リアホナ2005年7月号待ちかねた人々の声──霊界の伯母に呼びかけられて

待ちかねた人々の声──霊界の伯母に呼びかけられて

ニブリー能栄姉妹 東京南ステーク東京第2ワード

(1968年)当時,アメリカのカリフォルニア州にある大学に留学中だったわたしは,学生ばかりのワードに集っていました。そのワードに家族歴史(系図)のクラスが新しく設けられ,先生からクラスに出席するように言われました。わたしは,日本から資料を取り寄せるのは大変だし,日本で家族歴史のクラスに出席したことがあるので,その必要はないと言いました。すると先生が,「わたしは,このクラスにだれを出席させるべきかお祈りをして決めました。特にあなたは出席すべきだと強く感じたので,このクラスに来なければなりません」と言いました。それで毎週出席していましたが,系図の探求は何もしていませんでした。

それから何か月か過ぎたある晩に,夢を見ました。その夢の中で,二人の若い女性が現れて,そのうちの一人の女性がこう言いました。「わたしたちは,あなたのお父さんの姉です。あなたはアメリカに来て,自分の好きなことばかりして,わたしたちに死者のためのバプテスマをしてくれていないではありませんか。そんなことでは日本に返しますよ。」夢の内容はそれだけだったのですが,朝起きてその夢がとても心に残っていました。

それでもまだわたしは,系図のために何をしようともせず,ただその夢のことを考えていました。日がたつにつれ,その夢がますます心に重くのしかかってきました。そのことを教会の指導者に話すと,それは霊界からのメッセージだからすぐ系図の探求をするように言われました。

早速,日本の姉に手紙を書き,父の戸籍謄本を送ってもらいました。父は,姉8人,兄3人の12人兄弟の末っ子で,わたしが物心ついてから生存していたのは,父の8人の姉のうちふたりしかいませんでした。ですから夢に出てきた父のふたりの姉も,亡くなっている6人のどの姉なのか,わたしには分かりませんでした。

系図の記録用紙に上から順に名前を書き入れていきました。7番目の姉の名前を書き入れた途端,わたしは,声を上げて泣き出しました。それは今までに感じたことのない深い感激の喜びの涙でした。しばらくわたしは,涙を抑えることができませんでした。そして8番目の姉の名前を書き出したときにも同じことが起こりました。わたしは,夢に出てきて死者のためのバプテスマの儀式を頼んだのはこの二人の姉に違いないと確信しました。そして声を出して,「こんなに死者のためのバプテスマをしてほしかったのに,遅くなってごめんなさい」と謝りました。

夏休みに日本へ帰ったとき,父がわたしの夢の話を聞いてすぐ,その二人の姉がだれなのか分かると言いました。驚いたことに,それはわたしが記録用紙に名前を書いて泣き出したあの二人の姉の名前でした。もし生きていたとしたら教会に入りたがる人たちは,この二人しかないからだと父は言いました。

二人とも同じ昭和5年に22, 23歳という若さで未婚で亡くなったということです。しかも看護婦であったそのうちの一人の姉は,伝染病がはやったとき,うつるからとだれも看病に行きたがらないのをかわいそうに思い,看護に行って病気がうつって亡くなったということも,そのとき父が話してくれました。

そして,夢で見た二人の姉がどんな顔かたちをしていたかと父が尋ねたので,わたしに話しかけた人は父にそっくりで,もう一人はとてもきれいで,父に似た人の後ろに一歩下がって何も言わず,とてもおとなしく見えたと答えました。すると父はますます確信を深め,絶対にこの二人だと言いました。話しかけたのが7番目の姉で, 黙っていたのが8番目の姉だとも言いました。7番目の姉は,父にそっくりで,不正を見ると黙っていられず,はっきりといさめる人で,8番目の姉は,当時の小野小町と言われるほどの美人でおとなしく,言いたいことはいつも7番目の姉の後ろに立って,姉に言ってもらっていたというのです。

父もわたしも,わたしの見た夢がただの夢ではなかったことを,そのとき悟りました。そして当時まだ教会員でなかった父が,「この二人以外にも,死者のためのバプテスマを望んでいる人がいるだろうから。先祖全員の死者のためのバプテスマの儀式をするように」と言いました。その話を聞いた父の兄嫁が「わたしは,もう年を取っていて教会には行けないので,わたしが死んだらその,死者のためのバプテスマをしてください」とわたしに頼みました。その伯母も14年前に亡くなり,約束どおり,彼女に死者のための身代わりの儀式を施しました。それからときどき,彼女が何も言わず,にこにこと笑っている夢を見ました。きっと約束を果たしたことを,喜んでくれているのだと思います。(1994年8月号『聖徒の道』チャーチニューズ14,参照)◆