リアホナ2004年6月号 親が育つとき,子は育つ ~180度変化した子育てを掘り返って~

親が育つとき,子は育つ  ~180度変化した子育てを掘り返って~

さいたまステーク坂戸ワー ド 木村研一郎・幸枝ご夫妻

子供4人は神様からの授かりもの,と改宗する前からぼくは妙に思っていたんです。自分は酒飲んで、むちゃくちゃなことをしていても,この子たちは世の中の役に立つよう大事に育てないといけないと。でもそれはやっぱりだめなんですね。自分が悔い改めないと子供は育たないわけですよ。」

木村研一郎兄弟は1981年11月2日,妻の幸恵姉妹と4人の子供たちとともにバプテスマの水をくぐった。研一郎兄弟は43歳,いちばん下の子が 8歳になったばかりだった。当時,木村家族が住んでいたのは山形県酒田市。「水も空気も,それからお酒もおいしい土地でしたなあ」と研一郎兄弟は懐かしそうに言う。

木村家に初めて宣教師が訪れたのは1979年秋,幸枝姉妹が酒田支部の英会話に出席していたのがきっかけだった。「ぼくはすごく人見知りが激しいから,初対面の人を家に上げるなんでめったにないんだけれども,宣教師と会ったときになぜか上がりなさいって……。話しているうちに,子供がこういう人たちみたいに育ったらいいねえと直感で思った。それで、軽い気持ちで『毎週遊びにおいで,子供の友達になってちょうだ、い』と招いたんです。でもまさか(ほんとうに)毎週来るとは思わなかった・・・・・・。」

子供たちはすぐ宣教師が大好きになった。毎週水曜日は宣教師の日となり,幸枝姉妹と子供たちは宣教師と家庭の夕べを共にするのが楽しみとなった。ただし,その場に研一郎兄弟がいたことはあまりない。あるじの前で福音の話をするのは御法度,というのが訪問の条件だった。「水曜日,たまに早く帰ってくると家の前に宣教師の自転車がずらっと並んでいるわけね。あぁもう Uターンですよ,また飲みに行って。」

そんな日々が続いたある晩のこと。「小学6年生くらいだった息子とお風呂に入っていて,大きくなったら何になりたい? って聞いた。そうしたら『おおきゅうなったら宣教師になりたい』 っていきなり言ったんで、びっくりしたんです。何で?  って聞いたら,お風呂の中にっかりながらじ ーっとしばらく考えて,   r ……宣教師,優しいもん』って言ったのかなあ。それがすごく心に響いた。 4人きょうだいで、男の子は一人だったから,やっぱり男らしく凍々しくしつけなければいかんと思って,かなり厳しく当たってたのかなあ。

改宗する前のぼくは,特にお酒なんか入っていると,掃除しろ片付けなさいああしろこうしろと,自分でも嫌になるほど口やかましかった。それは自分がそういうふうに育てられてきたからです。そうするものだと思っていたんですねえ。そんなやり方でなおかつ宣教師のような人を育てるにはどうしたらいいか,そこのところが分からないわけですよ。単なる自分の経験から来る,非常に暖味な価値観しかないわけでしょう。」― 研一郎兄弟の心は徐々に開かれつつあった。

ちょうど最初の宣教師が訪れてから2年が過ぎようとするころ,デイオン・ラスマッソン長老とデビッド・ミラー長老が木村家を訪れた。

「ぼくがへべれけに酔っぱらって帰って来た日。庭で犬を相手にうわーっと暴れていたときにラスマッソン長老は部屋の隅っこで,ずーっと涙を流してお祈りをしていたんだ、って。で,お祈りが終わったら名刺の裏にメッセージを書いて,『明日の朝木村兄弟に渡して   』って置いていったんです。」      研一郎兄弟はその名刺をビニールパウチして大切に保存し,今でも財布に入れて常に持ち歩いている。そこには「神様はあなたを愛しておられ,わたしもあなたを愛しています,あなたは神様の子供であり,この世で責任を負っています……」と英語で切々と書かれ,末尾に日本語で「わかって下さいませ。」と記されていた。

ほどなくラスマッソン長老は大胆にも,知恵の言葉についてのチャレンジを研一郎兄弟へ投げかけてくる。「1週間だけ酒とたばことコーヒーとお茶をやめませんか,って。び、っくりしてね え,その真剣な目つきに圧倒されて,分 かった,じゃあんたは何やめるの? と聞 くと好きなチョコレートとクッキーをやめるって言う。

一一1日目,2日目と禁断症状が出て。 ものすごい頭痛と耳鳴りがして手が震 え,字がまともに書けない。まっすぐ歩 けないくらい平衡感覚がなく,自分の体 がいかにアルコールとたばことお茶でお かしくなっているか身にしみてわかった んです。

そして3日目の朝,……朝ご飯がもう滅法おいしかった。それは今でも覚えています。ほーっ,酒とたばことコーヒーやめるとこんなにいいのか,と思ってね。  3日目くらいからすごく体調が良くなって,1週間目の晩に仕事から帰ってきたら『よ く頑張ったわね』って姉妹が冷蔵庫にビ ールを冷やしておいてくれて(笑)。」その とき「絶対飲むと思ってた」という幸枝姉 妹に「いらん」と答え,以来きっぱりと断 酒した。「あのとき宣教師に電話をかけ て, 1週間頑張ったよ,もうお酒やめたか らね,って言ったら宣教師が電話の中で わんわん泣いてね。……それから 2週間 後に改宗しました。そうしたら子供たち,特に一番上の由佳がたいそう喜んで。ぼくがお酒飲んで暴れ回っていたのを思春期の彼女は見ていましたからね。」

「子供たちは教会員じゃないお父さんと教会員のお父さんと(両方)見ているから」と幸枝姉妹は笑う。「以前は(夫婦で)よくけんかもするし家庭的じゃない人だったし。それが改宗してからはもうほんとうにけんかしたことないですねえ。子供たちもそのお父さんの変化を目の当たりにしているから,やっぱり教会から離れなかったんじゃないでしょうか。」「反面教師。」「もうそれで子育てはおしまい……(笑)。」

教会が子供たちを育てた

「(その後の)子育てはもう指導者に言われたことをそのとおりにやった,それだけです」と研一郎兄弟はあっさりと言う。しかし「それだけ」を実践したことにはそれだけの説得力がある。

「ぼくは  43歳で改宗でしんだから教会のあらゆる戒めや教えが,砂漠に水がしみ込むように,インクが吸い取り紙に吸われるように何でも新鮮に入ってきたわけです。父親の神権面接をしなさいと言われたらそのとおり真剣にやったし,キンボール大管長が『勉強よりもセミナリーを優先しなさい』って説教したら,ぼくはもう子供たちがどんなに部活で疲れていようが試験勉強で疲れていようが心を鬼にして早朝たたき起こして,送り出すかあるいは自分が連れて行きました。そうしないといけないものだとぼくはもう思っていたから。家庭の夕べをしなさいと言われたら,月曜日はできなかったので日曜日の晩,教会から帰って家庭の夕べを開きました。」

改宗から 1年後の 1982年 10月31日,木村家族は研一郎兄弟の故郷である京都へ転居した。当時の洛北ワード(現在の下鴨ワード)には下宿している大学生の会員が多かった。彼らを夫妻が食事に招いたり子供たちが呼んだりで,木村家はほとんど大学生のたまり場のようになっていた.「しょっちゅう教会員が出入りしてて。当時,深くは考えていなかったけれど,今思うとそれが子供たちに良い影響を与えたのかな」と幸枝姉妹は振り返る。学生たちは子供たちと親しくなり,次々に伝道へ出ていった。

長女の由佳姉妹は高校に進学するとソフトボール部のキャプテンに選ばれ,日曜日は練習でほとんど教会へ行けなくなった 。    けれども,「練習終わって日曜日帰ってくると,若い女性や若い男性の会長さんたちがよく家に遊びに来てくれていて,会長さんも入れてみんなで家庭の夕べをしました。子供たちが日曜学校でどんなこと学んだか話し合って,皆で証ををして,由佳もよく聞いて。それに熱心な監督が 1年くらい,毎朝由佳をセミナリーに迎えに来てくださった。もうほんとうに感謝してるね,あのときのワードの指導者に。」それは由佳姉妹にとって教会の出前のようなものだった。家に来る会員たちと親しくなっていたので,時たま教会へ行ったときにもあまり疎外感を感じることがなかった。

「たまにクラブが休みで教会に行くと,監督が,もう由佳を大切に抱きかかえるようにして面接してくれてましたなあ。何だか皆が,われわれ改宗者の家族を包み込むように育ててくれたという気がします。あの当時の京都の会員一人一人が,ありがたかったねえ。そのとき受けた恩,次の世代を育でなければという思いが今,ぼくが教会で奉仕する原動力になっています。

…その後,由佳が伝道に行くときに,家庭の夕べでみんなが証してくれたことを聞いてほんとうに自分は救われた,みたいなことを言っていました。」

口うるさく説教しても子供は育たない,とも研一郎兄弟は言う。「ぼくは改宗してから,子供にああしろこうしろというのはほとんど言わなくなりましたねえ。…だからぼくは 4人の子供たちに伝道に行きなさいとは,一切言わなかった。」それでも4人の子供たちは,だれに言われるともなく自分から伝道に行き,全員が神殿で結婚した。

父親の神権面接

京都に移って間もなく,研一郎兄弟は神権会でこんな経験談を聞く。

一一教会員の家庭で育った子供があるとき,高価なおもちゃで遊んでいた。そんなものを買い与えた覚えのない父 親が母親に尋ねると,さっき母親の財布 が開けられていてお金がなくなっていた という。明らかにその子が財布から勝 手にお金を取って買ったに違いない。 父親は,子供を福音の教えの中で育て てきたにもかかわらず息子がそんなことをしたのがショックで,思わず折艦しょうかと思うほどの激しい怒りを感じた。けれどもそのとき,まず姉妹と二人でお祈りをした。すると怒りがさーっと収まる。そこで父親は息子を膝の上にしっかりと抱き上げ,どうしてそのおもちゃを買ったのかと静かに尋ねた。……「お父さんはほんとうに悲しい。神様の教えを知っていながら盗む,それは悪いことなんだよ」と静かに言って聞かせると,息子は父親の膝の上で涙会がらに告白して悔い改めをしたという。

「その話を聞いたとき,……ああ,父親の使命というのは…なんと大事なんだろうと思って」と,研一郎兄弟は涙ぐむ。「これが,天のお父様の子供の育て方なんだな,と感じたわけです。それからです,真剣に父親の神権面接を始めたのは。」

幸枝姉妹の目にはこんなふうに映っていた。 「1か月に一ぺんは必ず神権面接をしたんです。でも子供たち困ったときには,わたしにはあまり話さないんだけど,自分から,『お父さん神権面接してください』って行くんですよ。で,部屋の中に入って,二人で時に泣いて時にうれしそうな顔して出てくるんですよね。いい話し合いだったんだなあ,といつも思いました。うらやましかったですよ,神権面接。わたしもしてもらえばよかった。(笑 )」

中ではどんなことが話されていたのだろうか。 ....「ぼくは父親の神権面接のときほんとうに子供を叱ったことはないし説教したこともない。なるほどなるほどと,ずーっと話を聴いて。そして,『いやこういう生き方もある,こういう生き方もあるよ,でも,あんたは神様の子供だよ,いつも神様が見守ってくださるんだよ』ってことを言っただけなんですよ,簡単に言えばね。

末の娘が学校でものすごく陰険ないじめに遭っていたことがあるんです。そのとき毎回言ったのは,『あなたは神様の娘だ,神様は守ってくださる』ということと,『いじめられる人間よりもいじめる人間の方が不幸なんだよ』ということ。これを分からせるのに心を砕きました。それはつらかったと思う,毎日学校に行っていじめられるんだからね。そのときに二人で祈って,二人でほんとうに泣いた。」

「いつも子供の状態が分かっていたわけだね。それが分かつてるから子供に優しくなれるんですよ。(子供の側も, )お父さんはわたしのこと分かつてくれてる,理解してくれてるっていう,信頼感,自信,何よりも愛されているっていう気持ち,それがあれば,子供はおかしなことにはならんでしょう。」

子供に育てられて

「ぼくは神権面接のときにいつも聖典を横に置いて子供たちの話を聞くんです。やっぱり自分の知恵,たかだか 40数年の人生経験では子供に納得のいく答えなどそうそう出て来ない。そのときに聖典を開いてね,今この子がいちばん必要としている導きを神様どうぞ与えてくださいと真剣に心の中でお祈りしながらページを繰るんです。すると不思議なことに,毎回というわけではありませんけど,そのときその子に必要な聖句が,ぱっと浮かんでくる,というか目にこうページが出てくるんだね。『これが今あんたに必要な神様の答えなんやで  J     と二人でその聖文を読んで,慰め励ましを得たこと,それは何度もありましたなあ。ぼく自身が,ほんとうに神様は生きておられるという証を,子供との神権面接を通して得ることができたんです。そんなふうにして自分は神様によって変えられたんだなあ,と思いますねえ。」

今では 11人の孫に恵まれ,孫と一緒に「神権面接ご、っこ J  ( ?  )をしているという研一郎兄弟。「いやあ,孫持ってみて初めて思った。結局子供ってみーんないい子ですよ。悪い子なんて一人もいない。みんな神様の子供なんだもんねえ。

だからひたすら悩みを聞いてあげて励ましてあげる。お前はいい子なんだよ,神様の子供なんだよ,と思い起こさせる。それがいちばんの鍵だと思います。

…子供を育てたなんて,そんなおこがましいことぼくは言えないなあと思ってる。逆に子供たちを通してぼくが育てられた。子供には感謝してますねえ。子供たちがいなかったら,ぽくなんか糸の切れた風船みたいで,いやあ今ごろここにはいません。(笑)そう思いますねえ,   うん。」