リアホナ2005年7月号東京神殿四半世紀

東京神殿四半世紀

日本東京神殿が奉献されてから四半世紀を刻む今年は,同時に,日本人初の神殿団体参入がハワイで行われて40年,日本福岡神殿奉献5年の節目に当たる年でもあります。日本の聖徒が神殿とともに歩んだこの歳月を記録すべく神殿歴史委員会では全国の教会員から手記を募りました。これは,同委員会へ寄せられた記録から一部を抜粋した,40年にわたる日本人と神殿との物語です。

1965 困難を乗り越え日本の開拓者が旅した約束の地ハワイへの道程

大城朝次郎兄弟 東京神殿第二副神殿長

「当時,戦後20年経過した沖縄は,まだ日本の一県ではなく,アメリカの統治下にあって政治や経済を異にしていました。日本本土は外国であり,旅行するにはパスポートが必要で,通貨はドルでしたので日本円との交換が必要な時代でした。

ちなみにわたしの給料(1960年4月)は初任給40ドル20セントから始まり,その後5年間で多少昇給して50ドルとして,1ドルが365円の換算では1万8,250円にしかなりません。その上,沖縄から東京までの旅費が必要でした。従ってその旅費はひと月の給料分の約10倍になります。夫婦ではその倍になります。それは巨額なものでした。ですから巨額の旅費の額面よりも,とにかくそれを借りてでも完納して,頑張るしかないと,そして皆さんについて行くことだけを考えていました。そのような苦しい状況はわたしたちだけではありませんでした。信仰と神殿参入への強い希望があった兄弟姉妹たちにはいろいろな不思議なことがあって困ったことも改善されて神殿参入が実現されたと聞きました。当時参入者全員をハワイ・ライエ神殿の訪問者センターに集めて指導者から電気製品3点セット,すなわち車,テレビ,洗濯機を持っている人は手を挙げるようにと言われたがだれもいなかったように覚えています。厳しい生活の中で神殿参入者は,家財道具の売却や借金をして旅費の調達に当たり神殿訪問をし,長期にわたって借金の返済をしながら,什分の一も守りつつ,大きな祝福を受けてきました。その後も借金を重ねながらでも,度重ねての団体参入計画に参加して神様の祝福を頂いてきました。」

矢野信保兄弟 福岡ステーク福岡ワード

「最後の難問となったのが,具体的な渡航手続き等と勤務時間との関係でした。パスポートの申請も,予防注射を受けるにも,伝道部長会の面接を受けるのも,ハワイ滞在期間も,勤務を休まねばならないのです。現在は法的に定められた範囲内であれば,年休届けを出せば権利として休暇がとれますが,当時はそうではありませんでした。賜暇願(休暇を賜るための願い)というものを提出するのですが,許可されるかどうかは校長の判断にまかされており,本人または妻の病気か,身内の葬儀,仏事,重病人の見舞いぐらいしか許可されないのが普通でした。……休めば生徒や同僚に迷惑をかける,という良心の痛みに対しても,後で必ず埋め合わせをするから,と言って心の中で手を合わせて前へ進みました。あからさまに文句を言う同僚に対しては,忍耐を以もって屈辱に耐えることも必要でした。姉妹との心を一つにした祈りに,主がこたえてくださっている,と感じたことは大きな力となり,希望となり,事を進める力の源となりました。

東京へ出発する日は,丁度夏休みの最初の日に当たっていました。そのため普段より休みが取りやすく『これぞ天の助け』と,密かに喜んでいたのです。ところが,1か月前の職員会議で,その日に出勤日と決定され,生徒も出校日となり,学校前の海岸で海難防止のための諸訓練が実施されることとなりました。万事休す,かと思われました。このような大切なとき,担任がいなくて,万一のことが起きたらどう責任をとったらよいのでしょうか。

こうなったら,一日も早く校長に本当のことを話し,休暇の許可を受けるほかないと決意しました。『御心ならば,どうか神殿へ行けるよう助けて下さい』と姉妹と共に,必死で祈ったことを昨日の事のように思い出します。

校長は鬼瓦というニックネーム通り,その厳しさは顔にも出ていました。わたしの話を聞き『私的な信仰のために,一時的とは言え,公的な責任を放棄するという君の神経が理解できない。私的なことも犠牲にして公的なもの,あるいは生徒のために奉仕をしてこそ,宗教家と言えるのであって,生徒を置いてけぼりにして,自分のしたいことを優先しようとする君に,宗教を論ずる資格などないよ』と,剣もほろろです。『わたしは,この儀式を受けることを通して,人のよりよい生き方,よりよい教師としてのあり方についても,確信を得ることが出来ると信じています。現在の生徒に迷惑をかけることは,申し訳なく思うが,今後学校に対しても,生徒に対しても,もっと大きな信念を持って貢献が出来るようになれると確信しています。よりよい教師になるための研修に行かせたと思って,お許しいただけないでしょうか』わたしは必死でくいさがりました。

長い沈黙が続き,やがて風向きが変わって来ました。『パスポートも取り,ハワイ行きの費用も納入しているのなら,今さらダメとも言えんではないか。わかった,担当の仕事については,教頭さんにカバーしてもらうことにする。職員さんには,福岡の実家のやむを得ない事情で休暇をとった,という事にしておくから,君から余計な事は言わないように』わたしが三拝九拝して校長の前から退出したことは言うまでもありません。

(後日譚になりますが,1年後,日教組の指令で全職員がストライキに突入することになったとき,わたしの信念から唯一人反対を唱えて,前日の夜の12時まで激論を討わせた末,脱退届を出し,スト当日も管理職以外では唯一人学校に止まって,教室から教室へ自習処置をして回る,という行動を取ったため,混乱を最小限にとどめることができ,『ハワイ行きを許可したわたしの判断は間違いではなかったようだね』という校長の言葉を聞くことができました。)

このように出発直前まで試練の連続でしたので,1965年7月22日,ようやく羽田空港でハワイ行きの日航機に乗り込み座席に座れたとき,それからハワイ神殿での最初の集会で賛美歌を歌ったとき,主への感謝で涙が流れるのをどうすることもできませんでした。」

百瀬梅代姉妹

「ハワイ滞在中はなんともいえませんが強いて言うならばそれはエデンの園の生活でしたと言っても過言ではないでしょう。なぜならば気候は良く美しく衣食住の心配はさらになく,来る日も来る日も神様とともに御声を聞き隣人先祖の救いのために従い働いているんですもの,この美しいありさまをだれもがエデンの園と表現するでしょう。ほんとうにすばらしいです。できることなら一生そのところにとどまりたい気持ちでした。」(『聖徒の道』1967年7月号,19参照。百瀬姉妹はその後1982年から2年間神殿宣教師として召しを果たし,1999年に亡くなるまで儀式執行者として東京神殿で奉仕されました。)

吉沢敏郎兄弟 福岡ステーク福岡ワード

「それはわたしたち,第二次世界大戦を経験し,荒れた世間を経験した者には正に夢の国への出発でした。沢山の募金活動をこなしてやっとの思いで出発しました。

ハワイでの多くの教会員の皆様からの心からの歓迎,レイをもらって夢のようでした。正に夢の国が地上にあるとはこのことでした。大日本帝国は崩壊しましたが,これからはこのようなすばらしい土地の人々と交わり,生涯を送れると思うと喜びが一杯でした。

わたしたちは本当に神様の国の方々と生涯交わりができることに驚きと感激で一杯でした。」◆

1980 1980年10月27日御霊あふれる日本東京神殿の奉献式。救いの儀式が始まる

 吉田憲博兄弟 さいたまステーク坂戸ワード

「キンボール大管長の『すべての戒めに従って生活するように』というお話の後,献堂の祈りがささげられました。まさに主と話されているような様子でした。渡辺驩兄弟の通訳もすばらしいものでした。次にキンボール大管長の掛け声で『ホザーナ』と3回,出席者全員でハンカチを振りながら唱和し,神を賛美しました。

最後に『Hosannah Anthem』を歌いましたが,途中で涙が出て止まらなくなりました。聖歌隊員全員が同様でした。教会幹部も多くの方が涙されていました。この感動は生涯決して忘れられない思い出となりました。」

松井茂兄弟 金沢ステーク富山ワード

「我々一般会員と宣教師さんたちは吉祥寺のステークセンターに集まり,そこで一般会員のための献堂式の式典が行われました。そのとき,参加者が沢山おられ,身動きの取れないくらいぎゅうぎゅう詰めの会場でした。献堂式の参加者には白いハンカチを持参するように云われていて,当時マリオン・G・ロムニー副管長が白いハンカチを頭上にかかげて3度『ホザナ,ホザナ,ホザナ』と云われて,ハンカチを3回まわされたことを覚えています。賛美歌『主のみたまは火のごと燃え』を全員で歌いました。

そのとき,わたしは背後の頭上に重圧を感じ,天の群衆かと思われる方々も集まっておられ,ともにこの賛美歌を歌っておられ,この式典にともに参加しておられるように感じました。今思うに,その群衆の方々はこれからこの神殿で自分自身と家族が儀式を受けるために長く待っておられた先祖の方々ではなかったかとわたしは思っています。」

日本東京神殿が奉献された直後に神殿で結婚したご夫妻

森本公三兄弟 旭川ステーク篠路ワード

「10月29日(水),神殿へ向けて出発です。次のように(日記に)記されています。『釧路から東京は近く,信じられないほどである。そして,献堂式へ。大管長管理の下に行われたそれは,わたしが経験したいかなる大会よりもすばらしく,特に神殿に対する奉献の祈りは,目頭が熱くなるのを抑えることができないものであった。わたしにとっては,11月1日に行われようとしている神殿結婚のことを考えると尚更であり,神が定められた天に最も近いその場所に参入できることを,感謝せずにはおられなかった。そして,姉妹も同様であった。また,今まで与えられた戒めもキンボール長老は繰り返され,それは特に家庭の夕べを必ず行うようにというような内容で,かつてない強さでわたしの心に迫ってくるものであり,神殿を通しての永遠の結婚を強調するものでもあった。新しい生活を始めようとしている二人にとって,何にも代えがたい最高の旅立ちの言葉となり,祝福となり,戒めとなった。』

……当然ながらわたしたちは,今年結婚25周年の銀婚式を11月1日に迎えます。この間,二男二女に恵まれましたが,長男・次男はそれぞれ福岡と東京北での伝道を終え,長男は昨年東京神殿で結婚しました。◆

2004日本人聖徒の生活に溶け込み祝福をもたらし続ける今日の神殿

浅井智子姉妹 名古屋ステーク春日井ワード

「『すごーいと思った。きれいだった……。』初めて神殿ロビーに入った9歳の男の子は目を輝かせ,今,自分の目で見て感じたままを,そのように表現しました。また,1か月後にアロン神権者となる予定の男の子は,主の宮にふさわしい服装を,ということで,いつもはTシャツ姿なのに,ワイシャツにスラックスを着込みました。子供たち一人一人が,特別な思いを抱き,この日を迎えることとなりました。

(2004年)8月27日(金)~28日(土)──春日井ワード初等協会主催の東京神殿ツアーが行われました。深夜の高速走行で,まだ眠い子もいましたが,着替え後いよいよ東京神殿へということで,ちょっぴり緊張した面持ちの子供たち。

朝8時30分──ロビーに入ると,周りを見回し,主の宮の様子を目と,霊で感じているようでした。神殿ロビーでは,ささやくような声の福田真神殿長から,短く神殿を案内していただいたのち,別館にてOHPを使って,神殿の目的など詳しい説明をお聞きしました。映し出される神殿内の様子に見入る子供たち。福田神殿長の問いかけに,一所懸命答える子供たち。そんな様子に,ツアーを準備してきてよかったと,しみじみ感じました。

……この日,神殿長からのお話の後,子供たちは一人一人愛する家族へ手紙を書きました。そして,愛する家族とともに,永遠にいられるために自分に何ができるか,何がしたいかも書きました。

……今回のツアーが,子供たち一人一人の心の中に生き続け,永遠の家族を築くうえでの,大きな力となってくれることを願っています。」

山田真由美姉妹 鹿児島地方部名瀬支部

「わたしには大切な日がたくさんあります。自分の誕生日,子供たちの誕生日,バプテスマを受けた日,そして福岡神殿に参入した日です。

バプテスマを受けたのが2001年8月18日,福岡神殿に初参入したのが2004年12月23日。こんなに早く神殿に参入する時が来るとは思っていませんでした。また,その大切さも知りませんでした。神殿推薦状を取得し,維持していくことの責任の重さもよく分かりませんでした。少しずついろんなことが分かってきたときに,神様やイエス様への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

バプテスマを受けたからそれで終わりではないことを知っています。神殿に参入してからわたしの新しい信仰生活が始まりました。多くの兄弟,姉妹から,神様のみもとへ行けるように,この世でやるべきことをたくさん教えてもらっています。それは,不完全なわたしを正しく導いてくれていると証します。

神殿が確かに主の宮であることを心から証します。ふさわしさを維持することは大変なことではありません。それは自分自身の誇りとなり,大きな喜びとなります。できるだけ早くまた,神殿に参入できたらいいなあ,と思っています。

今この時代にこそ,この教会の福音が必要だということを証します。いつか名瀬支部から福岡神殿へ団体参入する日が来ることを願っています。」◆