リアホナ2005年10月号わたしの原点-宣教師のころ2 福音未踏の地に“遣わされた”家族

わたしの原点-宣教師のころ2 福音未踏の地に“遣わされた”家族

大連日本人学校の教員として中国に赴任── 盛岡地方部一関支部 山崎弘貴兄弟

もし今,海外日本人学校教員採用試験を受けたいという後進の教会員がいたら?と問いかけると,山崎弘貴兄弟は「やめろ,と言います。」あれれ?と思うこちらにこう続ける。「人にやめろと言われてあきらめるようだったら本気じゃない。そんなこと言っても受けるでしょう? 人間のやりたいことって,人にダメですよと言われて引き下がるようだったらもともと大したことないんです。」この言葉に山崎兄弟の半生の真骨頂がある。引き下がらない人生,それを重ねて今日まで来た。

山崎兄弟は,文部科学省から直接派遣される海外日本人学校の教員として,2000年春から2003年春まで足かけ3年,中国の大連に赴任した。海外日本人学校は,現在は受験資格が経験5年以上,そのうえ試験を突破しなければ採用されない狭き門である。その夢が山崎兄弟の中に芽生えたのは1988年,大学を出たばかりで,岩手県遠野市の中学校の臨時教員として働いていたときだった。

けれど当時は,夢の前に果たすべき大きな責任があった。宣教師になることである。1年間の臨時教員を終えたら翌年春から伝道に出る心づもりであった。そのため,補欠合格から正式採用通知が来た千葉県の教職を辞退,岩手県でも合格し翌年春から正式採用が決まった教職も辞退する。「1度辞退したら岩手はおろかどこの県でも絶対教師にはなれないぞ。」「一生後悔するぞ。」心配してくれる周囲の声には誠実に謝りつつも,引き下がらなかった。「教師は教師でもこれからは宣教師になります。」2年後に帰還したら「必ず,もう一度教師になる」と約束し,泣いて見送ってくれた生徒たちに別れを告げて遠野駅を後にした。

帰還後,再び岩手県の教員採用試験に挑戦する。「政治的中立,宗教的中立を謳う日本の公教育において,帰還宣教師が教員になるのは簡単ではありません。」しかも2度の採用辞退の経歴まである。けれど山崎兄弟の場合,ここでも引き下がらない。面接では,伝道に出た理由を述べ,クリスチャンでもきちんと教師はできる,と正面から率直に話した。「自分でできる限りのことをしたのだから,たとえ不合格でも必ず主が備えてくださった道がある。」山崎兄弟はもう思い悩むことはなかった。──「一般的に,宣教師という履歴は就職活動において決してプラスとは取られず,時にはマイナスと見られる場合もあります。しかし,伝道経験から学んだことを仕事にしっかり生かすことができれば,企業にとってもむしろプラスの面が大きいと思います。」

1991年10月,周囲の心配とは裏腹に岩手県の教員採用試験合格通知が届く。新しい夢にまた一歩近づいた。まだ結婚前であった山崎由理恵姉妹は,その夢を聞かされた当時の気持ちをこう話す。「正直,嫌でした。保守的なわたしは,福音に従い,ただ平和な生活ができればいいと思っていました。言葉も文化も違う,どこの国に配属になるかも分からない。その国の治安や,子供が生まれたときの医療面の心配もありました。でも,兄弟の夢はかなえてあげたい,とも思っていました。」

山崎兄弟は,受験資格を得た1995年(当時は経験3年以上)から,夢への挑戦をあきらめなかった。3度目の挑戦をした1998年末ごろ,山崎兄弟は校長室に呼ばれる。「実は,文部省(当時)にわたしの知り合いがいるから聞いてみたのだが,宗教活動をやった人間はまず日本人学校の教員に選ばれないよ。」

「この言葉を聞いて動揺しなかったといえば嘘になりますが,宣教師になったことを誇ることはあっても,悔いる気持ちはありません。だから,『とにかく合格するまで受験いたします。また来年も受けますのでよろしくお願いいたします』と言って校長室を後にしたのです。」──校長先生から自宅に電話があったのは,それから間もない1999年1月であった。「合格したよ。平成12年4月に派遣される。場所はまだ決まっていない。」山崎ご夫妻はともに喜び,それから1年間,治安が良く,教会があって,神殿に近い場所に派遣されるよう心から祈り続けた。

しかし1999年11月下旬。再び校長室に呼ばれた山崎兄弟は,動揺した。「おめでとう。任地は中国の大連だよ。」──「目の前が真っ暗になりました。中国には,神殿はおろか教会もない。神殿推薦状はどうするのか,子供のバプテスマはどうするのか。」あれほど祈り続けたにもかかわらず,なぜ派遣先が中国なのか。

大連にて

2000年4月,山崎ご家族は大連の地に降り立った。大連は渤海に面する港町であり,日露戦争の勝利から太平洋戦争に敗れるまで,旧満州の玄関口にあって日本の支配下に置かれていた。日本との歴史的なかかわりからか,市民は総じて親日的であり,2003年4月まで3年間にわたる山崎ご家族の滞在中は,昨今報道されているような反日感情も見られなかったという。「一人っ子政策が徹底されている中国ですから,自分の息子たち3人を連れていると,『どの子供が,あなたの子供だ?』などと聞かれることがあります。そこで,『3人ともです』と答えると,『おお,それはいいことだ』と言いながら,子どもたちをとてもかわいがってくれたので,大連市の人々にはとても良い印象を持てました。」

大連市での生活が始まってから,山崎家族は毎週自宅で家族だけの聖餐会を続ける。その状況は,長男の基信兄弟が8歳の誕生日を迎えバプテスマを受けようというときになって深刻な問題となった。山崎兄弟以外の神権者が周りにだれもいないのである。情報収集に八方手を尽くした結果,飛行機で1時間余りの距離にある北京でアメリカ人教会員たちが200人規模の聖餐会を行っていると分かった。英語は得意ではないけれどそんなことを言っている場合ではない。とにかく連絡を取り,バプテスマの当日に北京のホテルで待ち合わせた。

在北京のアメリカ人教会員にとても優しく迎えられ,バプテスマ会の場所として用意された会員の広大な邸宅に着くと,プライマリーの子供たち20人ほどの歌や,家族みんなの食事など,すべてが用意されてあった。山崎ご家族は,そこに集まってくれた会員たちの愛を強く感じたという。さらにもう一つ,在中国の教会員を管理する地域七十人の長老から面接を受け,神殿推薦状の更新も無事できたのは望外の喜びであった。3年の派遣期間中には1度しか帰国が許されないため,最寄りのソウル神殿や,少々遠くとも香港神殿に,何とか参入できるよう願っていたのである。

また,山崎家族を喜ばせるもう一つの情報があった。それは大連にも教会員がいるということである。彼らはドイツ,マレーシア,香港,日本などで改宗してから中国に帰国した人々である。北京の教会員の配慮によって,大連に住む教会員たちに山崎ご家族の連絡先を伝えてもらえることになった。

こうした経験を通じて山崎兄弟は振り返る。「少々困難はあるけれど,何とかなる。行動を起こすたびに証を得られました。」「これはきっとこうなるだろうと,純粋な信仰を行っていけば,(結果的に)そのとおりになっていきましたね。」それは,伝道に出よう,また日本人学校の教員になろうと決意したころから,「引き下がらない」山崎兄弟の胸に去来する思いであり,信念であった。気がつくと,当初に思い描いた形ではなかったものの,治安のよい土地に住み,教会員との交わりも神殿参入もバプテスマも,すべての願いがかなえられていたのである。

純粋な信仰

北京から大連に帰ってまもなく,自宅に流暢な日本語で電話があった。「山崎兄弟ですか?」──それは日本への留学中に改宗した中国人の姉妹からの電話であった。「外国人との宗教的な儀式は禁じられているから,ともに聖餐会はできないけれど,一緒に集まりましょう」ということだった。月一回ほどの土曜日の,子供を含めて全員で15人ほどの集まり。山崎ご家族は,言葉の壁はあったものの,日本語に堪能な姉妹の通訳を介して福音を分かち合う喜びを感じられるようになる。由理恵姉妹はこうも言う。「言葉は通じなくても御霊は通じます。大連の教会員にしても香港の地域七十人の奥様にしても,握手したりハグ(抱擁)したりするだけでお互いに通じます。言葉はできないけれど,すごい温かいものを感じて。」──福音は,まさしく世界共通語である。そして時間がたち,山崎家族の中国語が上達するにつれ,福音についての話し合いも深まってきた。

あるとき,「日本で什分の一は,どうやって納めるのですか?」と尋ねられた。そこで,山崎兄弟は,日本で使っていた

什分の一献金票(郵便振替用紙)を見せた。「それを下さい」と言うので,1枚ずつ渡したら,早速,彼らはその用紙に記入を始めた。あわてて「いや,それは,中国では使えないんですよ」と言っても,彼らはやめない。日本語の分かる姉妹に再度,事情を説明すると,彼女はこう言った。「いや,そういうことじゃないのです。彼らは,什分の一を納める日のために,練習をしているんですよ。」山崎ご夫妻は,彼らの純粋な信仰に心を打たれたという。「(彼らの信仰は)なまぬるくなかった。いつも熱い感じで」と由理恵姉妹は形容する。

中国では,信教の自由が日本のようには認められていない。中国の公安当局が厳しく監視していると言われるが,中国の行政は現場担当官の裁量によるところが大きく実態はよく分からない。しかし外国人の山崎家でさえ,家族で聖餐会をするときは外部に漏れないよう気を遣っていたという。ましてや中国人会員がこの国で信仰を保ち続けるのは容易なことではない。そんな環境にありながらも,什分の一を納める,というさらなる犠牲も覚悟している大連の教会員たち。

逆風の街で

「大連の方々はものすごく必死だったわけですよ。信仰の自由がないから,とにかく知りたい,学びたい──。神権の祝福ひとつにしても,どのようにするんだ? とか。子供にピアノを習わせて,将来,支部が設立されたときに伴奏者にする,とか。祈って,ここ(大連)に教会ができると感じたから大連に移住して来たという姉妹もいました。」乾いた砂が水を吸うように彼らは福音の知識を求めた。山崎兄弟は,インスティテュートのテキストにあるような,教義についての事細かな質問に一所懸命答えることとなった。

中国では,一般市民に対してさまざまな情報が制限されている。「あるとき,『動物園から逃げた虎を捕まえました』とニュースでやっていました。捕まえた,という手柄話なんですね。でも,『虎が逃げました』というニュースはやらないんです。」──そうした事情のためか人々は情報に敏感である。街を歩いていると何かと,多くの人だかりができているのを見かける。中国に宣教師が派遣されたなら,おそらく最初は街角に人が集まり,真理に耳を傾けることであろう。そういう時代が訪れる前の中国に直にふれる機会があったことを山崎ご夫妻は感謝している。

こんなこともあった。香港神殿に参入したとき香港のブックセンターにて,将来大連に新しい教会員が生まれたとき役立つようにと,中国語のモルモン書や教会書籍を山のように抱えてレジに持って行った。それを受け取って喜ぶ大連の兄弟姉妹の顔が目に浮かぶ。ところがレジ係の姉妹は心配顔でこうささやいた。「……大丈夫ですか?(公安当局に)見つかったら大変なことになりますよ。」

特別行政区としての香港は,イギリスからの返還後も中国本土とは別の国,と言っても過言ではない。本土では現在のところ伝道活動は許されていない。在北京の外国人教会員たちも,同じ場所で定期的に礼拝行事を行うと,中国人への勧誘を疑われて公安当局にマークされる恐れがあるので,転々と集会場所を変えているという。──たくさんの聖典や教会書籍を中国本土に持ち込んだことが発覚すると,それこそ伝道目的と誤解されかねない。もし捕まりでもして大連日本人学校の教員と分かったら,大連の日本総領事館や日本人コミュニティーにも多大な迷惑がかかることになる。「泣く泣くあきらめました。」

大連に住むある教会員は,奥さんのバプテスマを施すために旅費を貯め,香港までやって来た。この国の経済事情では並大抵の負担ではない。それはかつて日本人教会員がハワイ神殿に参入したころのことを思わせる。

2003年春に大連を去るとき,中国の教会員が送別会を開いてくれた。その場で,「山崎家族はわたしたちの模範でした」と言われたとき,山崎兄弟は照れくさく感じながらも,大連に来た目的や意味がほんとうに分かったような気がしたという。中国で信仰生活を続けていくにはかなりの犠牲が伴う。一方,自ら求めたこととはいえ,山崎ご家族も大連に来てから様々なことが制限され,ある意味での犠牲を払って信仰生活を続けてきた。「わたしたち家族は,神殿推薦状の保持,神殿訪問,子供のバプテスマなど,教会でいつも教えられていたことを普通に行ってきただけです。しかしこの当然と思われていたことも,大連ではどれもこれも大変な犠牲を伴うことでした。だからこそ大連の教会員にとって模範とも映ったのでしょう。彼らを助けるためにわたしたちは中国に来たんだと思うと,涙が出てきました。」

逆風の国にあって信仰を共にした深い共感によるきずなで,山崎ご家族と大連の中国人会員たちは結ばれた。「そして,彼らから逆に見せてもらった『純粋な信仰』という模範から,わたしたち自身の信仰を続ける力をもらった気がします。だから,別れるときには,『北京に神殿ができたら必ず会おう』と固い約束をして大連を離れました。」

──今日も,世界中の国々の様々な事情の下,教会員はそれぞれの犠牲を払って信仰を続けている。◆