リアホナ2005年1月号夫婦の履歴書 第8回 心臓手術を乗り越えて──車いすの夫婦宣教師

夫婦の履歴書 第8回 心臓手術を乗り越えて──車いすの夫婦宣教師

福岡伝道部夫婦宣教師──徳留清弘・貴美子ご夫妻 

徳留清弘長老は車いすの宣教師である。自宅に住み,地元で週に32時間以上奉仕する専任宣教師として召されている。

JR宮崎駅のコンコースに現れた徳留長老は車いすを軽やかに操って,くるくるとスピーディーに動き回る。自動車に乗る際も,同僚の貴美子姉妹が車いすから抱えたと思うやするりと乗り込んでいる。動きはなめらかで,ぎこちなさは感じられない。「運転席に乗るときは自分で乗って自分で車いすを処理することができます。車の運転もできるんですが,ついつい甘えています。何しろ二人で一人なものですから。」夫婦伝道には夫婦の一致が必要,と語る徳留ご夫妻の“一致”ぶりには年季が入っている。もう四半世紀もの間,車いすとともに夫婦で生活してきたのだから。そして,徳留ご夫妻にとっての伝道の原点も,実は25年前にある──1980年。東京神殿の完成と奉献,スペンサー・W・キンボール大管長を迎えての地域大会……日本の教会歴史において一時代の区切りとなったこの年,遠く宮崎の地にて徳留ご夫妻の歴史もまた,大きな転回点を迎えていた。

この体で伝道するように

徳留長老は先祖代々カトリックの家系に生まれた。カトリック教会を信じていたものの,三位一体の教義を理解できずに悩んでいたところへ宣教師の訪れを受ける。息子ほどに年が離れているにもかかわらず,宣教師たちは徳留兄弟の悩みにはっきりと答えた。驚いた徳留兄弟は福音の回復を信じ,宮崎の青島海岸でバプテスマを受ける。39歳,1971年のことである。

当時宮崎には伝道所があるだけで,聖餐式は四畳の畳の部屋で行われていた。木のミカン箱に白いシーツをかけて聖餐台にしているような時代だった。やがて伝道所は支部となり,徳留兄弟は初代の宮崎支部長に召される。

1980年当時,徳留支部長は教会堂を購入するために奔走していた。安息日の集会出席人数は建物購入申請基準を満たしていたものの,建築資金を負担するのは支部の会員たちにとって容易なことではなかった。そのころちょうど自分の家を建てようとしていた徳留支部長は,準備していた資金の中から建築資金を献金しようと思い立った。その代わり自宅の新築はあきらめて中古住宅を購入し,同時に郊外に山を買って造成,当時キンボール大管長が勧告していた家庭菜園をやろうと計画する。野菜がおいしい土地だと聞かされていた。「(生活に)困ったときはサツマイモでも作ればいいから」と貴美子姉妹も賛成し,支部の建築資金を入金した。

さて,造成した山は周囲に人家がなく水道が引けない。そこで徳留兄弟は20代の息子さんと二人で井戸を掘ることにした。最初に堀った井戸からは豊富に水が出た。しかし水質が飲用に適さないと言われたため,別の場所に7メートルほど掘った。

「次の休みにあとちょっと掘ることにしました。彼岸の中日だった(1980年)3月21日です。息子と二人で掘りに行き,下に降りようとしたら手が滑って,自分が掘った穴に落ちてしまったのです。脊椎の節が二つばらばらに砕けてしまうという事故でした。そのころ,教会の建物の(購入)許可はもう大丈夫ですと言われていて,わたしはうれしくて有頂天になっていたところだったんです。」

救急車で運ばれ,宮崎の県病院に緊急入院する。当初は病室の古い扉がきしむ音ですら激痛を引き起こした。そんな状態にあったときである。ある確信が徳留ご夫妻にやって来た。

「県病院に入院しているときに,主人が『いま御霊を受けたからちょっと聞いて』と言ったことがあります。なんのこと,と尋ねると,『この体で伝道するように御霊を受けた』と。……そのとき,わたしも同時に同じ御霊を受けたんです。」

それから,徳留家族の伝道が始まった。子供たちも病室で会う人皆に,にこにこしてあいさつするようにした。そうして県病院での入院中に30冊ほどの『モルモン経』を配った。2週間後,徳留兄弟は横になったまま自衛隊のヘリコプターで福岡県飯塚市の脊椎損傷センターへ移送されるが,そのとき福音を紹介されたうちの一人は徳留兄弟が県病院へ戻って来るまで待っていてバプテスマを受けることになる。

3人の男性をバプテスマ

飯塚での入院中にも伝道は続いた。当時,3歳の娘さんが病院の中で周りの人と自然に友達となり,そこから両親の徳留ご夫妻と知り合って,1日おきに見舞いに来る宣教師を紹介する,という形であった。人気のない広い食堂の片隅に皆を集めたところへ宣教師がやって来て福音を教える。皆,体を患って悩んでいることもあり,一度に20人ほども集まったという。病院内での宗教活動は御法度なので,看護婦長さんに度々注意されたものの,相手の心が和らげられてそれほどきつく叱られることもなかった。

しかし夏になり,3人の男性がバプテスマを受けるとなったときにはさすがに止められる。水に沈めることで肺炎などを起こした場合,病院側は責任を取れない,と。──徳留ご夫妻は何度も断食し,やがて肺炎にならないよう温かいお風呂でバプテスマを行う許可を取り付けた。だが脊椎損傷で体の動かない人にどうやって儀式を行うのか。徳留ご夫妻は断食して考え続けるが,分からない。

「どんなふうにしたらできるだろうかと考えながら開会行事が始まりました。そして,賛美歌を歌ってお祈りが終わったとき,パッと分かった……ここに来て,宣教師のここを握って,こうしてくださいって,そう(指示)している自分に気づいたんです」と貴美子姉妹は振り返る。

東京神殿奉献式・地域大会

やがて10月になり,キンボール大管長を迎えて東京神殿の奉献式と地域大会が行われることになった。徳留兄弟はちょうど手術の後ギプスで体を固定したところだった。ほとんど身動きできない状態で,しかし預言者の声を聞きたいと徳留兄弟は強く願った。「娘と二人で主人を車に乗せるのにそうとう時間がかかりました。……ベッドの上の介護は慣れているんですが,いったん下に降ろしたらどんなふうにベッドに上げられるかも分からないし。これじゃお父さんあきらめた方がいいよ,と言いました。」しかし徳留兄弟はあきらめない。「主人は,長血を患った女がイエス様の裾に触ったとき癒されたということがあるよね,だからぼくはどういうことがあってもキンボール大管長の裾を引っ張ると言うんです。」行きたいという望みがあれば必ず助けがある,と信じて祈り続けた徳留ご夫妻。ついには病院の外出許可を取り付け,飛行機で一路東京へ向かった。

武道館で開かれた地域大会では,徳留兄弟は車いすを押してもらって西口のエレベーターから会場へ上がり,姉妹と子供たちはベビールームでお話を聴いていた。やがて大会が終わり,会場からはどんどん人が退出して来る。徳留兄弟が大管長にお会いできるかと一縷の望みを抱いて姉妹は待っているが,待てど暮らせど兄弟の車いすは降りて来ない。とうとうキンボール大管長が支えられてエレベーターから降りて来た。外には中央幹部のためのバスが何台も止まっており,大管長もバスに乗ってしまった。

しかしなぜかバスは出発しない。「皆さん,乗られたのになぜあのバスは出発しないのかなと思った途端,キンボール大管長が支えられてまたバスから降りていらしたんです。……そしてキンボール大管長がエレベーターの方にいらしたら,そのエレベーターが開いてうちの主人が降りて出て来たのです。……そのときわたしは,願いがかなえられたと大きい声でわんわん泣いたんです。」

大管長は徳留兄弟に歩み寄り,握手して優しく抱きしめ,右頬に接吻してくださった。

そこへ当時十二使徒定員会会長であったエズラ・タフト・ベンソン長老がやって来た。英語で,「この姉妹はどうして泣いていますか」と問いかけると,何も話していなかったのにどこで聞いたのか,車いすを押してくれていた兄弟がこう紹介する。「この方は今病院に入院の身ですが,病院で3人の兄弟を改宗しました。」「すばらしいことですね。では,住所と名前を書いてください。特別に大管長会でお祈りをします。」すべては英語でのやりとりであった。しかし徳留姉妹は御霊を受けて,ベンソン長老との会話をすべて理解できたという。

徳留ご夫妻は,夫婦と末娘との結び固めはハワイ神殿で済ませていたが,ほかの子供たちとの儀式はまだだった。神殿側の配慮により,東京神殿で最初に結び固めをした家族となった徳留ご夫妻は,多くの祝福と奇跡に喜びながら帰途に就いたのである。

「霊の足で歩いてください」

「今は上半身が動くので,上半身で下半身を支えることができます」という徳留長老はいつも笑顔である。車いすに乗っているものの,外見的にはまったく体調が優れないようには見えない。しかし徳留長老には,脊椎損傷から来る灼熱感,炭火の上をはだしで歩いているような痛みが絶えずあるという。「わたしの場合は福音の慰めやたくさんの恵みがありますから,それで自分をカバーすることができます。わたしの知っている人はずっと病院で痛みを和らげるモルヒネを打っています(。わたしも)痛みはありますが,それに耐えられています。ただ,夜中に目が覚めると痛みで寝られなくなります。それはもうやむを得ないのですが。」また,疲労が重なったり神経を使いすぎたりすると激痛が走る。「体全体がもう痛みますので,福音をともに分かち合って感動しているときがいちばん幸せです。仕事をしているときは忘れています。寝ているときだけが苦しみを覚える,痛みを感じる,そういう毎日です。」普通だったら起きられないですね,と貴美子姉妹も言い添えるが,入院中〔後述〕と準備の日以外,専任宣教師に召されてから一日も休んでいない。

1980年12月に退院してほどなく,地方部大会で伝道部長に祝福してもらう機会があった。今も心に残っているそのときの言葉がある。「あなたには足は要りません。霊の足で歩いてください。」──「ほんとうにそれは慰めの言葉でした。それを心に留めることで前向きに耐える力が与えられました。」

当時こんなこともあった。「部屋に車いすを入れ,娘と二人で両方から肩と足に手を回し,1,2の3で主人を車いすから降ろしたら,すごく軽いんです。ほんとうは重いはずなのに全然重くないんです。何も持っていないような感じで,ほいっと降ろしたようでした。それで娘に『何か感じなかった?』と聞きました。『感じたよ』と言うのでどんな感じ? と言うと『お母さん,何も持っているようじゃなかったよ』と。」主人の世話をするときは力が与えられ,軽く感じるんです,と語る貴美子姉妹。実際,貴美子姉妹が徳留長老を助ける姿を横で見ていると,そこには重さが感じられない。「ひょいひょいとするのでみんなびっくりします。」まさに霊の足で歩いているかのようだ。

心臓手術を乗り越えて

2004年3月初旬,専任宣教師に召されて3か月ほど過ぎたある日のことだった。「夜,心臓がちょっと痛かったわけです。今から伝道を頑張らなくちゃいけないので,翌日病院で検査してもらい悪いところがあったら治しておこうと思いました。」

ところが検査してみると,これは大変だとなり,紹介された別の病院にすぐ行くよう指示された。「でも特にどうということはないので明日にしようかと話していると,『まだいるんですか,早く行ってください,救急車を呼びますよ』と言われました。」指定された循環器科に行くと,医師が3人,看護士が4,5人待ちかまえていて徳留長老をすぐに連れて行った。「このまま帰ったら危ないです」と言われ,即入院となる。検査すると,心臓にある大きな3つの血管のうち2つが狭窄しており,糸よりも細い血管となってかろうじてつながっている状態だという。

別の病院に移送され,手術となった。徳留兄弟は脊椎損傷から来る麻痺のため体の反応が遅いこと,肋骨を開け,人工心肺につないで手術すること,しかし時間がかかると10幾つの合併症の危険があることなどを聞かされていた。心臓手術なので手術後の血圧はゼロから始まり,血圧が上がり出すことが回復のバロメーターになるという。神権の祝福を受け,3月12日,貴美子姉妹の心配と祈りの中で手術は始まった。

「結局,手術は予定より30分早く済みました。早く済むのはいいことだそうです。……それから,何時間かおきに聞いてみましたが,血圧も体温も脈拍も最初から正常なんです。先生もそんなはずはないとおっしゃっていました。ゼロからのスタートなのに病室に連れてきたときにはもう正常になっていたんです。」その後も血圧は安定しており,手術後の熱も出なかった。肋骨を金具で留めてあるので息をするたびにガチャッ,ガチャッと音がするほどだったが,手術後5日目には車いすに乗れるようになる。「乗れるはずはないのに。力がかかるので肋骨に響いて痛くなるはずです。それがちょっとお尻を押すだけで車いすに乗り降りできたんです。驚きました。」

その日,伝道部長がお見舞いに訪れた。車いすに乗れるようになったと伝えると,「すごいですね,それでは3月28日のバプテスマ会に行けますね」と言われる。入院する前に徳留ご夫妻が教えていたパートメンバーのご主人のバプテスマ会が予定されていたのである。それは手術後わずか16日目のことだった。「いくら何でも無理ですよ,伝道部長さん」と貴美子姉妹は答える。

ところがそれが実現してしまう。最善を尽くしてリハビリに励んだ徳留長老は,13日目には循環器科病院に戻され,バプテスマの前日に外出を願い出て許可されるのである。「回復が早められたというどころの話ではなく,まるで新幹線みたいだったんです。わたしが追いつかないくらいの回復の早さでした。同じような手術をした人は3,4か月の入院だそうですが,31日目に退院して明くる日から伝道を始めました」と貴美子姉妹は振り返る。

徳留長老はこう語る。「ヨブの方がずっと大きい試練だったと思いますが,わたしはこの試練を受けてほんとうにどっちかというとよかったなと思うくらいです。痛みは来ていますけれど,しかし今のこの喜びから見たら微々たるものです。」──証を得る前に教会から遠ざかってしまった会員たちを訪ね,再び一から福音を教えている徳留ご夫妻。「とにかく楽しいですよ。こんなに楽しいことはほかにありませんね。」彼らは徳留ご夫妻に心を開き,教会に足を運んでくれる。ある教会員でない方にこう言われたことがある。「徳留さんの体,あれは人間業じゃないね。」人々は徳留ご夫妻の働きぶりに,まさに神の業を目撃しているのである。◆