末日聖徒イエスキリスト教会(モルモン教)イエス・キリストと相伴うこと

イエス・キリストと相伴うこと

 天国がどのような場所か知るためには,まず駅で切符を買い,東京を離れて山梨まで行かなければなりませんでした。僕が高校二年生の時のことです。

 旅の同行者には,僕と同じ教会の,同じ信仰の,同じ神様を信じる少年少女たちが,数えると三十人ほどいまして,こうして集まるのは年に一度の機会でしたから,皆二泊三日の荷物を入れた体半分ほどあるリュックサックを抱え,しかしその重さも感じさせないほど嬉しそうに,にぎやかに,電車に揺られていました。

 僕はそういう彼らを静かに見ているのが好きでした。

 駅を降りると夕暮れの空の下,もう黒い山々が囲むように見えて,早速その一つを目指して歩きました。目印は山の頂上に建てられた学校のような作りの施設です。登るにつれて舗装された道もだんだんと細くなっていき,ついに茂みの中を通る獣道となり,驚いたり,恐がったり,慎重に歩く人もいましたが,僕は人目を気にして,そういう時こそ勇んで進んで行きました。

 到着した頃には,大分暗くなっており,玄関の灯りに迎え入れられると,僕たちは荷物をおろし,食事をし,教室で聖書の勉強会に出席しました。

あなたは殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
偽証してはならない。
むさぼってはならない。

しかし,そう戒めを読んでみても幸せは感じられませんでした。 

 僕は学校で同級生に,手書きの名札を指差され「貧乏だ」と笑われたり,「遅刻した日はこうするからな」と,プリント用紙を丸めたものでずっと頭を叩き続けられたり,周りから机の距離を離されて「腐ったケーキ」と例えられたりして,隠れるように転校したことのある人間です。

 聖書についての質問に,僕はいい返答をしなければと,かえって話すのをためらいました。

 ちょっとしたレクリエーションの時間も固まっていました。

 皆が大きな声で笑ったり,仲のいい子同士でグループになりはじめると,どこに行けばいいのか分からなくなり,打ち解けられない自分に何ができるのか,皆のようになれない自分はどうすればいいのか,笑顔を作りながら,急いで答えを探しました。

 すると一人が僕の傍に来て,

「静かだけど,いい味出してるよ」

もう一人が,

「真面目なのはいいことだよ」

そう言ってくれました。

 彼らは,好きな映画やゲームの話をしている時はいたって普通の人たちでしたが,それでも言動に教会の教えが生きていました。

 僕はこの三日間,心が傷つけられることはありませんでした。物を盗まれることもありませんでした。駄目だと決めつけられることもなく,自分は神様の子供だと感じました。

 復活された主イエス・キリストがアメリカ大陸のニーファイ人を訪れられた時,その地の人々は主の戒めを忠実に守りました。その情景がモルモン書に書かれています。「民の心の中に宿っていた神の愛のために,地の面には全く争いがなかった」(4ニーファイ1:15)

 神様の愛を内に秘めた人が,神様の戒めを破るでしょうか。人を傷つける言葉を使うでしょうか。自分の欲求を優先するでしょうか。正当な代価を払わず,恐れ,騙し,怠惰でいられるでしょうか。彼らはいつも自分の思いと闘っていたのです。彼らは相手が傷つくよりは,むしろ自分たちが痛みを堪え,生涯堪え忍び,イエス・キリストと相伴うことを望んでいたのです。

 戒めとは人を愛することだ,と僕は彼らと一緒に知りました。天国の喜びとは人との交わりの中にあるのだと思ったのです。主は本当に僕たちの苦しみを代わって負ってくださいました。

 東京に戻ると過去に帰ったように感じましたが,彼らとまた会える日を楽しみに待ちました。学校はもちろん,教会でさえ,いつも天国のようであるわけではありません。しかし,この人は今,あの人はさっき,そして自分は今日,天国で使うような言葉を使った,天国で行うようなことをした,と心の中で分かるようになりました。

 学校の下駄箱の前で後輩がからかわれていたので「一緒に帰ろう」と声を掛けました。

 そして商店街を抜け,いろいろ話しながら駅まで歩きました。

 僕は振り返って思います。自分が天国にいたことがあるんだと。振り返ってこそ,いっそう鮮明に,光が差したようにそれが感じられるのです。もし本物の天国に行ってみたら,またもっと違うのかもしれませんが。◆