リアホナ2005年1月号 日本の聖徒,ヒンクレー大管長の言葉に耳を傾ける

日本の聖徒,ヒンクレー大管長の言葉に耳を傾ける

衛星放送によるステーク大会で,パッカー長老とソレンセン長老も語る

ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,ソルトレーク・シティーから衛星放送を通じて日本の聖徒に語った中で,日本での経験を回想し,その国の人々に抱いている愛を表した。

この放送は,日本の会員が日曜日にステーク大会や地方部大会で受信できるよう,11月6日土曜日の夜(アメリカ山岳標準時)にソルトレーク・シティーから生中継された。衛星放送では,十二使徒定員会会長代理のボイド・K・パッカー長老とドナ夫人,七十人会長会のデビッド・E・ソレンセン長老とバーラ夫人も話をした。

ヒンクレー大管長がこのような放送を通じて,一つの国の多くのステークや地方部の会員に向けて話をするのは2度目のことである。9月12日にベネズエラの各ステークと地方部の聖徒に向けて,大管長の言葉が衛星放送によって届けられたのが最初であった。

ヒンクレー大管長は会場の聴衆に向かい,自分も日本の聖徒とともに集えたらよいのにと述べる一方で,電波を通して聖徒に語りかけることが可能になったのは優れた科学技術のおかげであると語った。

また大管長は次のように語った。「日本の聖徒を心から愛しています。1960年に初めて日本を訪れましたが,そのときわたしは50歳でした。44年前のことです。その後,様々な機会に日本を訪れ,訪問回数は45回になるかと思います。これまで南は沖縄から北は旭川まで,皆さんの美しい国をあちこち旅をして巡りました。

日本は京都や日光といった美しい場所を有する非常に麗しい国です。また偉大な産業国であり,にぎやかな大都市が幾つもあります。日本の皆さんの非凡な特質は,広く世界に知られています。

わたしが初めて日本に来たころは,教会はまだ発展していませんでした。ワードもステークもなく,小さな支部と地方部が幾つかあるだけでした。教会が所有する建物がなかったので,集会を開くために狭い家屋を借りました。日本全体で伝道部は一つしかなく,伝道部長も一人でした。今日わたしは,30のステークと6つの地方部の会員に向けて話をしています。数多くの美しい教会堂があり,すばらしい神殿が二つ,一つは東京に,もう一つは福岡にあります。

今日の日本には,男女を問わず力強い指導者がいます。世界のあらゆる地域で教会を導くどんな指導者にも劣らないすばらしい指導者です。

長年にわたる古い友人の多くが,すでに世を去りました。わたしも年をとってきました。来年は95歳になります。わたしとともに何度も日本を訪れた,愛する伴侶はすでにこの世にいません。妻は今年の4月にこの世を去り,彼女がいなくなったことを大変寂しく思っています。

菊地〔良彦〕長老が,3世代にわたって今なお信仰を堅く保っている,何組かの家族の写真を送ってくれました。年老いた祖父母が幼い孫たちとともに集う姿を写した,それらの写真のなんと麗しいことでしょう。

わたしは再び日本を訪れて,皆さんに会いたいと望んでいますが,実現できるかどうか分かりません。そこでわたしは今日,心からの愛を込めて皆さんにお話しします。……」

また,ヒンクレー大管長はこう語った。「日本の聖徒の皆さんには,東京と福岡に美しい神殿があります。しかし,それでも,いずれかの神殿に参入するために長距離にわたる移動をしなければならない会員が多くいます。わたしはこの世代の教会員が,東京か福岡の神殿に時々足を運ぶよう望んでいます。これらの神聖な神殿では,ほかのいかなる場所でも受けることのできない祝福が授けられます。その祝福は,それを受けるにふさわしい人にしか与えられません。

日本の聖徒たちが1965年に,はるばる主の宮までの長い旅を決意したときのことを鮮明に思い出します。当時日本から最も近い神殿はハワイのホノルルにありました。日本の聖徒は,文字どおり食べ物を口にしないで旅費を捻出したのです。また真珠を売り,そのほか必要な資金を調達するために力を尽くしました。一行がハワイに到着したとき,わたしは現地で彼らを出迎えました。日本の聖徒たちは期待に胸を膨らませてやって来ました。そしてハワイを去るときには,そこで受けたすばらしい祝福に対する感謝の思いに満たされて帰国の途に就いたのです(“ The Blossoming of the Church in Japan”,Ensign,1992年10月号,32-38参照)。

神殿はほんとうに特別な場所です。そこは俗世からの避け所なのです。」

パッカー長老は会衆に日本語であいさつを述べた後,次のように語った。「わたしは心の眼で,北海道北部の旭川から沖縄の端にある那覇までに至る,皆さんすべての姿を見ることができます。皆さんはそれぞれの礼拝堂に集まってこの大会に臨んでいますが,わたしもその一員として参加していることを心からへりくだり感謝します。」

その後パッカー長老は,およそ60年前に進駐軍将校として日本に駐留したころのこと,また佐藤龍猪兄弟との出会いについて述べた。佐藤兄弟は戦後最初の改宗者であり,後に翻訳者として戦後の教会の発展に大きく貢献した。2004年8月に来日した際,大阪特別大会で関西地区の聖徒たちに同じ経験を話したパッカー長老は(『リアホナ』2004年10月号チャーチ・ニュース19-20参照),日本中の聖徒たちにその特別な思いを伝えるかのように繰り返し語った。

1948年1月17日付けの手紙から,パッカー長老は佐藤龍猪兄弟の言葉を次のように引用する。「わたしの手元には『教義と聖約』があり,今それを読んでいます。この書物の中に書かれている特有の教義のうちに,東洋思想の影響を受けて形成されてきたわたしの個人的な信仰と合致する点が多くあることに驚かされます。この最も重要かつ本質的な事実のゆえに,東洋の国々において末日聖徒イエス・キリスト教会が確立されるに違いないと確信するものです。」

パッカー長老はこう言明する。「これはすべての国に当てはまることです。福音を研究し,教義を読んでそれに精通するようになると,それらが古の時代から知られており,また世界の至る所で知られている教義であるというささやきを聞くのです。」

またパッカー長老は,日本の教会員たちが良い宣教師となるように,また若い男性を伝道の業に備えさせるように励ました。「イエス・キリストの福音を聞くのを待ち望んでいる人々がいます。皆さんが教会に加わり,証を得たように,彼らも自分の生活に主イエス・キリストの証を必要としているのです。」

パッカー姉妹は,ある日本人の少女との交友をはじめとして,日本の人々と交わった経験について話した。その少女の家族は,ユタ州北部でパッカー姉妹の自宅の隣に住んでいた。

後にパッカー姉妹とパッカー長老は,佐藤家族と親交を深め,彼らが戦争の被害から立ち直るために手助けをした。「7人の息子の一人が日本の伝道部に召されたとき,わたしたちはとても喜びました。」パッカー姉妹は,息子が日本語を学ぶのに苦労をしているとき,家族が一致して助けを祈り求めたことについて触れ,そう語った。

またパッカー姉妹はこう語った。「その子は非常に物静かな子でしたので,積極的に話すことを学ばねばなりませんでした。主が息子の心に働きかけてくださったおかげで,その口は開かれました。息子は日本語を習得することにより,日本の人たちがわたしたちと同じ祝福を受けられるように,自分の持っている価値ある福音を伝えることができたのです。そして今や,日本の人々は神殿の祝福にあずかっています。」

またパッカー姉妹は,初等協会の会長をしていたときに初等協会にいた一人の青年について話した。彼は宣教師として日本に召され,後に妻と家族とともに日本で4年間過ごした。

パッカー姉妹はこう語る。「日本人と知り合った当初から,皆さんの国や文化,人々について学びました。わたしは皆さんを愛するようになりました。初等協会の幾つかのクラスから,これまでに多くの生徒が偉大な日本の国に召されて,なんと感謝していることでしょうか。」

1990年代の中ごろにアジア北地域会長として奉仕したソレンセン長老は,子供のうち3人が日本で宣教師として働いた。ソレンセン長老は次のように語った。「日本の教会員の生活や望み,夢が,何年もの間,わたしたちの家庭の中で語られ,祈りの中で採り上げられてきました。わたしたちは皆さんを愛しています。また皆さんが,主であり救い主であられるイエス・キリストとその教会のために献身的に働いてくださることに感謝しています。」

また教会員の生活における神殿の祝福について以下のように話す。ソレンセン長老はかつて日本東京神殿で,一人の日本人宣教師に目が留まった。準備の日に神殿に参入していたその宣教師は,バプテスマ室で儀式を終えたばかりで,涙を流していた。

「様子を見計らって,『長老,大丈夫ですか』と声をかけました。すると彼はこのように答えました。『はい大丈夫です,ソレンセン兄弟。悲しくて泣いているのではありません。うれしくて泣いているのです。数年前に亡くなった祖父のためにバプテスマを受けたばかりなものですから。祖父のために神聖な儀式を終えた今,わたしはもう家族の中でたった一人の教会員ではないことが分かるのです。』」ソレンセン長老はこう続けた。「日本の各地で,わたしが語ったこの若い長老が示したような偉大な信仰と献身が多く見られます。」

ソレンセン姉妹も会員たちに日本語であいさつし,次のように語った。「美しい東京神殿に参入した後で,有栖川公園を散歩したことを懐かしく思います。わたしの記憶では,ソレンセン長老とわたしは,それぞれ東京で4回誕生日を祝いました。」

そして話題を変えて,教会で夫婦宣教師が必要とされていることについて話した。ソレンセン姉妹はこう語った。「夫婦宣教師は教会の英雄です。」またふさわしい時期に夫婦で伝道に出るために,可能な人々は今から奉仕する計画を立てるよう励ました。ソレンセン姉妹は,イリノイ州ノーブー神殿の神殿長室の壁に掛けられている言葉を引用した。そこには次のように記されている。「夫婦宣教師として働くことは,家の中でただ黙って晩年を迎えるよりはるかに良い。」◆(『チャーチニューズ』2004年11月13日付掲載記事に基づいて構成)