リアホナ 2005年3月号 わたしの原点宣教師のころ1 損得にとらわれず,我が道を淡々と歩む校長先生

わたしの原点宣教師のころ1 損得にとらわれず,我が道を淡々と歩む校長先生

新潟県の英語教育の第一人者── 吉田 博兄弟 

吉田博兄弟は,新潟県で中高一貫教育を行う学校で校長の職に就いている。県立の中学校と高校を通じて教育が行われているユニークな学校だ。入学者のオリエンテーションは日曜日に行われていたが,吉田兄弟が校長に就任して以来,開催される曜日が変更された。現在は,各中学校の卒業式が終わった時間と調整して,その日の午後に高校で行われている。日曜日は家族とともに過ごし,教職員も休む。子供たちの母親からも楽になったと好評である。「校長だからできることもあるんですよ。わたしがこれを行えるようになるまで,30年かかりました」と吉田兄弟は微笑む。「何か自分の考えを実現するためには,それぐらい時間がかかるもんです。」

吉田兄弟は国立新潟大学の学生のときに宣教師と出会って改宗した。「新潟で独り暮らしをしていた大学1年生の10月のことでした。日本海でバプテスマを受けました。宣教師としての召しを受けたのは2年生が終わった20歳のころでした。伝道へ出られる人は経済的余裕があって,家族が助けてくれる人だけだと思っていました。」そのころ,地方部大会が東京で開催された。集会で,伝道へ出たい人は立ってくださいという問いかけが指導者からなされたとき吉田兄弟は思わず起立してしまった。「つい立ち上がってしまったんですね。もう後には引けませんでしたよ」と笑う。

4年間で大学を卒業すると思っていただけに,休学して伝道へ行くことに対して両親は驚いた。伝道資金は自分でなんとかしなければならない。アルバイトをして準備したが,全額を自費で賄うのは難しい。なにしろ1ドルが360円の時代である。それでも新潟支部からは7人の若人が宣教師として召されるほど熱意があふれていた。「当時は宣教師になる人のために教会の中でスポンサーを見つけてくれました。わたしもアメリカの長老定員会や個人から援助を受けることができました。」

1970年5月から1972年3月まで,岡崎伝道部長,そして清水伝道部長の指導の下,日本中央伝道部で働いた。それは大阪万博が開催されている時期だった。宣教師となった吉田兄弟は戸別訪問と街頭伝道を行いながら2年間を過ごす。携帯するボードにチョークでメッセージを書き込んで街頭で説明することもあった。現在と違ってモルモン書も,無料で配布するのではなく販売しなければならなかった。会員が少ない小さな支部での伝道は,吉田長老と地元の会員の関係を強め,「とにかく一生懸命働きました」というすばらしい思い出を残してくれた。今でも,ともに力を合わせて働いた教会員とは交流を続けている。

伝道中に培われた原点

大学で人文学部文学科に所属し,英語を専攻していた吉田兄弟は,伝道中の経験を振り返り次のように語る。「2年の間,外国人といつも生活して,異文化の人たちをそのまま受け入れることができたというのが今の仕事につながったと思います。少しばかり通訳のまねごとみたいなことをしたのが縁になって,教会の中で通訳を頼まれるようになりました。」その後,吉田兄弟は英語の教員になり,教会の中でも様々な場面で通訳者として活躍している。「一般の英語教師よりもいろんな英語にたくさん接することができたと思います。通訳をしているときにはだれも助けてくれる人がいませんから,すべて自分で切り抜けなければなりません。そのような修羅場をくぐってきたのがいい経験になっています。」そう話す吉田兄弟には留学経験がない。留学して英語が流暢な人はうらやましいと話すものの,通訳とは「最終的には瞬間的な日本語表現が求められる」技術であると述べる。

吉田兄弟は校長になる前,教育委員会の中で指導主事として約650人の教師を指導する立場にあった。「雇った以上は力をつけて生徒に教えてもらわなければなりませんから。」様々な教師を指導する中で,たゆまず忍耐することを学んだと話す。「伝道中には10人ぐらいの人と同僚になって生活します。異なった生活環境の中で育った人同士が同僚になりますから,コミュニケーションを図るのが難しいときも必ずあります。伝道部長はわたしに『あなたの同僚たち全員とうまくやって行ければ,世の中に出てすべての人とうまくやっていくことができますよ』と話してくれました。」伝道部長の言葉は,多くの人と接する今の仕事にそのまま生きている。

祝福のためでなく

吉田兄弟が教員採用試験を受けたときに,受験者を集めての合同の面接が行われた。「最近読んだ英語の本で印象深かったのは」の問いに,英語の指導書などの名前を挙げる受験者たち。そうした中で吉田兄弟だけは皆と毛色の違った書籍を挙げた。

「『赦しの奇跡』です。」「それはどのような本ですか?」「わたしが通っている教会の指導者が書いた本です。」ことさら気負ったつもりもなく,淡々と「筋を通した」答えだった。そう答えることで面接官の心証がどうなるかは分からない。ただ,飾らずにそのままを伝えた。わたしたちは改宗するときに神様と約束したので,メリット(得)があろうがデメリット(損)があろうがそれを淡々と守るだけだ,と。「隠して背伸びをすると後が大変ですから」自然体がいちばんなのだという。

「宣教師になることは日本社会ではリスク(危険を冒す)と思われることも確かにあります。2年間のブランク(空白,ここでは学業や職歴の中断の意)もありますから。しかし,信仰というのは,その場その場の瞬間的なメリットだけを考えて行うものではありません。結果として祝福を受けることはたくさんありますが,秤にかけながら行うものではありません。戒めに従うことも,宣教師になることも,伝道に出たらどのようなメリットがあるとか祝福があるとかはあまり考えない方がいいでしょう。伝道にはリスクがあるかもしれませんが,それは仕方がないことです。そのリスクを背負いながらも,それをリスクと思わない生き方が大切です。知恵の言葉を守れば,社会生活の中でデメリットと思われることもあるかもしれません。しかし,『あの人は自分の哲学を持っている』と周囲から評価されることが重要です。知恵の言葉を守ることで健康がもらえるとか,そのようなレベルの話ではありません。わたしたちの教会は御利益宗教ではありません。結果というのは自分が思っているようなときに,思っているような形では出ないと思います。福音はもっと総合的で深くて時間がかかるものだと思います。」

吉田兄弟の話の中では何度も「筋を通す」という言葉が飛び出す。実直な態度にふさわしいその言葉を,伝道に出たときから現在に至るまで貫いていることが察せられる。「世の光になっている教会員が多くなってきました。わたしも『吉田の行っている教会ならば』と言われるようになりたいと願っています。」

教員として採用されて最初の学校へ赴任した吉田兄弟は,校長に尋ねたことがある。「どうして自分を採用したのでしょうか。」校長は答えた。「あなたの履歴書の中にキリスト教会の宣教師として休学したと書かれていました。そのような信仰を持つ人ならば,この仕事を任せられるかもしれないと思ったからです。」今でもその履歴書は吉田兄弟について回っている。「あまり上手ではない字で,宣教師として奉仕したことが書かれていますよ。」そして,「わたしたちはすべてのことを淡々と行うべきです。正直に無理のないようにね」と言い足す。

筋の通った理想を求めて

現在の校長の仕事は,「自分の理念を作って運営していく楽しい作業であり,やりがいのある仕事」と表現する。教育委員会での教育部長から校長への抜擢。金曜日に新潟の自宅へ戻る単身赴任の生活を続けている。

吉田兄弟の教育に対する理想は高い。「最近は地域や家庭との連携が叫ばれています。地域や保護者との関係も良くしながら学校を経営していくことも大事です。しかし,教育というのは教育の専門家が行うべきことだと思っています。プロにお任せくださいと言える教師であってほしいと思います。周囲から何かを言われたときに,簡単に迎合するような教師や組織であってはなりません。もっとプロとしての意識が必要です。」

「周囲に理解してくれる人がいたので」と遠慮がちに話すが,吉田兄弟のこの強い理想は,「筋を通す」ことを実践しながら信仰を貫いてきた姿に基づいているように感じられる。教会員として生活することで,社会や職場で「豊かな人間関係に恵まれました」と吉田兄弟は話す。「酒を飲む人の多くは酒を飲む人とだけ付き合いますが,わたしたちは,酒

を飲む人ととも,酒を飲まない人とも付き合えますから」と吉田兄弟は,これまで築いてきた人脈に触れながら語る。

江戸時代から明治時代に時代が移る激動期に,長岡に小林虎三郎という人物がいた。長岡の復興を託された一人であった虎三郎は,青少年の教育に力を注ぎ,教材を準備し,有能な教師を集めた。疲弊した長岡に贈られた米百俵を藩士の食糧にせず,これを売却し教育費用に充てる先見の明によって,新しい町として長岡をよみがえらせたという。この郷土の偉人の思想や気風は,目先の損得勘定にとらわれず,将来を見据えて淡々と信仰生活を送る吉田兄弟の姿に重なる。「この百俵は,今でこそただの百俵だが,後年には一万俵になるか,百万俵になるか,計り知れないものがある。」虎三郎のこの言葉は,20歳のころに伝道地に赴いた吉田兄弟だけではなく,これから伝道に旅立つ若人の可能性をも語った言葉のように感じられるのである。◆