リアホナ2005年10月号この町に末日聖徒10 空の安全を見守る副支部長たち

この町に末日聖徒10 空の安全を見守る副支部長たち

那覇ステーク宮古支部 佐藤友昭兄弟・浜田政邦兄弟

沖縄本島から南へ約320キロに位置する宮古島。その宮古島から西へ5キロの亜熱帯に属する小さな離島,伊良部島。7つの集落に約7,000人が住んでいる。島の玄関である佐良浜港は宮古諸島随一の漁港として活気にあふれている。標高10メートル前後のなだらかな地形に,広々としたサトウキビ畑が広がる。伊良部島に近接し橋で結ばれた隣の島が下地島で,人口は約90人。そこには航空管制運航情報官(以下,情報官)として働く一人の教会員が住んでいる。佐藤友昭兄弟である。渡り鳥のサシバ(タカの一種)が多く立ち寄ることでも有名な下地島には,国内唯一の大型ジェット機飛行訓練施設,下地空港があり,3,000メートルの滑走路がエメラルドグリーンの海へと続いている。訓練用とはいえ羽田空港と同じ大きさの滑走路である。下地島では渡り鳥が舞い降りるように,何十回と繰り返される大型ジェットのタッチアンドゴー(離陸と着陸)を間近で見ることができることでも有名だ。「ここは年間8万機の発着があります。タッチアンドゴーの訓練を大きな飛行機が行っている光景は圧巻です。大空を大きく旋回してきて,何度も同じところに円を描くように訓練します。」

●佐藤兄弟

今は宮古支部の副支部長である佐藤兄弟が現地へ赴任したのは2001年2月。過去には羽田空港,北九州空港,出雲空港などに勤務した経験を持ち,現在の下地空港には2回目の勤務となる。

佐藤兄弟が初めて教会のことを知ったのは14歳のとき。故郷の北海道の旭川で中学2年生のときに宣教師に会ったのが最初だった。「親に反対されてバプテスマを受けることはできませんでした。20歳になったら簡単に教会へ行けるだろうと思っていました。」

電子工学関係の勉強をしていた佐藤兄弟は,やがて社会人になり,羽田空港へ勤務することとなった。職場では学ばなければならないことが多く,休みの日はひたすら図書館へ通って勉強する日々が続いた。「20歳になったら教会へ行けるだろうと思っていましたが,実際には難しい状況でした」と当時を振り返る。羽田空港勤務時代,社員寮から休みの日に通い続けた図書館は,公園を挟んで東京神殿が見える場所にある。図書館の勉強の傍ら東京神殿を見て思うのは,「どうして自分はこんな人生を送っているのだろう」ということだった。

2001年2月に下地島へ転勤した。翌年の夏。世界を巻き込むような陰惨な事件や様々な状況を目にするにつれ佐藤兄弟の気持ちにも大きな変化が起き始めていた。「とにかく教会へ行きたくなりました。今自分に必要なことは悔い改めだと思ったんです。悔い改めるためには教会へ行くことだと感じました。」佐藤兄弟は,「自らの力で教会を見つけてみよう」と決心した。

休みの日を利用し,船で10分ほどの宮古島へ渡って佐藤兄弟の教会探しが始まる。教会がありそうな場所をだれに尋ねることもなく,一軒一軒探し始めた。「宮古島中を探し回りました。必ず見つけるという思いだけを持ち続けていました。」そして3か月後,佐藤兄弟はやっと宮古支部を見つけ,ほどなくしてバプテスマを受けた。

佐藤兄弟は情報官の仕事を「情報コーディネーター」に近いと話す。「管制官はマイクを持って仕事をしますが,情報官は電話の受話器を持って仕事をします。空港内のすべての関係セクション,海上保安庁,防衛庁など,様々なところと連絡を取り合って調整するのがおもな仕事です。飛行機は時速300キロで離着陸する乗り物なので仕事中は緊張します。大きいですが,とても繊細な乗り物ですので,扱う方としてはとても慎重になります。」

仕事内容は神経を研ぎ澄まさなければならないことが多いが,島ののどかな環境はストレスを癒してくれる。「宮古の古い集会所のときには,船に車を載せて通っていました。今は教会が宮古島の港の近くへ引っ越しましたので港から歩いて教会へ集っています。伊良部島への戻りの船の最終便は夜6時ですから,それ以降の教会の活動へは出席できません。その時間を過ぎるときはホテルに泊まらなくてはなりません。それでも,この島は気に入っています。」「わたしが住む島は,夜は街灯もつかない静かな島です。ハブはいませんので,夜空を見上げながら散歩をすることもできます。昼には美しい海があり,夜には美しい星空があります。静かに読書をする時間にも恵まれています。この島には『聖なる森』がたくさんあるんです。」

佐藤兄弟の言う「聖なる森」は,いつでも自分の中に持つことができるという。「この島で信仰について語り合える人はいません。いつのまにか,孤独には慣れてしまいました。考えてみれば,いつも独りで悩んで独りで答えを導いていました。かつて求道者として北海道にいたころは自分の信仰観も確立しておらず,周囲の方々に心配や迷惑もかけたと反省しています。しかし,今は信仰面でも高い理想を目指して生活しています。」

情報官として空の安全のために様々な情報をコーディネートする佐藤兄弟は,美しい自然に囲まれた小さな島で神様を近くに感じ,より信仰を高めるための霊的な情報もたった独りで懸命にコーディネートしている。

●浜田兄弟

宮古支部のもう一人の副支部長は浜田政邦兄弟。高校2年のときに英会話を通して改宗し,英語を使った仕事に就きたいと願っていた浜田兄弟は,航空管制官という仕事があることを知る。パイロットとの交信はすべて英語。高校生の浜田兄弟にとって憧れの職業だった。全寮制の航空保安大学校で学んだ後,最初に赴任した職場が東京航空交通管制部。19年間の勤務を経て,現在は宮古空港の管制官として活躍している。

「飛行機が安全に離発着できるように安全間隔を取らせるのがおもな仕事です。飛行場管制というのは実際に目で見て行います。宮古空港の離発着は通常旅客機がほとんどです。安息日は休みではない日もありますが,勤務交代をして休みを取らせてもらっています。」現場勤務は7人の管制官がローテーションを組む。

「簡単に言えば,空の交通整理みたいなものです。飛行機が安全に降りられるように,できるだけパイロットの要望に合わせて高度を上げたり下げたりします。強風のときに,風に向かって斜めに降りて来る飛行機を見ていると緊張するときもありますが,パイロットの腕は確かですから信頼はしています。大きな空港は併行誘導路がありますが,宮古空港は丁字形の滑走路になっています。飛行機が降りても引き返してくるような形を取りますので余分な時間が必要です。目視で行いながら,そのタイミングを見計らって指示を出すんです。そのタイミングが難しいですね。飛行機は一日の離発着が合計40ぐらいです。1時間に2~3機ぐらいです。以前の職場は1時間でここの一日の合計ぐらいありましたから,数の上では大きく違います。しかし,それでも滑走路の作りが違いますので気は遣いますね。」

飛行機の離発着も気になるが,いつも気に留めているのが埼玉に残してきた家族のことだと話す。「わたしはここでの生活に慣れましたが,妻や子供たちは奮闘していると思います。子供を育てるのはとても大変なことです。今は家族と離れて暮らして家族の大切さを実感しています。離れて暮らす家族のことはいつも祈っています。」──宮古島での信仰生活について浜田兄弟は淡々と語る。「信仰を保つという点では,基本的にどこにいても変わりはないと思います。」

「わたしは仕事が終わってから夜釣りに行くことがあります。海も夜空もきれいで魚も豊富で,宮古島では特に神様の力を感じます。埼玉にいたときには自然についてあまり考えることはありませんでしたが,ここでは自然の大切さを感じ,神様が造られたそのままの姿を残していきたいという気持ちになります。」

「航空管制官も自然に影響される仕事です。特に風と雲,視程に影響されます。着陸と離陸のときに事故が多いので緊急時の心構えだけはしています。自分がミスをすると人の命にかかわりますから,その意味ではいつも主に護られてきたと思っています。以前の職場でも今もその気持ちには変わりはありません。」

「自分は伝道へ行っていないので,少しでも宣教師の助けができればと思っています」と話す浜田兄弟は,頼まれれば喜んで宣教師の送り迎えをするなど,宮古支部の発展を強く願っている。

「やはりわたしたち宮古の会員は,自分たちの集会所が欲しいと願っています。今の集会所は,決して環境が良い所ではありません。パブがあって,雀荘があって,映画館があって,その上に宮古支部がありますから。2階までは来ますが,3階まで上がって来る人はいません。宣教師がいて,教会堂があって,地元の人たちに認知してもらえればそれだけでも十分です。宣教師は地元の有名人ですから皆さん知っています。会員が集う教会堂があれば,教会堂も伝道してくれると思います。教会員の中にも宮古島に支部があるのを知らない人がいるのではないでしょうか。美しい自然とすばらしい人に恵まれた宮古島へ来てくださるような方がいれば大歓迎です。住むには最高の所ですよ。」宮古島の美しさに魅了された浜田兄弟は管制塔から島の景色を見下ろしながら,日々,空の安全を守っている。◆