リアホナ2005年9月号沖縄最初の宣教師 サム・K・島袋長老の語るあのころの沖縄

沖縄最初の宣教師 サム・K・島袋長老の語るあのころの沖縄

1956年4月に同僚のC・リロイ・アンダーソン長老とわたしは沖縄への最初の宣教師として東京竹芝桟橋たけしばさんばしから白山丸に乗船し,沖縄に向けて出発しました。途中大阪に停泊し,4 月17日,那覇の泊港到着までに6日間かかりました。

わたしたちが最初に伝道した地は普天間で,人口は5,000人から6,000人ほどの小さな村だったように記憶しています。

なぜ人口が多い那覇ではないのかと思ったこともありましたが,後にこれが主の御心だったのだと確信することになりました。わたしたちが伝道を開始する以前にアメリカ人軍人の会員からバプテスマを受けていた中村ノブ姉妹の家にしばらく住むことになり,普天間の小学校を借りて日曜日の集会所としました。これが日本人のための普天間支部の始まりでした。最初は4,5 人くらいの人々が集まりましたが,会員は中村ノブ,中村アヤコ,玉名覇邦子姉妹の3人だけでした。

午前に日曜学校を行い,聖餐会は午後に行っていました。伝道活動は自転車とバスそして徒歩によって行っていました。夏は酷暑と湿気のため,伝道から帰ると畳に大の字になってしばらくは休まなければなりませんでした。台風も多く経験しました。

一軒一軒訪問しながら伝道を行いましたが,年配の方々が話す沖縄の言葉は難しく,ほとんど理解することができませんでした。しかし,沖縄の人々は非常に温和で,宣教師の話にはよく耳を傾けてくれました。同僚のアンダーソン長老の日本語はまだ充分ではなかったので,ほとんどはわたしが話をしていました。また,扶助協会が正式に組織されて中村ノブ姉妹が会長に召される前には,神権者であるわたしが仮の扶助協会会長のような役目も果たしていました。

小学校で週日に集会を行っていましたので100人ほどの子供たちが集まるようになり,初等協会も組織され,クラスは子供たちであふれていました。

中村姉妹の家には2か月あまり住みましたが,その後,宣教師の住む家を建てることになりました。それは軍人が使用するようなコンセットと呼ばれる「かまぼこ型ハウス」でした。手先が器用なアンダーソン長老が責任者となり,多くの軍人たちの助けで立派なハウスが出来上がりました。飲料水は特別に軍の許可を得て,基地から水道管を引くことができました。当時の軍人の教会員たちの協力と奉仕は,今でも思い出すと感謝の念で満たされます。建設中に軍人家族の姉妹たちがおいしい昼食や食料を届けて献身的な奉仕をしてくれたことは今でも懐かしく思い出されます。1984年に仙台伝道部長の責任を終えて27年ぶり

に沖縄を訪問し,立派に建設された普天間の教会堂を見たときにはとても感激しました。

1956 年9 月にアンダーソン長老が帰国してウィリアム・シモンズ長老が新しい同僚となりました。姉妹宣教師として,赤嶺テルコ姉妹,比嘉リリアン姉妹も沖縄に赴任して来ました。わたしとシモンズ長老は普天間で伝道し,新たに赴任した二人の長老と姉妹宣教師の4人は,那覇で伝道しました。那覇の人口は多いので,教会堂は普天間より早く建設されました。

シモンズ長老とわたしが伝道中に一つの事件が起こりました。ある日,「かまぼこ型ハウス」からわたしたちの背広やズボンがなくなってしまったのです。宣教師として着るものがなくなったわたしたちは困ってしまい,警察に通報しました。数日後,一人の男性が逮捕されたとの連絡を受け,わたしたちは警察へ行くこととなりました。その男性は「わたしは盗んではいない」と言い張っていましたが,よく見るとわたしのズボンをはいていました。男性は大変恐縮して謝り始めました。そして今後は決して悪いことはしないと何回も言い始めました。わたしにはその男性が悪い人のようには見えませんでした。戦後11年の日本で,経済復興のために国民が必死になっているころの出来事でした。また,普天間の土地購入のころで,「ヤンキーゴーホーム」の嵐が吹き荒れている時代でもありました。

わたしの祝福文の中に,自分の祖国に伝道に行くと書かれていますが,当時は伝道資金もなく,現実的にそれを実感していませんでした。祖国といっても日本というくらいの考えでしたが,日本で伝道中に沖縄での伝道が開始されたことはまさしく主の御心であったのだと感じています。わたしは沖縄での最初の宣教師として召されたことを誇りに思っています。北部極東伝道部のポール・C・アンドラス伝道部長夫妻の指導の下に働くことができたことを感謝します。これからもわたしのほんとうの祖国沖縄に主の限りない恵みがありますように祈っています。◆