リアホナ 2005年 2月号 備えは万全ですか?──被災地からの証言

備えは万全ですか?──被災地からの証言

昨年,日本列島は10回の台風上陸による風水害と,新潟県中越地震という度重なる自然災害に襲われました。各地の教会員はどのように対処したのか,貯蔵などの備えはどう生かされたのか……実際に被災した体験者の貴重な証言を基に,検証します。

兵庫発~豊岡大水害福知山地方部/ 豊岡支部

コウノトリの郷として有名な兵庫県豊岡市。町のあらゆる場所に,シンボルとなっているコウノトリを描いたものが目立つ。駅前の交番,市民会館の壁,道路標識。マンホールの蓋にまでコウノトリのイラストが描かれている。また,自然との共生を目指す豊岡市には,その源を兵庫県朝来郡生野町円山に発し,北流して日本海に注ぐ流域面積1300平方キロ,長さ68キロの円山川が流れる。陸上交通が発達する以前から,水運を中心として但馬地方の経済や文化の基盤を形成してきた市民に親しまれている円山川。その大河川が兵庫県内全域に大雨をもたらした台風23号により決壊し,豊岡市に被害をもたらしたのは昨年の10月20日。100年に1度と言われる大きな水害によって豊岡支部に集う会員や宣教師も被災した。

ドキュメント10.20

20日に東京神殿に参入していた寺田雅子姉妹は,台風の影響を受けた暴風雨を見て,豊岡へ帰れるのかと心配していた。「なんとか戻ることはできましたけれど,もう少し遅ければ帰れないところでした。」寺田姉妹が豊岡へ向かっているころ,円山川はすでに警戒水位を超えて約4.6メートルになっていた。

「なんとなく嫌な予感がしていました。」雨の様子を見ながら鈴木由美姉妹はこう感じていた。「何も起きなければいいけれど」そう願っていた午後6時ごろには,ほぼ市内全域に避難勧告が出され,円山川の水位は危険水位を超えて約7.6メートルを記録していた。

帰宅した寺田姉妹のもとへ古谷支部長から避難を勧める電話がかかったころには,日本海の湿り気を含んだ吹き戻しの風が台風に影響し,雨は激しさを増していた。市内の各所では円山川から逆流した排水で避難さえできない人たちが出始めていた。浸水は川が決壊しなくても,降雨に排水が追いつかなければ起こる。住まいが川から遠いからといって安全とは限らない。

求道者の北垣照夫さんは「下水道から水が噴き上げていた」と当時の様子を話す。「最初はたいしたことはないだろうと思っていました。被害を受けたとしても,せいぜい20~30センチぐらいだと思っていました。それがいつのまにか140センチほどになり,脱出しようとしてもできなくなっていました。」そのころ,大雨・洪水警報の中でも「最高レベルの警報」が豊岡市全域に発令され,「避難勧告」が「避難指示」へと変わった。市役所においても過去に例のない発令だった。

豊岡支部の古谷佳寛支部長は会員へ避難を勧める電話をし,安全を確保しようとしていたころアクシデントに見舞われる。「避難をしようとしていたとき,娘が怪我をしてしまったんです。すぐに病院へ連れて行ったのですが,病院の周りも水があふれ始めていました。常に冷静な判断が求められると感じました。」結局,古谷支部長は娘さんとともに病院で一晩を過ごすこととなった。午後8時には川から逆流した水に加え,病院のすぐ隣にそびえる堤防からはすでに水があふれ出していた。決壊すれば病院ごと被災する大惨事の直前だった。

笹山英亮兄弟は,冠水し始めてから職場へと向かった。「家を出たときにはすでに腰ぐらいまで水が来ていました。どこでも,冠水しはじめてから水位が上がるまでの時間は短かったと思います。円山川の土手は水であふれ,堤防からも手が届くくらいでした。多くの人たちが助けを求めていたので携帯電話も通じませんでした。救急隊員でさえも連絡できない状況でした。」

そして午後11時12分。円山川の立野橋近くの堤防が約50mにわたって決壊し,田畑や民家を飲み込んでいった。決壊した右岸側に住んでいる鈴木由美姉妹の「嫌な予感」は的中した。そのときには避難するルートを確保することさえできなかった。「避難勧告の放送は何回かありましたが,正直,『まさか』という気持ちでした。あふれ出す水の被害をくい止めるために一つの地域を犠牲にして,わざと川の堤を切ったのかもしれないと思ったほどでした。」

必死になって助けを求めていた北垣さんは,やっと通じた119番への電話に救助を要請した。しかし返ってきた言葉は,「今は行けないのでそのまま待機していてください。」救急隊員でさえ助けに向かえない状況が市内のあちらこちらで起きていた。「“運が良ければ助けてあげられます”程度にしか聞こえませんでした。流される家にしがみついて,海にさえ出れば,漁船に助けられるかもしれないと思っていました。ゴムボートを普段から準備しておくというのは現実味がありませんが,水害にあった家から脱出できないときには真剣に考えていました」と,そのときの恐怖感を話す。

“準備万端”の被災

一夜明けた21日。職場から戻った笹山兄弟を待っていたのは冠水したままの自宅だった。しかし,そのような中でも豊岡支部で貯蔵スペシャリストの責任を受けている笹山兄弟は水に浸かりながら貯蔵について考えていた。「準備しておくべき必要なものを忘れないうちに書かなければと思い,まだ水に浸かっている中でメモを取り始めました。」動揺する

気持ちが落ち着き始め,周囲を見回した笹山兄弟は,食料,ラジオ,懐中電灯,携帯をはじめ不可欠と思ってメモに書き込んだものが,すべて準備されていることに気がついた。「どんな災害でも2,3日で行政や近隣から援助が届きますが,それまでは最低でも,教会で勧めている72時間の緊急用品が必要です。自分では何を入れていたか忘れていたのですが,必要なものはすべて準備していたんです。メモに書いたもので準備していないものはありませんでした。勧告されていることは正しいと確信を持ちました。」

古谷支部長はこんなエピソードを紹介する。「豊岡支部の会員は貯蔵に熱心で,ほとんどの会員が備えをしていました。被災したのは残念なことですが,会員たちの貯蔵に対する関心も高まり,ちょうどその直前に皆,最低72時間の備えをしていましたのでこの災害を乗り越えることができました。また,中でも特に熱心な会員の一人に岸田京子姉妹という方がいます。岸田姉妹は,もう一歩取り組みが進まないと感じていたそうです。彼女は,この10月20日に自主訓練として,水道・ガス・電気などのライフラインを使わず生活する練習をしていました。まさにその日,台風によって雨が強まり水害が発生,練習のつもりがそのまま『本番のサバイバル』に突入してしまったわけです。岸田姉妹は万全の準備のまま,被災したということになります。」この水害の経験から岸田姉妹は貯蔵への関心がさらに高まったという。笹山兄弟も「地方部で貯蔵スペシャリストを決め,各支部で活発に取り組みが行われ始めていました。豊岡支部でも意識が高まり,取り組みが盛り上がってきていた,まさに,そのところに水害が来たんです」と振り返る。

救援活動,始動

水害直後の安息日には聖餐会のみが行われた。「集会後に会員の皆さんはボランティア活動に向かいました。町中が泥だらけで,教会も床上浸水20~40センチの被害を受けていました。教会員の家を手分けして順番に訪問しました。避難生活をしたのは数家族だけでした」と古谷支部長は話す。

副支部長の村田徹也兄弟は,「安息日にはまず教会員の家を訪問しました。その後,求道者の方々,教会員の友人など,順番にできる範囲で援助の行動範囲を広げていきました」と話す。豊岡支部には多くの物資が寄贈され,会員たちはその援助品を教会員だけではなく,行政の援助が届かない地域の人たちにも配っていった。泥で埋まっていた支部の床も清掃され,4トントラックで運び込まれる物資で埋まり始めた。それらを効率よく配布するために,今でも教会の玄関には「救援物資ノート」が置かれている。そこには物資を持参していった場所などが記されている。

「被災したわたしの友人は行政からも連絡がなく,配給もなく,途方にくれていました」と物資の配給を手伝った寺田姉妹は話す。同様に行政の援助が届かない地域に住む友人を持つ鈴木姉妹は,「その方の家に教会から援助物資を運び込ませてもらい,そこを中心に村の方々に必要なものを取りに来てもらいました。その地区の人は大変喜んでくれました」と話す。また,多くの教会員が豊岡にやって来てボランティア活動に携わってくれたのには非常に励まされた,と豊岡支部の会員は声をそろえる。

村田兄弟は被災後の救援活動状況について次のように話す。「被災した翌々日には地方部長会が救援物資の第一陣を届けてくれました。その後,(地域幹部七十人の)中野正之長老が物資を運び,一緒に被災した人たちを訪問してくださいました。中野長老からは,少しでも早く行きたいとの連絡があったのですが,交通経路が遮断されていたのです。その後,車の通れるルートを調べ,なんとか来ていただくことができました。中野長老からの様々なご助言に感謝しています。しかし,その助言を頂く前に,だれにも指示されていないのに,豊岡支部の会員たちはすでにそれを行っていました。持っているものを近隣へ分け与えたり,助けが必要なところへ援助の手を差し伸べたり……この教会の精神はすばらしいとつくづく感じました。中野長老に『もうやっています』と報告できたときには,会員の方々に対して誇らしい気持ちになりました。」

母親として

鈴木姉妹は母親ならではの視点で話す。「地方部長会から届いた援助物資の中に幼児のオムツが入っていたのは助かりました。災害のときには子供のことが忘れられてしまいますが,そのような配慮があったことに感謝しています。」特に子供の離乳食には苦労したという。「いくら蓄えてあっても冷蔵庫の中のものは蓄えになりませんから。」行政から配給された菓子パンやおにぎりをそのまま与えなければならないこともあった。けれどもそうした経験に意義も見いだしている。「災害もすごかったのですが,それによって家族の一致も強まりました。」

失われた記録

今回の災害では多くのものが失われた。「大切な記録や思い出の品も被害に遭いました。ある人の家へ行ったときには,箪笥の中に大切に取っておいたという着物やゆかたが泥だらけになっていました。命は失わずに済んだものの,自分の命をすり減らして守ってきたようなものもあると思います。それが失われることは残念です。思い出も流れてしまったように感じました」と村田兄弟は語る。特に系図資料など,先祖の救いにかかわるものが被災するのは痛ましい。今となっては再び請求できないような資料もあるかもしれないのだから。

数々の貴重な教訓

今回の被災経験によって,豊岡支部の教会員は多くのことを学んだという。「肉体的にも精神的にも疲れますが,(特に)家族の安否確認が取れないというのは疲れます。まったく連絡できないので,普段から避難場所は決めておいた方がいいです。家族の安全が確認できるだけでも疲れが違います。また,緊急時の食料として,最低限のものを少し食べられればいいと思って準備していたのですが,予想以上に減り方が速いんです。緊急時だからこそ,疲れもあり,十分な食料も必要になってきました。1週間は大丈夫だろうと思っていた食料も4日ぐらいで底をつきそうになりました。今回の経験から,貯蔵量の見直しをすることにしました」と笹山兄弟。

寺田姉妹も言う。「早く対応した人と,そうではない人の差が出たように思います。警報が出ていないうちから避難された方は,大丈夫でした。家族で避難場所や待ち合わせの場所を決めておくことは大切です。自分の身は自分で守らなければならない状況になることを痛感しました。また,ポータブルのトイレや,バケツ,トイレットペーパーは真っ先に確保しておきました。水が引くのが比較的早かったので実際には使わず,2階に避難した人たちはトイレを我慢して切り抜けた人も多かったようです。しかし,遅い場所では水が引くまでに2日ほどかかりました。トイレのためにビニール袋も準備した方が良いと思います。」

村田兄弟は,多くの会員を訪問した経験から現実的なアドバイスをする。「貯蔵も大事ですが,技術もお金も蓄えなければと思いました。豊岡でもこれからが大変です。会社が被害を受けて厳しくなった所では社員を解雇しなければなりません。だれから解雇するか決めるときやはり普段の働き方や態度が重視されます。普段から誠実に働くことは大切です。仕事を失えば,生活を立て直すこともできません。また,被災した後に,互いにその経験を話し合う機会も大切だと感じました。早く立ち直りたいと頭は先に進みますが,失ったものへの喪失感はなかなか消えません。教会の中でも,そのような気持ちを話し合い,言葉に出して伝え合うことは心理的なケアにつながっていると感じました。内面的なサポートが必要です。」

豊岡市が台風の被害に遭った3日後,新潟県中越地震が発生した。また,12月26日にはスマトラ沖地震と津波災害が発生した。次々と起こる災害によって,前に被災した場所への関心は薄らいでいってしまう。被災直後の援助は手厚い。しかし被災した人たちには,その後の,経済的にも精神的にも生活を立て直すまでの長い期間がもっと苦しいのである。

今年の9月には,人工飼育されたコウノトリの数羽が豊岡の空に放鳥される予定だ。同じように,復旧や復興の作業に明け暮れる毎日がまだ続いている豊岡の教会員や被災した人々も,市のシンボルのコウノトリと同じように,思う存分羽ばたけるときが早急に来ることを願ってやまない。◆