リアホナ2005年9月号1956年に播かれた一粒の種から──安里家族の幸福な今日

1956年に播かれた一粒の種から──安里家族の幸福な今日

1956 年の夏,改宗する前の28才の安里治子姉妹は病弱な体の治療のため病院へ通っていた。当時5人の子供の母親でもあった安里姉妹にとって,病名もはっきりせず,通院を続ける生活は苦しいものだった。

「何かやってみたいことはないんですか。」──ある日医師から尋ねられた。

「何か宗教をやってみたらどうですか」とも言われた。

幼い子供を残しては死ねないと思っていた安里姉妹は,「神様ってどんな方なのだろう。病気も治してくださるのだろうか」と考え始めていた。また「神様のことが知りたい。だれか教えてくれる人はいないだろうか」という欲求は強まっていった。

そんなとき,北中城島袋(地名)から二人の宣教師が訪ねて来た。「神様のことを教える」という二人の言葉に喜んだ安里姉妹は,翌週から勉強会を始めることになった。二人は聖公会の宣教師と自己紹介していた。

そして2日後,同じように神様のことを教える二人の宣教師が訪ねて来た。一人はハワイ出身の島袋長老,もう一人は,アイダホ出身のアンダーソン長老だった。島袋長老はサトウキビ畑で働くために沖縄からハワイヘ移住した両親を持つ日系2 世である。「どんな神様を信じてよいのか分からない」と話す安里姉妹に,「ほんとうの神様について教えます」と島袋長老は話した。さらに,翌週から始めようとしていた勉強会については「断ってください」とはっきりと伝えてきた。安里姉妹の長女である嘉味田絹江姉妹は,「それはとても勇気のいる言葉だったと思います。穏やかな島袋長老からはそのように断言する姿は想像できませんが,ほんとうの神様を教えたいという強い気持ちから,はっきりと伝えてくれたのだと思います。その勇気ある言葉にとても感謝しています」と語る。二人の宣教師とのレッスンが始まり,翌年,1957年の1 月26日(日)に安里姉妹と当時8 歳だった絹江姉妹は海でバプテスマを受けた。

宣教師当時の島袋長老は「穏やかで,謙遜で,神様のことにとても熱心な人でした。神様の教えを伝えるときには,体の中に染み込むようなお話をされる方でした。『ほんとうの神様』について教えてくださったことはどれだけ感謝しても感謝し切れないほどです」と安里姉妹は回想する。

絹江姉妹は沖縄の初期の教会の様子を次のように話す。「終戦後十余年,庶民暮らしは貧しく毎日の生活はけっこう大変な時代でした。そのような中での改宗は困難なこともあったと思われますが,わたしは幼かったがゆえに苦労を感じずにいられました。普天間支部の日曜日の集会は,野嵩中学校(現普天間小学校)の教室や農協ホール,民家等を借りて行われていました。公立の中学校を教会の集会場として貸してもらえていたなんて今思えば不思議なことです。子供だったわたしは覚えていませんが,集会中に外から『アメリカ人は帰れ!』の声とともに石が投げ入れられたこともあったそうです。ポール・C・アンドラス伝道部長さんはじめ,専任宣教師,米軍人として沖縄に駐留していた教会員の助けで,普天間の教会堂の建築用地探しが伝道開始とともにすぐに始まったそうです。普天間の土地取得にまつわる奇跡的な話(次ページコラム欄参照)を島袋長老から聞けたのは大きな祝福でした。神様の計画は永遠の見地から立てられ,人に祝福を与えようと前もって準備されていることがよくわかります。」

絹江姉妹は,扶助協会で熱心に奉仕していた母と,「教会堂建築」で一致していた当時の姉妹たちについて次のように話す。「扶助協会の活動は,ほとんどが建築資金を得ることに向けられていたように思います。バザーの日が近づくと『仕事会』が頻繁になり,ちゃんちゃんこ・はっぴ・刺繍製品・ぬいぐるみ・毛糸の動物・ビニール製のかご・造花・エプロン等がどんどん出来上がっていきました。幼いころ,夜中にいつ目覚めても,バザーで喜ばれる商品開発と制作に一心不乱だった母の姿が目に浮かぶことがあります。」

9歳の絹江姉妹をはじめ5人の子供たちを育てながら奉仕していた安里姉妹は,「昔,どこからあんな力が出せたの」と尋ねられると,「神様には,言葉では表せない恩と感謝があるから」と話す。病弱で命を失うかもしれないと悩む日々が続いた安里姉妹は,真実の福音に出会ってから不思議と体力を回復し,健康を祝福されて現在に至っている。「恩を知ることと感謝の心は人を動かす力がある」と子供たちは教えられた。

また建築資金作りのための「食事会」も度々計画されていた。「中村ノブ姉妹の家でのすき焼きパーティーや米軍人の教会員の好意による『ルアウパーティー』(ハワイ料理で,バナナの葉で包んだ豚を,焼いた石とともに地中に埋める包み焼き)も経験しました。バザーや食事会のお客様は,ほとんどが米軍人の教会員とその家族だったと思います。当時,ほんとうに貧しかった沖縄の教会と教会員は,米軍人として沖縄に配属されてきた教会員から物心両面にわたる多大な援助を受けて教会の基礎を築いていったと思います。沖縄にはたくさんの駐留軍人がいましたので,日本人教会員の数が少ないにもかかわらず,教会の中央幹部が沖縄を訪れることが多くありました。それはわたしたちにとって大きな祝福でした。」

安里姉妹を改宗へ導いた島袋長老はその経験を次のように話している。「沖縄で伝道中の経験の中で忘れられないのが,安里治子姉妹家族のバプテスマです。バプテスマを受ける年齢に達していた絹江姉妹とともにまず二人が改宗しました。彼女の家族の中から約30人が改宗しています。そのことを思うと,伝道の実りを主に感謝せずにはいられません。わたしが東京神殿長だったときに一人の若い帰還宣教師が神殿に来ました。それが現在宜野湾ステーク会長をしている安里吉隆長老でした。わたしが沖縄伝道中にはまだ生まれていなかった,安里治子姉妹の息子さんでした。」

安里姉妹は,「ほんとうの神様」を知った50年前のあのころ,多くの人から中傷されることもあったという。沖縄の神様や先祖を大切にしないでアメリカの神様を大切にしている,という言葉を浴びせられながらも,忠実に耐えながら子供たちを育ててきた。自身の信仰生活を振り返り,沖縄の伝道の歴史を振り返る安里姉妹が一言語った言葉は「最後まで頑張れば,周囲の人も必ず認めてくれます」というものだった。◆