風に吹きまわされたり,もてあそばれたりすることなく

風に吹きまわされたり,もてあそばれたりすることなく

◉ エリアプラン シリーズ #6

「風に吹きまわされたり,もてあそばれたりすることなく」

アジア北地域会長会 スコット・D・ホワイティング会長

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深く根を張る木

ホワイティング会長:

 「何年も前,ハワイに住んでいたときに台風が来ました。とてつもない暴風と大雨でした。台風の後,たくさんの木が倒れている中で,しっかりと立っている木が幾つかありました。なぜ倒れなかったのでしょうか。木によって根の張り方が違うからです。浅い根の木はすぐに倒れますが,深い根があれば倒れません。同様にわたくしたちも,末日聖徒としての根を深く下ろす必要があります。世の悪の風潮が強くなり,サタンの誘惑が増すという暴風雨にあっても倒れないために,皆さんの証は深くなければなりません。」
ホワイティング会長はイエス・キリストの語る種まきのたとえ※1を思い起こさせる。種は4つの違う土壌に落ちた。道ばたに落ちて鳥に食べられた種。土の薄い石地に落ちて根がないため枯れた種。いばらに塞がれて実を結ばない種。そして良い地に落ちて百倍もの実を結んだ種。
「わたくしたちは証を養わなければなりません。その種がわたくしたちの土壌=心に深く宿るように。心が硬いと根を深く下ろせません。柔らかい心が必要です。
ダリン・H・オークス長老は非常に興味深いことを言われました。証をするとは,(真理を)知ること,そして宣言することです。改心するとは,(証に基づいて)行動すること,また,そのような人物になるということです。ですから証を伝えるのはいいことですが,それはとても浅い根です。さらに深い根は,行うこと(to do)と,(主が望んでおられるような者に)なること(to become)。※2 そうすれば,強い台風が来るときにもしっかり立っていられると思います。」

証と改心─10人のおとめのたとえ

「数年前,デビッド・A・ベドナー長老が十人のおとめのたとえ話について,『あかり』を『証のあかり』に,『油』を『改心の油』に,言葉を置き換えて読む方法を教えました。※3そのようにするとさらに深い意味が浮かび上がります。

『そこで天国は十人のおとめがそれぞれ〔証の〕あかりを手にして,花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く,五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは,〔証の〕あかりは持っていたが,〔改心の〕油を用意していなかった。しかし,思慮深い者たちは,自分たちの〔証の〕あかりと一緒に,入れものの中に〔改心の〕油を用意していた。花婿が来るのがおくれたので,彼らはみな居眠りをして,寝てしまった。夜中に「さあ,花婿だ,迎えに出なさい」と呼ぶ声がした。そのとき,おとめたちはみな起きて,それぞれ〔証の〕あかりを整えた。ところが,思慮の浅い女たちが,思慮深い女たちに言った,「あなたがたの〔改心の〕油をわたしたちにわけてください。わたしたちの〔証の〕あかりが消えかかっていますから」。すると,思慮深い女たちは答えて言った,「わたしたちとあなたがたとに足りるだけは,多分ないでしょう。店に行って,あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう」。……』

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この読み方から学べることは何でしょうか?そう,改心は自分で行うことで,分かち合うことはできない。もちろん証を伝えることはできます。ランプ(証のあかり)は貸すことができますが,(改心の)油がなければ価値はありません。この十人のおとめは,イエス様から招待を受けた教会員でしょう。それら教会員のわずか半数だけが改心していたという意味ですね。
改心は本当に大切だと分かります。証は一つの段階です。証を得てそれで終わりではありません。証の根が次第にさらに深くなるよう,自分の証を強めていくことはもっとも大切なことだと思います。
イエス様の再臨がいつ来るか誰にも分かりませんが,毎日(その日は)近づいています。再臨が近くなると,世の暴風雨はもっと激しくなると思います。」

改心するには

「大管長会と十二使徒は,イエス様が間もなく来られると分かっているので,わたくしたちの証が根を下ろして改心になるよう努力しなければならないと知っています。世界中で『改心を深める』ことに焦点を合わせています。アジア北地域でも同じです。
それは新会員にも古くからの会員にも必要なことです。教会の開拓者であっても, 証だけで,深くその根を下していないならば心配です。聖文の登場人物には少数ながら,証を得る前に真の改心を遂げた例も見られます。息子アルマとモーサヤの息子たち,使徒行伝のパウロもその一人。珍しいケースですが,今でも時々起こります。でも,わたくしたちほとんどの人は,改心に向かって毎日励む必要がありますね。」

─具体的にはどのように励みますか

「毎日聖文を読むのはとても大切だと思います。でも,毎週日曜日に聖餐会に出席してパンと水を頂くこともまた大切ですね。教会に出席せずに聖文だけ読んでいても十分ではありません。安息日を守ることも大切です。神殿に行き,神殿の聖約を新たにすること,先祖のための儀式を行うことはもう一つの改心の表れです。エリヤの霊を受けて家族歴史活動をすることもまた,改心を深める方法ですね。一つだけではなく,多くのことが一緒になってわたくしたちの改心を助けてくれます。
わたくしは専任宣教師の頃,いつもこのような説明をしました。もしこの本が証なら,支えるためには少なくとも3本の足が必要です。足の1つは聖文を読むこと,1つは祈ること,もう1つは深く考えること。1本の足,例えば祈るだけなら証はそれほど強くなりません。祈りに聖文研究を伴うなら証は強くなります。さらに3本目の足,深く考えるときに,証のあかりが深く根を下ろして改心の油となります。だから一つの事柄,1本の足だけではなく,多くの足が必要なのです。木と同様に,一本の根だけでは十分ではありません。いろいろな根が生えて絡まり,システム(組織)になります。それで風がどの方向から吹いてもしっかりと立っていられます。」

深く考える

「3本の足のうち,読むこと,祈ることは目に見えて行えるモーセの律法のようです。毎日,ちゃんと読みました,祈りました,と証拠に基づいてチェックできます。一方,深く考えることはキリストの律法のようです。最も高度な律法です。目には見えないので,より難しいかもしれません。」
深く考えることの実例として,ホワイティング会長は教義と聖約第138章,ジョセフ・F・スミス大管長の死者の贖いに関する示現を挙げる。「これはスミス大管長の啓示の受け方について教えています。最初は自分の部屋で聖文を読んで,『思いをはせ』ました。これが1節です。
2節から3節。イエス・キリストの贖いについて『深く考えて』いました。
5節。『このように考えていたところ,』スミス大管長の考えがいろいろなことを『思い出し』,『深く胸を打たれ』ます。
11節。『深く考えていると,わたしの理解の目が開かれ』ました。深く考えるとき,狭い視野が広がっていき,天のお父様のような大きな視野を持つことができます。
これが深く考える方法についてのすばらしい教えです。静かなところに座って,聖文を読んで,できる限り聖文について深く考えてください。わたくしは深く考えるとき,自分に問いかけます。(この聖文は何を意味しますか?どうしてこれが書かれたのでしょう?なぜこれが大切ですか?自分にとってどういう意味があるでしょうか?この節から何を学ぶ必要がありますか?この言葉を自分にどう当てはめられるでしょうか?)─質問を通してわたくしの考えはだんだん深くなります。でも問いかけないと深く考えることはできません。白昼夢─そう,いろいろ関係ないことを考えてしまいます。だから深く考えることは積極的なことで,受け身ではできません。毎回ではありませんが,聖文を読んで深く考えるとき,わたくしたちは時々,1節だけで1時間くらいかかることがあります。
また,深く考えると啓示が来るという実例があります。『さて,わたしは,父の見たことを知りたいと思い,また主がそれを明らかにしてくださると信じて,思いにふけりながら腰を下ろしていたとき,主の御霊に捕らえられて,まことに,非常に高い山へ連れて行かれた。』※4ニーファイは父親(リーハイ)の示現を本当に知りたかったのです。信仰もありました。ですから深く考えて啓示を受けました。そういうパターンがあります。
ヒラマン書にもあります。『そこでニーファイも,主が自分に示してくださったいろいろなことを深く考えながら,家路に就いた。そして,彼は深く考え,ニーファイの民の悪事と,彼らの隠れた闇の業と,殺人と,略奪と,あらゆる罪悪のことでひどく沈んでいた。そして,彼がこのように心の中で深く考えていたとき,まことに一つの声が彼に聞こえて,こう言われた。』※5
最後にジョセフ・スミスです。『これら宗教家たちの論争によって引き起こされた,極度に難しい状況の下で苦しんでいたある日のこと,わたしは,ヤコブの手紙第1章5節を読んでいた。……この聖句が,このとき,かつて人の心に力を与えたいかなる聖句にも勝って,わたしの心に力強く迫ってきたのであった。それはわたしの心の隅々に大きな力で入り込んで来るように思われた。もしだれか神からの知恵を必要とする者がいるとすれば,それは自分であるということを悟って,わたしはこの言葉を再三再四思い巡らした。』※6この経験によってジョセフはどこにたどり着いたでしょうか。
ある人は自然に深く考えることができますが,ある人はそれがどうしても難しく,本当に努力しないとできません。わたくしも最初は下手でした。考えているときに,ある音が聞こえてくると,何の音だろう?(笑)……どうしても集中できませんでした。でも練習したら,だんだんうまく考えに焦点を合わせることができるようになりました。
聖典を読み,お祈りをして深く考える─これができれば,神聖なものについての改心が深くなります。神様から啓示を受けることができます。時々,小さな啓示を受けるだけでも証が深くなり,次第に改心となります。改心が深くなるとき,わたくしたちの信じていることが,知っていることに変わります。信仰がだんだん知識となって改心が深くなると,イエス・キリストと神様がともにおられると感じます。世が与えるようなものとは異なる平安が感じられます。十二使徒たちは皆,そういう経験についてよく知っています。」

忘れるということ

ホワイティング会長はモルモン書から,対称的な2つの時代について語る。「モーサヤ書第5章で,ベニヤミン王がやぐらの上から民に語ったとき,それを聞いた民は声を合わせて叫びました。『……わたしたちは,王がわたしたちに語ってくださった言葉をすべて信じています。また,全能の主の御霊のおかげで,わたしたちは王の言葉が確かで真実であることを知っています。御霊は,わたしたちが悪を行う性癖をもう二度と持つことなく,絶えず善を行う望みを持つように,わたしたちの中に,すなわちわたしたちの心の中に大きな変化を生じさせてくださいました。』※7─ここに改心とは何かが書いてあります。心に大きな変化が生じ,悪を行う望み持たず,絶えず善を行いたいと望むのです。

ところが,その場にいた幼い子供たちの世代は数年後,成長した後に教会から離れ始めます。モーサヤ書第26章です。『さて,当時の若者の中には,ベニヤミン王が民に語ったときにまだ幼い子供であったために,彼の言葉を理解できなかった者が大勢いた。彼らは,自分たちの先祖の言い伝えを信じなかった。彼らは,死者の復活について述べられたことも信じなければ,キリストの来臨についても信じなかった。また,彼らは自分の不信仰のために,神の言葉を理解できなかった。そして,彼らの心はかたくなであった。』※8
5章を読めば,彼らは改心したと分かります。でも26章によると,彼らの子供たちは改心しなかったのです。家族や教会の中で何が起こったのでしょうか。
家族の中で聖文を読むのを忘れたのか,改心の気持ちを忘れたのか……人は時々忘れますね。両親の模範があったかどうか,お祈りしたかどうか……聖典には何も書かれていません。
わたしたちは,自らの改心を目指しながら,子供たちも改心するように良い模範を示して助ける必要があります。家族の文化は改心の文化でなければならないと分かります。毎日聖文を読むこと,セミナリーに行くこと,毎週教会に行くこと,お祈りすること……そうしないと青少年たちは家族から離れるのではないかと心配です。
対称的に,第三ニーファイでイエス・キリストが直接,教えられた人々は,驚くべきことに一人も忘れませんでした。彼らの子供たちもそうです。その後生まれた子供たちにも教えて,どんどん続きます。200年後の人々に至るまで全く悪はありませんでした。※9皆が改心して,毎日毎日家族の中で教えて,その改心の文化は強かったことが分かります。福千年ならぬ福二百年,とても珍しい時代ですね。」

深く根付くために

「レーマンとレムエルは啓示を受け,天使を見ました。証のあかりはありましたが,改心の油がなかったので価値はありませんでした。モルモン書の見証者たちもそうです。金版をその手に持ち,啓示を受けた経験もありましたが,忘れました。
ですから証だけでは十分ではありません。毎日毎日,改心を深めるよう努力して,終わりまで耐え忍ぶことが大切です。ただ一度だけ天使を見た,改心した,終わり,ではないのです。将来その気持ちを忘れて道から離れるかもしれません。だから,毎週教会に行って,毎日聖文を読んで,毎日お祈りをして,深く考えて,教会や神殿で奉仕して,聖約を新たにして……そういうパターンを何度も何度も繰り返さなければなりません。そうしなければ,弱くなって,『人の悪巧みによって起こる様々な教の風に吹きまわされ』※10倒されてしまうかもしれない─皆さんも,わたくしもです。
それは,自分自身にとって大切な知識を忘れたこと,あるいは知らなかったことの結果です。将来必ず,大管長会や十二使徒定員会から,社会の風潮とは反対の勧告が多く出てくるでしょう。同性結婚に反対することはその一例です。将来もっともっと出てくるかもしれません。わたくしたちの信条や知っていることに深く根付いていれば,風が吹き荒れるときもしっかりと立っていることができるのです。」 ◆


※7─モーサヤ5:2
※8─モーサヤ26:1−3
※9─3ニーファイ11章から4ニーファイ1:23参照
※10─エペソ4:14参照