で営む松原正典兄弟の姿があった。工房を始めたのはわずか5年前の2004年,2年に1度開かれるこのコンテストに出品するのは2回目で,前回の2007年には上位30品に与えられる優秀賞を獲得していた。

さて2009年,選ばれた上位30品が画面に表示され,ドラムが鳴ってトップ入賞者の発表が始まるころ。上位の賞には関係がないと思っていた松原兄弟は,表彰後の食事会で関係者へ自作のチーズをアピールすべく,上着を脱いで身構えようとした。──そのとき,『スーツを脱いではいけない』と御霊がささやいた。なぜかな,と不思議に思った瞬間,壇上から松原兄弟のチーズの名前が呼ばれる。農畜産業振興機構理事長賞──応募作113品中3位に当たる賞であった。思いがけない栄誉に驚きつつ,スーツ姿の松原兄弟はそのまま壇上に駆け上がって表彰を受けることとなった。

松原兄弟は母親の実家があり,現在住んでいる広島県三次市三良坂町に生まれ,大阪市で育った。彼はやがて季節ごと親に連れられて帰省するこの土地が大好きになった。多様な植生の里山に囲まれ,清流の周囲に水田が広がる三良坂町は,日本の原風景とも言える美しさである。

自然とともに生きる生活に憧れた松原兄弟は,長じて酪農を志し,大学で畜産を学んだ。しかし,農場を買って酪農を始めるには数千万円の資金が要る。取りあえずアメリカの牧場で2年,オーストラリアの牧場で1年,農業研修生として働いた。

オーストラリアでは,シドニーから車で3時間ほどの牧場で,最新鋭の近代酪農の現場を体験した。1万5,000頭ほどの牛を飼い,3,000頭の牛から牛乳を搾り,コンピューターで搾乳量を管理する大農場であった。松原兄弟は毎日午前2時に起きて搾乳し,昼食を取って少し仮眠,また夕方まで延々搾るという生活を続ける。あまりの牛の多さにそこまでしないと搾り終わらないのである。休みの日にはシドニーに出た。その観光地で宣教師と巡り会って改宗する。2001年10月のことだった。シドニーには日本人宣教師も赴任しており,レッスンの一部は日本語で学んだという。

牛たちの心の叫びを聞いて

そうした現場に身を置くうち,松原兄弟は自分のイメージする酪農と,近代酪農の現実とのギャップを身にしみて知ることになった。酪農というと思い浮かぶ,のどかな牧場でのんびりと牛が草を食はむ風景。そうした「放牧」は今やほとんどない。乳牛は最初の出産から死ぬまで牛舎の中で暮らし,太陽の光を浴びることはない。狭い牛舎に繋がれ続けるストレスから病気にもなりやすい。松原兄弟はこう話す。「(トウモロコシや穀物など,牛の本来の食物ではない)高カロリーのおいしいものをどんどん与えてどんどん(牛乳を)搾って,牛も3年から5年くらいで死んでしまうんですよ。ほんとうは寿命としては30年くらい生きられる。もちろん家畜ですから途中で淘汰されるんですけど,それにしても短すぎるんですね。肉牛は1歳で死にますよ。皆さんが食べられている和牛というのは大量の穀物を投与してすごい勢いで太らせる。1年でいちばん若くて太った状態で出荷しているんです。だから,けっこうむごいですね。そういう仕事をしていてぼくは途中で嫌になったんです。帰国したらほかの仕事に就こうと思っていました。」

そして改宗後間もない2001年の南半球での夏,松原兄弟はその後の人生の原点となったある個人的な経験をする。

大規模農場なので,牛はどんどん生まれる一方で,1日に1,2頭が死ぬ。「ぼくはチャーリーってあだ名だったんです。チャーリー,牛が死んだから,チェーンでつないでトラクターで引っ張って谷に捨ててこい,と。」谷へ行くには,牛が1,000頭いる大きな囲いの中を通らなければならない。ゲートを開けてトラクターで中に入ると,その1,000頭が周りに寄って来て囲まれた。

「ウォー,ウォーって言うんですね。怒っているわけですよ。何を言っているかよく分かった。つまり,『あなたたちはなぜそんなことをするのか』と。『わたしたちは一生懸命あなたたちのために頑張っているのに,あなたたちはわたしたちの命を全然大切にしてくれない』って牛が言うように聞こえたんですね。ウォー,ウォーと言う,ぼくはそれがすごく悲しくて,独りで泣きながら,向こうに行け向こうに行けって言って。ぼくは一人の研修生で,たまたまここで数か月働いているだけなのに,なぜぼくに言うんだ,あそこの事務所にお前たちのオーナーがいるから,あの人に言えと。泣きながら牛たちにそう言ってたんですけど。

帰国するまでにゆっくり時間があって,なぜ牛たちはわざわざぼくに言ったのかと考えたんです。ああ,ぼくがほんとうに牛たちを幸せにしてあげないと,と思い至って。そのときに,すごく御霊を感じたんです。」

「……『彼らに,海の魚と,空の鳥と,家畜と,地のすべてのものと,地のすべての這はうものを治めさせよう。』」(モーセ2:26)

主が人に託されたものを,主の御心に適って治めているだろうか,と松原兄弟は自問する。

動物が幸せになる農場を

「だから,チーズ作りが目的じゃなくて,牧場をして,幸せに家畜を飼ってあげるというのがぼくの目的になったんです。それで帰国までにいろいろ勉強して,放牧という方法があると。昔ながらの方法ですけれども,よく計算してみると非常に理に適っている。牛も長生きするし,15年から20年搾乳できるわけです。それに利益率もいいんです。(近代酪農で)100リッター搾るにしても,50リッター相当は穀物とか餌代がかかっているわけで,差し引くと結局は50リッターくらいしか搾ってないことになるんです。一方,放牧をすると50リッターくらいしか搾れない,普通の能力の2分の1くらいしか出せない。でも(牧場の草を食べさせて)餌のコストがゼロだから,利益率としては同じくらい。(牛舎に閉じ込めないのでストレスが軽減され,病気の発生も減り,)家畜も長く生きるから,結局は利益率がすごく上がるわけです。そういう農法をぼくは立証して,皆さんに紹介していきたい,ぜひやってみよう,と。」

「……『見よ,わたしは全地の面にある種を持つすべての草と,種のある実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。これはあなたがたの食物となるであろう。

また地のすべての獣,空のすべての鳥,地を這うすべてのもの,すなわちわたしが命を授けるものには,食物としてすべての清い草が与えられるであろう。』」(モーセ2:29-30)

酪農とは本来,人間が食べられない牧草を家畜が食べて,人間の食べられるものに変換すること,と松原兄弟は語る。近代酪農以前は人間が食べられるトウモロコシや穀物を家畜に与えることはなかった。「1ロの肉を太らせるのに9キロのトウモロコシが要って,9キロのトウモロコシを育てるのに大量のガソリンが要るわけです。そのトウモロコシに添加する肥料もすべて天然の化石燃料なんですね。9キロのトウモロコシがあれば何人もの飢えている人を助けられる,食事を与えられるんです。そういうカロリーの迂回というのをわたしたち先進国の人間はするんですよ。」近年の原油価格と輸入飼料価格の高騰で廃業を余儀なくされた多数の酪農家が出たことは記憶に新しい。

「穀物を一切与えないというのは畜産業界ではナンセンスなんですけど,ぼくはそれを証明してみせたい。」

主の導きを感じながら

帰国した松原兄弟は,林業の仕事に就きながら自己資金をため,夢の実現に向かって模索を始める。その後,郁衣姉妹と出会って2003年に結婚する。結婚の翌年,郁衣姉妹の助言をきっかけにチーズ作りに乗り出すこととなった。林業の会社に休みをもらい,松原兄弟は2週間フランスへ出かけてチーズ作りを学んだ。

しかし学んだとは言え,ゼロからのスタートであり,そう簡単にいくものではなかった。「そのときにやっぱり信仰を試されて,お祈りをすると主から特別なメッセージが来る。」──フロマージュ・ブランというヨーグルトのようなチーズを作ったとき。「すごく苦労して……なかなかおいしい味にならなかったんです。」失敗を繰り返し,祈ったとき,ある友人に電話してみよう,との思いが浮かぶ。電話での会話の中でヒントが閃いた。温度を調整すればいいんじゃないか。「するとすごくいい味になりました。」またモツァレラチーズ。「発酵の仕方がどうもうまくいかなくて,ほんとうにもうどうしようかと思って,お祈りをしたときに,あ,あの本を読んでみたらいい,と思ったんです。」いつもよく読んでいたチーズの本だったが,読み落としていたのか,そこにヒントがあって,おいしく作る製造方法が解明された。このモツァレラが,2007年のコンテストで上位30位内へ最初に入賞したチーズとなった。

そういえば,と松原兄弟は振り返る。2004年,チーズ作りを始めて1,2か月のころ。「姉妹と自分が働いて作った自己資金がもう底を尽いてきた,宣伝するお金もないし,もうこれは危ない,って(経理担当の)郁衣姉妹から言われたんです。そのときお祈りしたら,『大丈夫,繁盛する』と,そういう答えを感じました。そのとたん電話が鳴って,地元のテレビ局から取材をしたいと。テレビ放映の後,電話が鳴り続いてですね。そういう(導き)が時々あるんですね。」

あるとき,「今月,ちょっと苦しいな」と姉妹が相談すると,「什分の一は絶対頑張って納めてるよね?」と兄弟は聞く。姉妹が納めていると言うと,「じゃあ大丈夫!」との声

を返す。──「でもほんとうに厳しかったんです,もうやばいなあ,投資したいものもあるしなあ,って思っていたときに,いきなり市の人が来て,100万円上げる,って言い出したんですよ。」市が特産品を支援するというプログラムを組んでおり,その予算から思いがけない援助を受けられることになったのだった。

「什分の一には強い証があります。」

安息日についても信仰が試される。松原ご家族の集う安古市支部までは車で片道1時間半から2時間もかかる。その距離を訪れてくれるホームティーチャーは「ほんとうに主の天使です」と松原兄弟は感謝する。また,国営備北丘陵公園という年間数万人が訪れる観光地へのルート上にある三良坂では,月曜から金曜までよりも日曜に一日店を開ける方が収益は高くなる。この地区で日曜日に休んでいるのは松原家の店だけだという。「教会から帰って来たら大勢の車が逆にすれ違うわけですね。最初のころは運転手の顔がお札に見えたんです。ああお札が帰って行く……(笑)。でも安息日を聖日としなかったら多分,こういう(チーズの)賞も,主はぼくに下さらなかったでしょう。」

夢という中間目標

3年前,念願の牧場の土地を買った。近くの山の木が伐採されたのを見て,ここで放牧ができるのではないかと感じた松原兄弟は,その東京ドーム2個分(8ha)の広さの山を取得し,山羊たちと牛3頭を飼い始めた。敷地にある休耕田に牧草の種をまき,幾つかの牧草地をローテーションを組んで食べさせていく。そうしてじっくり育てている山羊は今年から,牛は来年からようやく搾乳できるようになる。それまで牧場は収入にならないので忍耐の時期だ。預言者の勧告に従って必要以上の負債を避けつつ,主に頼って先へ進む。

自己資金で,しかも夫婦だけでゼロからチーズ作りを始め,なおかつゼロから牧場を開拓しているというのは全国でも例がないだろう,と松原兄弟は言う。はたから見るとたいそう冒険的な生き方に見えるし,牧場の土地を取得したときも,あんな山と荒れた田を買って,と周囲に笑われたという。しかし道なき道を進む松原兄弟に不安はない。「主が必ず導いてくださる,という楽観的な思いがあるんです。特権ですよね。わたしたちは戒めを守って安息日に集って,祈ったら必要な答えが頂けるんです。祈って,答えや何らかの結果が出なかったことは一度もないです。」

「ぼくがやっているのは夢みたいな感じがあります。夢というのは,主をわきに置いてそればかり追求すると,結局は偶像礼拝になるわけです。けれども夢を,不可能(に近い)目標という言い方をして,主の永遠の家族を得て昇栄するという最終的な目的に到達するまでの中間ポイントとして位置付けるのであれば,ぼくはすごくいいと思うんです。難しいことをするにはやっぱり主に頼らないといけないわけです。だから,夢というのは家族にとってもいい目標になります。経営者になるということは,小さくても一国の主ですから,すごい試しと成長がありますね。

ここは試しの世なんだから,思いっきり試されて,試した方がいい。特に先進国にいる子供たちは,例えば歌手になろう,宇宙飛行士になろうと思ったらなれる可能性はすごく高いんです,発展途上国でバラックに住んでいるような子に比べれば。それを試さないのはもったいないですよ。

また夢や希望があるんだけど,そのために安息日に教会を休むとか,そういうのは逆に遠回りです。戒めを守った上で,思いっきり目標を追求したらいいと思うんです。夢を持った人が,主に頼って達成してもいい,ということを若い人に伝えたいんです。」

松原兄弟がオーストラリアで1,000頭の牛たちから受け取った夢は,ぶれていない。

「今もずっとそのためにやっています。動物たちがほんとうに幸せに暮らしているのをいつもイメージしながら,それを実現するために……。おいしいチーズ作りとかお金をもうけたいとかは二の次です。主が創造されたものをそのまま(御心に添って治める)……主は絶対に喜んでくださるだろうと思います。」◆