リアホナ2005年7月号懸命に戒めを守り,北の大地に信仰を刻む 

福音とともに土に生きる3

「わたしは食い滅ぼす者を……おさえて」(マラキ3:11)

「わたしは食い滅ぼす者を……おさえて」(マラキ3:11)

── 懸命に戒めを守り,北の大地に信仰を刻む 

河田利夫兄弟・みゆき姉妹/札幌ステーク帯広ワード 

1972年に帯広で改宗した河田兄弟は,高校を卒業した後,家を継いで農業に従事する決心をした。「兄が農業を辞めて出ていくということになったので,卒業を間近に控えたわたしは『じゃあ,わたしがやってやる』と奮い立って農業を始めました。」改宗したのは23歳。別の兄の紹介で教会を知った。農業を始めて5年後のことだった。

ヨブのように

改宗した3年後にみゆき姉妹と結婚した河田兄弟のもとへ長兄からの連絡が入った。「教会員ではない一番上の兄がまた農業をやりたいと帰って来ました。わたしたちは分家をして,他の場所で酪農を始めたのですが……。」

長兄が牛舎を建てて1年目に最初の災難が訪れた。その牛舎が火事で全焼してしまったのだ。分家して他の場所で酪農を始めた河田兄弟姉妹がハワイ神殿を訪問し,帰国して間もない10月のことだった。

「実家には両親もいました。43頭の牛が仔牛も含めて全部焼け死んでしまいました。兄は牛舎を建てたばかりですから,借金だけが残ってしまったんです。土地をほとんど全部売らないと返せない状況でした。しかし,そこで辞めてしまうと,非常に頑張ってきた父親が落胆するのはよく分かっていました。」

火傷を負った長兄は農業を辞めて家を出て行ってしまった。河田兄弟姉妹は再び父親のところへ戻り,働いて借金を返すことになった。残された借金は金額にして約3千万円。「当時の3千万といえば,とても大きい金額でした」と河田兄弟は話す。

さらに河田兄弟姉妹に大きな悲しみが訪れる。

2週間かけて全焼した牛舎の後片付けを終えて間もないころだった。「わたしたちが牛舎で仕事をしていたときのことです。牛舎の回りにはぬかるみがありました。わたしたちを捜していたのだと思うのですが,息子がその水たまりに落ちてしまったんです。わたしは遠いところにいて,探したけれど分からなかったんです。」水たまりに落ちたのは河田夫妻の次男。2歳になるころだった。「神殿から帰ってきてから,いろんなことがありました。」河田姉妹は静かに振り返る。若い夫妻は牛舎を失い,幼い子供の命も失ってしまった。「安息日を過ごして月曜日に息子が亡くなりました。葬式が終わった後は夫婦で放心状態でした。」

全焼した牛舎の後にもう一度新しい牛舎を建てることにした河田兄弟は,飼っていた牛の半分を売り,残りの牛を実家へ持って来た。分家した若い夫婦が始めた酪農は借金をしてのスタートだったので,自分たちの分,長兄から引き継いだ分,そして,家の返済金も含めて負債は多額に膨れ上がっていた。

「父親がいましたからね。父親は生活する術もないわけですし。全部一緒に引き受けることにしました。そうしなければ土地も全部売らなければなりません,返済しようと思っても牛もいないのですから。父親は相当ショックを受けていました。ほんとうは牛舎をわざわざ建てるよりも,酪農をやめてしまった方が楽だったのですが,農協が出す条件に従い資金を繋がないと農業が続けられない状況になっていました。」河田夫妻が牛舎を建て始め,材料が届き始めたころ,その半年の間にもう一つ命を失ってしまう。「父親が肝臓ガンで亡くなってしまいました。とてもかわいそうでした。」

さらに,牛舎を建てた河田夫妻を新しい苦難が襲う。

「その後2年間,酪農をやりましたが,酪農にとってすごく悪い時期になってきました。牛乳が余り,牛乳に食紅を入れて出荷調整をした時期なんです。もうそれ以上出荷できないような状況を作り,食紅を入れた牛乳は仔牛に飲ませるか,捨てなければなりませんでした。負債などとても返せるような状況ではありません。牛もだんだんと安くなりますから,思い切って牛を売って,土地の一部も売って,酪農を辞めることにしました。」

力を尽くして安息日を守る

河田夫妻を責め立てたのは大きな災いだけではなかった。周囲の人からの辛辣な言葉も若い二人の心を傷つけた。「わたしたちは結婚するときに安息日を守ることを第一として決心していました。たとえ酪農でも畑作でも,とにかく日曜日は仕事を休むことにしていました。農家としてはちょっと強引でしたが……」と語る。

酪農のほかにもじゃがいもを栽培していたが,高価な農耕機械を数件で共同購入し,作業も共同で行わなければならなかった。「共同作業であれば,安息日なんて自分で決めることはできませんから。」結局,共同作業から抜け,ジャガイモを作ることもやめた。「直接耳に入ってこないものもありましたが,とにかくいろんなことを言われました」と河田姉妹は回想する。

安息日を守るために河田夫妻はとにかく力を尽くした。

「天候が月曜日から崩れるとわかっていながら,日曜日に仕事をしない日もたくさんありました。牛を飼っているときは天気が勝負の牧草の仕事を土曜日の夜中まで行って,ほとんど寝ないような感じで朝早く起きて,牛の世話をしてから教会へ行くということはよくありました。当時,わたしも支部長をしていましたので,朝の3時くらいに起きて,朝と昼の餌をやって,帰りは支部長として面接などをして教会を出るのが,5時とか6時になります。周りが何と言おうと,親が何と言おうと,安息日をどうやって守ろうかと考えていました。それから帰って牛に餌を与えたりすると,午後10時くらいになるんです。安息日を守って教会から帰ると,一番期待していた牛が牧柵に挟まって死んでいたこともありました。牛が放牧地から逃げ出していたこともありました。雨が続いたりすると,牧草が腐ってしまって,近所からいろいろ言われましたし,一日で何百万もの被害を被ることもありました。牛を飼ったり,畑作業をしながら安息日を守るのはほんとうに大変なことなんです。よくやったと思います。若かったから。必死だったんですね。」

にんじん作りとの出会い

安息日を頑なに守る河田夫妻の所へ一つの話が舞い込んできた。にんじんを作る業者が土地を貸してほしいというものだった。「にんじんってどんな作物なのかわたしたちも知りませんでした。貸すときに条件を付けたんです。うちの畑でどれだけ取れたか,収穫量とか製品率とかのデータをくれるならという条件を付けて貸してあげたんです。そして,秋の収穫をしているところを見たら,見事なにんじんができていたんです。これ以上のにんじんなんてあるのかなと思うくらいのにんじんができていました。そして,データを教えてもらったら,やっぱりその業者が扱っているほかの畑で作った中でうちの畑で作ったにんじんがいちばん良かったんです。うちの畑でこんなすばらしいにんじんができるのならば自分で作ろうと思いました。」

翌年,河田夫妻はさっそくにんじんの栽培を開始した。「4町歩くらい作ったんですが,何にも知らないで作ったので,ほとんどいっぺんに種を蒔いてしまいました。収穫の機械もないので手で掘って,手で選果して大変でしたが,大きな収入になりました。」

河田兄弟は「すばらしい」自信作のにんじんを直接,市場に持ち込み,どのような評価をされるか試してみることにした。にんじんを見た市場関係者は口々に言った。「すばらしい。これだけのものを作れるなら,続けて出荷してください。」今では出荷する段ボール箱を見た別な業者からも出荷依頼が届く。今,東京の大田にあるいちばん大きな青果市場に出しているが,仲買業者から直接欲しいと依頼され,契約栽培も多くなってきた。そのため市場に出荷する分がないほどの人気になっている。

もちろん「毎年いいことばかりではありませんよ。神様はちゃんと高慢になることを防いでくださり,ときどき叩いてくださいますから」と話す。

殺虫剤なんてかけていません

「人生の中で,損失だと思えばそのようなことはきりがありません。例えば,牧草の仕事を木曜日から土曜日まで行い,日曜日も天気が良くて,日曜日に仕事をしていればいいものを日曜日に休むと,月曜日に雨が降るんです。乾燥がほとんどできている牧草を雨に濡らせば,腐ったり品質が落ちたりしてしまいます。しかし,そういうのを気に留めていたら安息日を守ることなどできません。神様はすべてを分かったうえでそうされているんですから。とにかくこれで行こうと。損害ではなく当たり前だと思っていました。牛の事故なんて別に日曜日に限らずいつだって起こることです。そう思えば,安息日に教会へ集うことで損失なんてありません。」

農家の朝は早い。日曜日でも6時には仕事を始めている。支部長を務めていた河田兄弟は朝8時ごろに,ネクタイを締めてスーツ姿で出かけていく。「あんなことをやってたら農業なんて続かない」何度も河田夫妻が耳にした言葉がそれだ。想像もできないような苦難を体験してきたにもかかわらず,結婚したときからの決意を守り続けた河田夫妻は,現在,周囲の風評に反するように,工場も建て,従業員も雇い,借りた土地も広げながら農業を営んでいる。大根,じゃがいも,大豆,にんじんが終わったら,牛蒡と長芋。春まで出荷できるようにして,冬は収穫して貯蔵したものを選果して一年中出荷できるようにしている。「どうしたらできるんですか。」批判の声に代わって,このような質問を投げかけられるようにもなってきた。「理想を追求している姿を周りの人は見ているんですね」と河田兄弟は話す。

「安息日にわたしが責任を果たすときには,妻が一人で牛の世話をしてくれました。ほんとうによくやってくれたと思います。二人の息子たちは,教会にも集い,伝道にも行き,神殿で結婚し,今も頑張っています。以前,にんじんの葉に虫の死骸がたくさんついていたことがありました。それを見た業者が上手に殺虫剤をかけましたねと言うんです。にんじんにたくさんつくアゲハチョウの大きな幼虫の死骸がいっぱいぶら下がっていました。しかし,昔から最低の農薬しか使わないので殺虫剤なんてかけていません。什分の一の律法に書いてあるように,食い滅ぼすものから神様が守ってくださったんです(マラキ3:11参照)。わたしたちが気づかないところで,神様が守ってくださったんです。子供たちがこんな話を聞いて覚えていてくれます。それだけでも大きな祝福でした。そのようなことを思えば,安息日を守ってきたことは,これで良かったのかなと思います。」

河田兄弟姉妹の経験は辛く,哀しく,時には出口さえも見当たらないようなものだったであろう。すべてを主にゆだね,祈り,安息日を守り続けてきた河田夫妻は「知恵がなかったので」と何度も語る。しかし,主の知恵に頼る方法こそ最も賢明な選択であることが,真摯な態度を貫いてきた二人の人生を通じて証されている。◆