リアホナ2005年9月号沖縄伝道50年

沖縄伝道50年

60 年前の太平洋戦争末期に,悲惨な戦場となった沖縄。幾多の悲しい歴史を刻んできたこの美しい島の人々に主は大きな愛を注いでこられました。1955 年にジョセフ・フィールディング・スミスにより奉献され,以来半世紀の道を歩んできた沖縄の伝道黎明期のころの記憶を当時の語り部たちの証言によって辿ります。

歩んだ人それぞれの証が刻む沖縄奉献50年の教会歴史

1955 年8月14日であった。当時十二使徒であったジョセフ・フィールディング・スミス長老が沖縄の地を奉献,それから今年でちょうど50 年の節目を迎える。その記念行事の一環として,比較的初期に改宗した教会員をパネリストに招いた「沖縄伝道50 周年記念座談会」が6月4日に開催された。その場で紹介された初期のエピソードには,沖縄の開拓者であった宣教師と会員の苦労と信仰の跡がしのばれる。

●野里洋子姉妹(浦添ワード)は高校を卒業後,病気をして寝込んでいたときに宣教師の訪問を受けた。「そのころ那覇には教会の建物がありませんでしたので,普天間にも行きました。宣教師からバプテスマを受けるように勧められたのですが,父にバプテスマを反対され,聖書を捨てられモルモン書を破られました。20 歳になるまでは親の許可なしにバプテスマを受けることはできなかったので,1957 年の20 歳の誕生日の翌日にバプテスマを受けました。宣教師は外国人がなるものと思っていました。街頭伝道ということで平和通りの交番の前で箱の上に立ってジョセフ・スミスの証を述べさせられたこともありましたが,それが伝道だという意識はありませんでした。沖縄ドレスメーカー女学院や安木屋の最上階や宣教師の住宅などで集会を転々と開きました。毎週,『次はどこで集会が開かれるのかしら』という状況でした。」

●宮良毅兄弟(首里ワード)は「ワード宣教師という責任は当時ありませんでした。宣教師はレッスンを行い,チラシ配りは会員がしていました」と街頭伝道の様子を振り返る。宮良兄弟は1957年9 月ごろに宣教師の戸別訪問を受け,それが始まりとなって改宗した。「わたしが最初に教会に行ったのは中学2 年生のころでした。沖縄ドレスメーカー女学院の上で集会を開いていました。ジュニアサンデースクールは(別のところ)で行われており,当時は2か所で集会が行われていました。子供がたくさんいたのを覚えております。子供日曜学校を最初にやって,その後,日曜学校があって,聖餐会が行われていました。当時は若い男性や若い女性という区分はなく,小学生も中学生も一緒でした。聖餐会では宣教師が聖餐を祝福し,宣教師が配っていました。」

●屋富祖昭兄弟(首里ワード)は「非専任宣教師」という責任を受けていた経験を話す。「改宗してからは,毎日宣教師の手助けをしていました。非専任宣教師という責任があり,召したいとの申し出にこたえ,何人かと非専任宣教師として働きました。わたしは早速友達を集めたり,自分たちの求道者を見つけてレッスンもしました。この経験はその後専任宣教師として働くときに非常に役に立ちました。」

●沖縄の会員はMIA(相互発達協会)の大会に出席するのも一苦労だった。長嶺顕正兄弟(小禄ワード)はそのとき地方部長の責任も受けていた。「1963 年8月の夏休みを利用して全国MIA大会が東京で開かれました。その大会ではMIAの主要プログラムであった演劇・ダンス・音楽・スピーチなどの大会が行われました。その大会に併せて当時地方部長であったわたしは,北海道地方部,東京中央地方部,東京西地方部の地方部長とともに伝道部長に招かれ,将来の日本の教会について,また初めてステーク組織についての話を伺いました。他の会員がMIA の大会に参加している間,わたしたちは伝道本部でステークのプログラムについて訓練を受けていたのです。」

●苦労はあったものの教会の活動は魅力的だったと喜村正兄弟(小禄ワード)は話す。「MIA の全国大会は最初は東京で行われていましたが,大阪,広島,福岡でも開催されました。それらの大会に参加するためにわたしたちは船で行かなければなりませんでした。あるときは嵐の中の船旅で,一緒に行った小学生がデッキに出てしまい,波にのまれそうになったこともありました。また,天候が悪く奄美大島に避難したこともありました。ようやく鹿児島に着いて,また何時間もバスに揺られてやっと会場に着いたころには,もう大会も閉会前だったということもありました。当時はMIAや英会話の活動を通じて毎月10人のバプテスマがありました。中学生や高校生は台風であっても,楽しく教会に集っていました。それほど当時の青少年にとって教会は魅力的で楽しい場所だったのです。」

●沖縄の教会の発展を語るうえで米軍人との交流は欠かすことはできないと多くの会員は言う。上條實兄弟(沖縄ワード)もその一人として当時の経験を披露する。「当時,普天間には米軍から払い下げてもらったコンセットという小さなトタン屋根の建物がありました。しかし,新しい教会堂を建てるということで,地元の沖縄の会員も,軍人会員も心を一つにしました。当時は建築資金の20%は地元負担となっていました。その費用を捻出するためにいろいろな催し物を開きました。当時は沖縄の人々より軍人がはるかに裕福でしたので,すき焼きパーティーのチケットを軍人に販売したこともありました。それは,見込んでいた金額よりも大きな売り上げとなり,大変成功しました。軍人会員に不要品を提供してもらい,これを沖縄の会員たちが地元周囲の人々に呼びかけて販売したところ,これもたくさん売れて成功し,建築資金の20%を達成することができました。当時は軍人会員から大きなパワーを頂いてきました。」

●軍人会員からの支援を受けながら,会員も熱心に働いたと大城朝次郎兄弟(与那原ワード)は語る。「那覇の方も軍人に大変お世話になりました。軍人と一緒に何度もすき焼きパーティーを開き建築資金を集めました。建築費に関して最初は20%が地元負担でしたが,その後,負担額は2 %まで軽減されました。しかし2%でさえ,当時の会員たちにとっては大きな課題でした。そこで,小学生から大人まですべての会員が労働を提供することで,2%の建築資金を補いました。」

●長嶺兄弟は,沖縄は中央幹部の訪問を受ける機会が多くあったと話す。「ジョセフ・フィールディング・スミス長老,マーク・E・ピーターセン長老,ゴードン・B・ヒンクレー長老,ヒュー・B・ブラウン長老,ブルース・R・マッコンキー長老,ニール・A・マックスウェル長老など,ほぼ毎年のように中央幹部が沖縄を訪問なさっています。沖縄は米軍の前線基地になっているので,その慰問も兼ねていたのが理由の一つでもありました。」

●屋富祖兄弟は中央幹部を戦跡に案内した経験がある。「終戦後50周年のとき,マックスウェル長老に3度目の来沖をしていただき,当時の戦跡を案内しました。戦時中,今の石嶺団地の水道塔がある丘のところで日本軍の猛攻に遭い,米軍は劣勢でした。そのときに上官が「Mの付く者はここに残れ」という命令を出したそうです。名前にMの付くマックスウェル長老は残ったわけですが,出て行った仲間たちはみんな日本軍に殺されてしまいました。そして日本軍が目前に迫ってきたとき,マックスウェル長老は『もし命が助けられ,本国に帰ることができたときには,主の御業のために,すべてを主にささげます』と熱心に祈りをささげました。もうだれもいないと思ったのでしょうか,その後日本軍は撤退を始めました。そしてマックスウェル長老は助かりました。アメリカに戻ったマックスウェル長老は,教育宣教師として20 年後に再び沖縄に戻って来ました。そして当時と同じ場所で主に祈りをささげ,20年前に主と交わした約束を今でも守っていることを主に伝えました。その後,大管長会からの電話を受けてアメリカに戻り,十二使徒に召されました。沖縄に非常に思い入れのある長老でした。昨年いらっしゃったボイド・K・パッカー長老も伊江島で終戦を迎えました。そこで非常に霊的な経験をされたそうです。このように教会の中央幹部が沖縄にそれぞれ関係を持っているということは,わたしたち沖縄の会員にとっても,大きな証になるのではないでしょうか。」

●平和について思いを向けるとき,那覇の教会堂を奉献するためにヒンクレー長老がささげた祈りの言葉は強く印象に残っていると長嶺兄弟は語る。「1966年,ベトナム戦争の真っ最中のことでした。奉献式の参加者の中には軍人も多くおり,奉献式の後,すぐ翌日にはベトナムに赴く兵士もいました。来島したヒンクレー長老の奉献の祈りの中で『戦争に行く若者たちが,この場において,ほんとうの安らぎを得られるように祝福してください。またこの沖縄の地がアメリカから来る兄弟姉妹たちにとっても平安を得る地となるように』と祈っていらっしゃいました。わたしはこの祈りを,個人的な解釈ですが,沖縄の地に早く神殿を建てなければいけないということだと理解しております。沖縄に来るアメリカの兄弟姉妹たちは,沖縄がほんとうに平和な地になるようにと願っています。」

伝道50 周年を迎えた沖縄では,これまでと同様,これからも一人一人の証が教会の歴史を刻んでいくことだろう。◆