リアホナ|子孫の心を先祖に……(教義と聖約110:15)―家族歴史の業の過去・現在・未来

子孫の心を先祖に……(教義と聖約110:15)―家族歴史の業の過去・現在・未来

今日,アメリカなどではデータベースから先祖の探求ができるほど 家族歴史の業におけるコンピューター化が進み,その潮流は日本を含む世界に広がりつつあります。しかし,エリヤがカートランド神殿を訪れた1836年から,「先祖の心を子孫に向けさせ」る家族歴史のスピリッ トは変わりません。時代の変化の中で,変わらない本質は何か―日本各地からのレポートです。

砲兵の休日~海を渡った家族歴史・1950年代の広島にて~   

西本ご夫妻/東京北伝道部夫婦宣教師

ジョセフ・定雄・西本長老,エレノア・西本姉妹はユタ州出身の日系 2世。現在,東京北伝道部で伝道中である。 6人の子供と 18人の孫がいる。伝道から帰還するころには孫は20人になっているはず、だという。彼らは1本の大きな筒を携えて伝道に来た。そこには 1950年代に西本長老が描いた長さ約 8メートルにわたる長大な系図表が収められている。

西本長老の祖父と父親がアメリカに渡ったのは1917年ごろであった。当時アメリカ政府は鉄道敷設のための労働力として移民を必要としていた。その求めに応じて太平洋を渡り,帰郷した祖父はその報酬で故郷の広島に大きな家を買ったのだった。当時のアメリカと日本の経済水準にはそれほどの差があった。

西本長老が生まれたのは 1934年,世界恐慌による未曾有の不況が回復しつつあったころである。

西本少年が 7歳のときに日本海軍は真珠湾を攻撃,太平洋戦争が勃発した。開戦直後の 1942年2月,アメリカ西海岸に住む日系人は内陸部の収容所に集められた。通告から収容までわずか 2週間の猶予しか与えられず,財産の大半を失い,銃器やカメラ,持っていた写真はすべて捨てるよう命じられた。しかし西本長老の父親はその命令に従わず,先祖や家族の写真を隠してアーカンソー州の収容所に持ち込んだという。おかげで後年,西本長老が家族歴史を探究することになったとき,先祖の貴重な写真を手に入れることができたのだった。

エレノア姉妹はアイダホ州に住んでいたので強制収容は免れたが,戦争中は店で日本人か中国人かと問われ,日本人と分かると入店を拒否されるといった差別が横行していた,と語る。西本家族の収容所生活は 1945年9月までの3年半に及ぴ,戦後ようやく解放されるとユタ州で新たに農業を始めた。戦後もアメリカ社会の目が日本人に対して冷たかった中で,一家は自然に結束し,家族のきずなは強かった。仕事が終わると家族で将棋やカードなどの活動をし,毎日家庭の夕べをやっているようなものでした。」

14歳の夏のある暑い日曜日,冷蔵庫の扉を開けて涼んでいるところを母親に見つかった西本少年は,「どこか教会へ行ってよい子供になりなさい !」と叱られた。母親に促され,近所の十字架のある教会に行こうとしてふとその筋向かいを見ると,そこには十字架のない教会があって,たくさんの人が楽しげに集っている。雰囲気に誘われて扉を聞けると監督に迎えられた。監督は西本少年の父親(フランクと名乗っていた)を知っており,周囲の会員たちに「フランクの息子が来ましたよ !」と紹介して回ったという。その日は断食証会だった。小さな女の子が壇上に立って証するのを聞いたとき「何だか分からないけど,ほんとうに心に温かいすばらしい気持ちが来ました」という。それ以来,毎週日曜日に教会へ集い始めた。

https://www.google.co.jp/そのまま 3年ほどたったある日,「いつバプテスマを受けるんですか?   」と尋ねられた西本少年は逆に尋ねた。「この教会はどうやって入るんですか?   」 監督はその日のうちに家までやって来て,西本少年がバプテスマを受けることについて両親と話をした。父親は,  「教会に入るのはいいが,ただ珍しいから入るのはだめ。入ってから休むのもだめ。教会の良い教えを守るんだったら入れ。 」そうはっきりと言われて西本少年は「はい,分かりました」と神妙に答え,バプテスマを受けた。 1951年, 17歳になっていた。

その前年,第二次世界大戦の記憶もまだ生々しい  1950年に朝鮮戦争が勃発した。伝道資金を貯めるため兵役に就くことにした西本青年は入隊前に祝福師の祝福を受ける。そのとき,先祖の「戸籍をたくさん調べる」だろうと祝福された。しかし西本家族の先祖ば広島の出身である。原爆投下によって市内は壊滅し,役所の戸籍も灰燼に帰していると思われた。ほんとうに家族歴史を調べることができるのだろうか。

西本青年はアメリカ軍の砲兵として朝鮮半島へやって来た。大砲を撃っときにはまず目標の左右に予備砲撃をして着弾点を確認する。それを基準に目標に到達するよう砲の照準を修正して本番の砲撃に移るのだった。西本青年の役割は,軍から支給されるトレーシングペーパーを地図の上に置き,目標地点までの図面を引いて予備砲撃のための照準計算をすることであった 。常に5分以内に正確な数値を出すよう要求された。

そうした日々の中で,あるとき 休暇をもらった西本青年は自分の父祖の出身地である広島を訪問することにした。先祖の記録を手に入れるためである。アメリカに出稼ぎに出かけた祖父の買った家はまだ、健在だった。広島に原爆が落ちたとき,祖父は広島市に注ぐ川沿いにある家の屋根に上って広島市内から立ち上るキノコ雲を眺めていた。やがて爆発の衝撃で川の水が上流に向かってさかのぼり,津波のように向かってきた。祖父母の家にも壁まで水が来た。祖母はとっさにタンスの引き出しを引きそこによじ登って難を逃れた。祖父は,波にさらわれた近所の人が流されていくのを屋根の上から見たという。そうした貴重な体験談も聞き出し,大切な家族の記録として残すことができた。

母方の出身地はさらに山奥の小さな町であった。その土地へ向かつて歩いているとき,西本青年の心にささやくものがあった,「いちばん年寄りの人を訪ねていきなさい」と。その町に一軒だけあった店で、尋ねると,店の人が「ああ,あそこだあそこだ」と教えてくれたその家はさらに山の上の方にあった。

出てきたのは随分と高齢のおじいさんだった。 西本青年が親戚の名を口にすると,来意も告げないのに,まるで彼の来るのを知っていたかのように家の裏手へと彼を導いた。老人は眼下の集落にある家々を指さしながら,どこに西本青年の親族が住んでいるかを丁寧に教えてくれたという。不思議なことに,何をしに来たのかなどとは最後まで、まったく問かれなかった。

老人の教えを地図に記した西本青年は感謝してその家を辞し,教えられた家々を訪問した。最初の家に入って自分の名前を告げると,いきなりその家のおばあさんから叱られた。かつて母がこの家に幼い彼を連れてきたとき障子に穴を開けたというのだ。「その跡を見せてあげる,あなたがやったんです,ずっと待っとった  !」――それまではアメリカで生まれたものとばかり思い,記録もそうなっていたのに,このとき西本青年は初めて自分が日本生まれであると知ったのだった。

原爆投下から 6年,広島市には立派な市役所ができていた。しかも被爆後,全国の役所や市民から寄せられた資料で焼失した戸籍が復元され,むしろ被爆前よりもたくさん記録があったという。「原爆で何もないと思ったら,ほんとうにびっくりしました。日本の人はみんな系図を調べている,親戚の家でも電車に乗っても,どこでも系図のことを話している・・・・・・みんな心が自分の家族に向いていて,覚えておこうと記録を調べていました。」

その戸籍を写すべく役所へ行こうとしたとき,西本青年は再び,ある親族のおばあさんと一緒に行くように,とのささやきを受けた。役所は親族の所在を調べたり手持ちの謄本を提出しに来たりするたくさんの人でごった返していた。これでは目指す資料にたどり着くには途方もない時間がかかる。限られた休暇期間で朝鮮半島までの復路を考えるともう余裕はなかった。そこで親族のおばあさんは「付いて来なさい」と,人混みの中へ杖を振りかざしながら入っていった。「まるで、モーセが杖で紅海の水を分けるように」西本青年を先導していく。そうして思いがけない早さで窓口にたどり着き,戸籍閲覧を請求することができた。

係員が戸籍を読み上げ,たくさんの名前を書き写し終わった。そのとき西本青年の心に,もう一遍見てください」とささやくものがあった。そこで同じ資料を再度見てもらうと,はいこれだけです。」でもどうしてか,西本青年は心に,まだある,と知っている。「これもうないね,これだけです。」それでもささやきは心を去らない。まだある,まだある――窓口は混み合っており,忙しい係員に怒られた。それでも「またもう一度見てください」と三度食い下がると,係員は文句を言いながらも見てくれた。ところがそのとき,ページが1か所くっついていたことが分かり,そして新たに聞かれたそのページから 16人の名前が出たのである。……「たくさんの奇跡がありました」 と西本長老は祝福された  1週間の休暇を振り返る。

西本青年はそうして集まった膨大な資料を系図表にして,弾道計算に使っていたトレーシングペーパーに鉛筆で書き記していった。     名前の横には親族からもらった顔写真を貼り付けた。そうしないと誰が誰か分からなくなるほど写真が多かったのである。大きなトレーシングペーパーを何枚も何枚も継ぎ足した。昼は砲兵として計算をし,夜は同じ紙で系図を書いた。

その後祖父が亡くなり,西本青年は再び戦場から広島を訪れる。当時の葬儀や法事は  2,3週間も続くものだった。その間,西本青年は集まった親族一人一人と面接して先祖の情報を聞き出していく。そして戦場に戻り,またこつこつと系図表を書き続ける。

兵役を終えて帰国する直前にも日本を訪れた。尼崎の伯母の家に泊まり,そこから汽車で、広島へ向かった。

列車の連結部に座り込んでいると,もう一人男性が乗り込んできて前に座った。そのとき西本青年は戦場で書きつづってきた系図を長い筒に入れて持っていた。「それは何ですか 」「ああ,わたし の系図ですよ。」見せてください,と乞われて開くと,中からその男性の写真が出 てきた。親類だったのである。驚いた 彼は広島からの帰路に寄って泊まってい くように,と招いてくれた。その家族から もたくさんの記録や写真をもらうことにな る。「尼崎は大きな町ですよ,そんなこと があるでしょうか。ほんとうに大きな奇跡 だと思いますね。」

広島に着くと,もう西本青年がアメリカから来たこと,家族歴史を集めていることは親族中に知れ渡っていた。彼らは保存していた戸籍や写真などをたくさん彼のもとに持って来た。「親戚たちが,どうか覚えていてください,と写真を出してくれました。覚えるために系図を書いたのです。アメリカの家族もほんとうに喜びました。家に持ち帰ったとき,お父さんとお母さんは泣きました。」

戦場で使われた丈夫な紙は半世紀を経ても劣化していない。 3回の訪問,延べ 2週間の探求で1年以上をかけて系図表に書き込まれた人の数は  600人を超えている。祝福師に手を置かれ,西本長老に授けられた祝福は確かに成就したのである。◆