リアホナ 2005年4月号 砕けた窓と打ち砕かれた心

砕けた窓と打ち砕かれた心

七十人 菊地良彦長老

少年のころ,友達と野球をしていたときのことです。わたしの打ったボールが公園のフェンスを越えて,隣の家の大きな窓ガラスを割ってしまいました。わたしたちはそれまでも,ボールがフェンスを越える度に,注意するよう言われていました。でも,気に留めなかったのです。みんな恐くなって,その場から逃げ出しました。

その夜,わたしはひどく後悔して,自分のしたことを母に話しました。当時,父は亡くなっていて,我が家は非常に貧しい生活をしていました。しかし母はその家へ行って謝るように言ったのです。そしてこう言いました。「このお金を持って行きなさい。」

独りで行くのを怖がっていると,母は「一緒に行きましょう」と言いました。母は家の人に謝り,代わりにお金を払ってくれました。それから数か月の間,わたしは毎週わずかなお金を稼いで,最終的に母が代わりに払ってくれた分をすべて返しました。

わたしは母から大切な教訓を学びました。自分がした悪いことについては謝罪し,弁償しなければなりません。しかし当時,わたしには支払う力がありませんでした。そこで母が犠牲を払い,代わりにお金を払ってくれたのです。もし母が助けてくれなかったら,また謝るように強く言ってくれなかったら,罪悪感と羞恥心は,いつまでも消えなかったでしょう。そしてわたしは,その家の人の顔をまともに見ることができなかったと思います。

愛の教え

それから何年か後にキリストの贖罪について学んでから,母がしてくれたことをもう一度考えました。母は,正義と償い,愛と犠牲について教えてくれました。あのころわたしたちはまだ回復された福音について知りませんでした。しかし母がわたしのことを気にかけ,どのような人物へと成長していくか心配していたのは確かです。ですから,母は自分が正しいと判断したことをわたしに注意深く教えてくれました。

死を前にして,息子たちと家族に最後の教えを伝えたとき,父リーハイがどのような気持ちだったか想像してください。リーハイは,自分が約束の地へ連れて来た人々だけでなく,後に続く世代についても心配していました。リーハイは子供たちに律法と正義について教えました。また,贖い,憐れみ,恵みについて教えました。そしてイエス・キリストの神聖な使命と復活,贖罪の真の意味について教えたのです。

リーハイは息子ヤコブに教えました。

「人は善悪をわきまえることを十分に教えられている。」(2ニーファイ2:5)モロナイはこう告げています。「善悪をわきまえることができるように,すべての人にキリストの御霊が与えられている。」(モロナイ7:16)わたしはまだ少年でしたが,窓ガラスを割って逃げたとき,悪いことをしたと思いました。

わたしは人の財産を尊重しなければならないことを知っていました。今では,自分のしたことが間違っていると感じたのは,「キリストの御霊」のおかげであったことがよく分かります。リーハイはこう言いました。「人には律法が与えられている。しかし,この律法によって義とされる者はだれもいない。すなわち,この律法によって人は絶たれるのである。まことに,現世にかかわる律法によって人は絶たれ,また霊にかかわる律法によっても人は良いものから絶たれて,とこしえに惨めな状態になる。」(2ニーファイ2:5)

言い訳はない

「律法によって義とされる者はだれもいない。」(2ニーファイ2:5)この言葉は幾つかのことを教えてくれます。その一つは,「人には律法が与えられている」(2ニーファイ2:5)ので,わたしたちは従うべき標準を知っているということです。パウロはローマ人にこう告げました。「律法のないところには違反なるものはない。」(ローマ4:15)しかし,「律法によっては,罪の自覚が生じる」のです(ローマ3:20)。たとえ隣人の窓ガラスを割るつもりがなかったとしても,自分を正当化する言い訳にはなりませんでした。わたしたちは死すべき状態にあり,不完全であるため,だれもが律法を破ってしまうのです。

リーハイの言葉からは,モーセの律法であれ,福音の律法であれ,律法だけでは人を救う力はないということも学べます。パウロは次のように教えています。「人の義とされるのは律法の行いによるのではな〔い〕。……なぜなら,律法の行いによっては,だれひとり義とされることがないからである。」(ガラテヤ2:16)アビナダイは,「救いは律法だけで与えられるものではない」(モーサヤ13:28)と警告しています。

主が告げておられるように,清くない者は神の前に住むことができません(モーセ6:57参照)。罪はわたしたちを父なる神から引き離してしまうのです。リーハイはこう説明しています。「律法によって人は絶たれるのである。まことに,……人は良いものから絶たれて,とこしえに惨めな状態になる。」(2ニーファイ2:5)

だれもが抱える負債

窓ガラスを割ったとき,わたしには弁償することができませんでした。母は貧しい生活の中から何とか支払うことができました。もし金額がもっと大きかったら,母も借金をしなければ払えなかったことでしょう。しかし,母は支払うことができ,わたしは時間をかけてその分を母に返すことができました。

罪という負債の場合は,そういうわけにはいきません。わたしたちは皆負債を抱え,自分自身の罪の代価を支払うことはできません。まして人の罪の代価を支払うことなどできないのです。ベニヤミン王はこう教えています。「あなたがたは……天の御父にとこしえに恩を受けている。」(モーサヤ2:34)また,「キリストの血は人の罪を贖う」(モーサヤ3:16)とも教えました。わたしたちはまさに「神に恩を受けている」(モーサヤ2:24)のです。

まだエルサレムからの旅の途上で,リーハイは家族に次のように教えました。「すべての人類は,迷い堕落した状態にあり,〔彼ら〕の贖い主に頼らなければいつまでも同じ状態にある。」(1ニーファイ10:6)リーハイは死の直前に,救い主と贖いに関する教えと証を繰り返しました。

「したがって,贖いは聖なるメシヤによって,またメシヤを通じてもたらされる。それは,メシヤが恵みと真理に満ちておられるからである。

見よ,メシヤは律法の目的を達するため,打ち砕かれた心と悔いる霊を持つすべての人のために,罪に対する犠牲として御自身をささげられる。このような人々のためにしか,律法の目的は達せられないのである。」(2ニーファイ2:6-7)

わたしたちが払う犠牲

イエス・キリストは,人類の犠牲として御自身をささげられました。しかし,キリストが罪の代価を支払われたのは,自分自身の犠牲を主にささげる人のためだけです。「あなたは,義をもって主なるあなたの神に犠牲を,すなわち打ち砕かれた心と悔いる霊の犠牲をささげなければならない。」(教義と聖約59:8)

エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1994年)は,打ち砕かれた心と悔いる霊を次のように定義しました。「神の御心に添った悲しみとは……わたしたちの行いが父なる神を傷つけたことを深く認識することです。また,罪とは一切無縁で最も偉大な御方である救い主が,わたしたちの行いのゆえに苦悶されたことを,はっきりと自覚することでもあります。主はわたしたちの罪のゆえに,あらゆる毛穴から血を流されました。この実にはっきりとした精神的,また霊的な苦悶こそが,聖文に記されている『打ち砕かれた心と悔いる霊』なのです。」1

しかし,できることをすべて行っても,すなわち悔い改めて「打ち砕かれた心と悔いる霊」をささげても,リーハイが思い起こさせているように,「聖なるメシヤの功徳と憐れみと恵みによらなければ,だれも神の御前に住める者がいない」のです(2ニーファイ2:8)。ニーファイが後に述べたように,「わたしたち〔は〕最善を尽くした後,神の恵みによって救われ」ます(2ニーファイ25:23)。

リーハイはまた,復活というすばらしい教義について証を述べています。救い主は人類の罪のために命を捨てられた後,「死者の復活をもたらすために御霊の力によって再びそれを得て,最初によみがえる者となられ」ました(2ニーファイ2:8)。

神聖な執り成し

「したがって,メシヤは……すべての人の子らのために執り成しをしてくださる。だから,メシヤを信じる者は救われるのである。」(2ニーファイ2:9)預言者アビナダイは,イエス・キリストの執り成しとは,「人の子らと正義の間に立ち,死の縄目を断ち,人の子らの罪悪と背きを身に負い,彼らを贖い,正義の要求を満た〔す〕」(モーサヤ15:9)ことであると説明しています。

救い主が全人類のためにされたことと比べると,母がわたしのためにしてくれたことは実に小さなことです。しかし,母はその知恵によって,わたしの心に重要な理解の種を植え付けたのです。母はわたしの「罪悪」の代価を支払ったとき,わたしを一緒に連れて行きました。わたしは自分が迷惑をかけた隣人と顔を合わせなければなりませんでした。リーハイはこのように述べています。「すべての人への執り成しがあるので,人は皆,神のみもとに来る。そのため,彼らは神の御前に立ち,神の内にある真理と聖さによって裁かれる。」(2ニーファイ2:10)

隣人の前に立つのを恥ずかしく思ったのであれば,もし自分のしたことを悔い改めず,その償いをせず,キリストのもとへ来て真に贖われていなかったなら,神の前に立って一体どのような気持ちがするでしょうか。

贖い主に心から感謝しています。また律法に感謝しています。リーハイが述べているように,律法には罰が「定められ」ていますが(2ニーファイ2:10参照),幸福も定められているのです。ここでリーハイは有名な言葉を残しています。「すべての事物には反対のものがなければならない。」(2ニーファイ2:11)律法がなければ,罪も,罰もないでしょう。しかし,善も,義も,幸福もないのです。そしてこれらのものがなければ,神は実在せず,創造もありません(2ニーファイ2:11-13参照)。野球をする少年もいなければ,愛にあふれた母親もいません。何も存在しないのです。

ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこう述べています。「結局,すべての歴史を調べ,人の心の最も深いところを探ってみると,全能者の御子……が,屈辱と苦痛の中で御自分の命をささげられたこの恵みの行為以上に,すばらしく,荘厳で,偉大なものはありません。この御方はその行為によって,あらゆる時代の神の息子たちと娘たちの全員,すなわち必ず死ななければならないすべての人が,再びその足で歩き,永遠に生きられるようにされました。御子は,わたしたちがだれも自分で行えないことをわたしたちのために行ってくださったのです。」2

「したがって,これらのことを地に住む者に知らせて,聖なるメシヤの功徳と憐れみと恵みによらなければ,だれも神の御前に住める者がいないことに気づかせるのは,何と大切なことであろうか。」(2ニーファイ2:8)わたしたち一人一人にとって,福音の律法に従い,打ち砕かれた心と悔いる霊を持つことは,何と大切なことでしょうか。わたしは預言者ジョセフ・スミスに与えられた救い主の言葉が真実であることを知っています。「だれもわたしによらずに……父のもとに来てはならない。」(教義と聖約132:12)「わたしたちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みによる義認は,正しく,かつ真実である。……わたしたちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みによる聖めは,神を愛し,勢力と思いと力を尽くして神に仕えるすべての人にとって,正しく,かつ真実である。」(教義と聖約20:30-31)

1.“A Mighty Change of Heart,”Ensign,1989年10月号,4

2.「クリスマスのすばらしい,ほんとうの話」『リアホナ』2000年12月号,4参照

『エンサイン』Ensign(英語の機関誌)2004年4月号掲載記事より構成◆