門を叩け,そうすれば,開けてもらえるであろう

門を叩け,そうすれば,開けてもらえるであろう

ろう者の思いの代弁者として井上幸子姉妹

2015 12 18日から19日にかけて,東京神殿別館で横浜ステーク主催による「手話・字幕カンファレンス2015 冬」が開催された。同年4 月・9 月に次いで3 回目のこのカンファレンスでは,手話通訳(聞き取り通訳・読み取り通訳)ができる人材の養成を目的に企画され,ろう者9人,手話通訳に関心のある教会員と協力者32人が集った。 講話,話し合い,証会,祈りを含む全ての会話には,聞き取り通訳(音声日本語を手話に通訳),読み取り通訳(ろう者の手話を音声日本語に通訳),文字通訳(パソコンに文章を入力して投影)の奉仕者を必要とする。そこには参加者一人一人に心を配り,彼らの願いや能力に見合った経験ができるようにと,忙しく働き歩く井上幸子姉妹(松戸ステークつくばワード)の姿があった。


聾学校時代を豊かにした読書と部活動


幸子姉妹は聴者 1 の両親のもとで誕生した。 両親や1 歳違いの兄との会話は,手話ではなくもっぱら口話。 いつもテレビを見ながらの夕食だったが,皆がどっと笑う場面でも,ろう者の自分だけ内容がよく分からない。 孤独感や悔しさ……言いようのない思いを何度も味わった。


幼稚部・小学部・中学部・高等部の15 年間,横浜市立聾学校で学んだ。 小学部低学年までは,口話をかなり熱心に教えられたという。 幼稚部では,夜遅くまで発音練習をした。 幸子姉妹に付き添っていた母は,よく授業の合間に抜け出しては幼稚園に通う兄を迎えに行った。 兄を連れて戻って来ても,まだまだ練習は続いている。 他の子どもたちのように遊ぶ時間などなかった。


小学4年生の頃の幸子姉妹(左下)

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教師からは,「手話はみっともない。手話を使っている人を真似てはいけない」と禁じられ,手話の真似ごとをしただけで,周囲からは白い目で見られた。バスの中でも,話しかけようと手を少し動かすだけで,すぐに友人から目で制された。 当時,手話は言語であると認められていなかった。 ろう者であること自体が差別の対象であったが,手話で話せばろう者であることが分かってしまう。 特に手話の抑圧が激しかったのは,教育の現場だったという。


口話教育の妨げになるとして,聾学校では手話の使用が禁止され,ろう児は口の動きから相手の話を読み取り,発声で答えることを徹底的に教育された。 少し前までは,手話を使う子供に対して,棒で手を叩くようなことも行われていた。
そうした中,幸子姉妹は小学4 年まで兄にくっついて近所の子供たちと一緒に遊んだが,兄が中学に進学してからは外で遊ばなくなったという。 時を同じくして,幸子姉妹は読書にのめり込んでいく。




「たまたま読んだ本が非常に面白くて,小学4年生から学校の図書館で借りまくりました。 読む本がなくなると区立の図書館に行って,そこの本を読み尽くしてしまうと,また別の図書館に行きました。 最初は難しかったので,鍵括弧の会話だけとか,間を抜かして読んだりしました。」 幸子姉妹は,言葉が紡ぎ出す世界に心躍り,夢中で読み進めた当時を懐かしく振り返る。



「途中で諦めるのは絶対いやだから,分かるところだけでも」と,とにかく最後まで読み切った。



中学に入ると卓球部,中学3年から高校3年までは陸上部で活動した。 当時,ろう者は聴者と練習試合はさせてもらえず,ろう者だけの狭い環境の中で練習をしていた。 しかし,陸上部の顧問の先生は違った。「聴者の中に入って,競技をしなさい。」知らなかった世界への扉を開いてくれた。 幸子姉妹は先生に言われるがままに聴者との競技に出場するようになる。
最初は,ピストルの音が聞こえずに出遅れたり,皆がスタートしてから気がつく,など数々の失敗もあった。それでも徐々に慣れてくると,競技や学校生活をより楽しめるようになったという。 「聴者の中で競技をしたことは,自分を育んだことの一つです。ちょっとした助言があれば大丈夫,できます。」大きな確信と希望をつかむ。




中学2 年から生徒会活動に参加し,高校3 年生のときには,学校で初めての女性生徒会長にもなった。 「多くの人前に立って話をすることも,このときに慣れました。」
制限もあったが充実した聾学校時代を過ごした。




大学進学手話により広がった可能性



聾学校を卒業すると一般企業に就職した。 そこで幸子姉妹は口話法での限界を感じ,20 歳から本格的に手話を学び始める。



やがて幸子姉妹は,ろう協会でのさまざまな活動を通して,福祉関係の仕事をしたいと思うようになり,24 歳のときに社会人入学制度のある明治学院大学社会学部(二部)を受験,進学する。 「数学や社会などの学力はあまりなかったです」と幸子姉妹。 普通校に比べて知識量のハンデはあったが,日本語は違う。
「日本語の習得で苦労した記憶はありません。」 そう語る背景には,「とりつかれたように本を読みあさった」小学部からの積み重ねと,「新しい言葉を学ぶと使ってみたくなる性分」も関係しているかもしれない。




日本語と日本手話は,外国語ほどの違いがあり,文法も全く異なる。 幸子姉妹の場合,初めに習得したのは日本語だった。
「最初は日本語対応手話 2 でした。 でも,それだとろう者には通じません。」 幸子姉妹は,その時々の感覚を大事にしながら,ろう者に通じる彼らの母語日本手話を身につけていった。 「考えるときは,日本語と日本手話の両方が頭に入っています。」 というバイリンガル。 成人してから本格的に学び始めた日本手話が,母語と言えるまで不自由なく使えるようになるのは,簡単なことではない。 しかし「手話を遅く習い始めても,かなり上達の早い人を見てきた」ことも事実。 少なくとも幸子姉妹には,手話習得に苦労はなかったと語る。




大学での専攻は社会福祉学科だ。 入学するや,幸子姉妹は講義を聴くための通訳者探しに奔走する。 関東学生情報保障者派遣センターから派遣される通訳者では物足りず,交通費は支給してもらうが,通訳者は自分で探すことにした。 ボランティアをしてくれる人による紹介,またその人からの紹介……。 学びたい一心だった。 「講義の手話通訳をしてもらって,自分でノートをまとめ,その日のうちに内容を覚えるようにしました。」 手話を自在に駆使でき,ろう協会の活動や役員の経験による交流があったからこそ,通訳の交渉もでき,難しい講義にも取り組むことができた。 やがて幸子姉妹は昼間の講義も受けるようになり,中学校の社会科と養護学校の教諭の免許も取得する。


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20才の頃。 横浜市神奈川区のふれあいまつりの手話教室で(右)


アメリカ旅行で学んだこと



幸子姉妹が横浜中央ワードでバプテスマを受けたのは,1990 2月,28歳のときだった。 「悔い改めよ。悔い改めよ。わたしの愛する子の名によってバプテスマを受けよ。」(2 ニーファイ31 9 11 )の勧めが,自分に向けられているように感じた。



「レッスンを受けて,それまで罪だと思っていなかったことが罪だと知りました。 改宗前の罪を清くしたいと思いました」と幸子姉妹。 モルモン書に書かれたままを受け入れ,疑わずに読み進めた。 4 月から通ったインスティテュートでは,「知らないことが分かるようになり,頭の中がパーっと明るくなりました。 そうなんだ! と。 学校で知識を学ぶときとは違う,神様の奥義が見えてくるような感覚でした。」 いつも最前列に座り,口話通訳 3 をしてくれる姉妹の口の動きを見ながらレッスンを受け,多くの聖句について深く考え,資料を読み込んだ。



改宗して5か月後,幸子姉妹はアメリカを旅行し,聖なる森やジョセフ・スミスの生家,クモラの丘を見てきた。 アメリカ人のろう者にも会った。 「今のアメリカではASL(アメリカ手話)でモルモン書を全部見ることができ,DVDも安く買えます。
初めて会ったろう者の会員から『この人に会いなさい』と勧められて,管理本部の責任者に会い,総大会のASL 通訳VHSテープをいっぱいもらいました。」 幸子姉妹は改宗前から趣味でASL を学んできたが,ここに来て初めてASL を学ぶ理由を知ったという。 ろう者も神殿で儀式執行者として奉仕し,総大会は手話と字幕付きの衛星放送を自宅で見る。 神殿の儀式は,手話と字幕を自由に組み合わせて受けることができる。 アメリカと日本のろう者を取り巻く環境の違いに,大きな衝撃を受けた。 LDSデフ(ろう者)・シンポジウムの参加も含め,5 回は訪れたというアメリカ旅行から,これからなすべきことを多く学んだ。




帰国後ほどなくして,幸子姉妹は横浜ステーク主催で開催された「全国ろうあ者大会」に参加する。 ろう者が手話通訳付きで神殿の儀式を受ける目的で開かれたこの大会で,遠くからの参加者は教会員の家庭に割り当てられ,ホームステイを体験する。 横浜第2ワード(現神奈川ワード)の会員たちは無償で彼らを歓迎した。 大会後,幸子姉妹は開催の厚意に感謝しつつも,ろう者自身の立場として感じたことを伝えた。 本当は,もっとろう者同士で触れ合う時間,話し合う時間がほしい。 情報交換をしたり,霊的にも強め合う場を持ちたい。 なかなか聴者では知り得ない,ろう者の真のニーズを代弁した。



改宗して3 か月目から20 年間集った神奈川ワードには,手話通訳の第一人者である田中清姉妹や遠藤孝姉妹がいる。 手話を学ぶ土壌があり,理解者も多い。 「なぜ自分はろう者として生まれ


生まれてきたのか。 全国各地には,独りぼっちで頑張っているろう者会員がいるのに,なぜ自分は恵まれて,手話通訳に不自由のない横浜でバプテスマを受けたのだろうか」と,幸子姉妹は日々考える。 やがて,「自分の耳が聞こえないのは,きっと同じ障がいのある人々に尽くすため」だと確信するようになった。


全国のろう者があまり口にしてこなかった本当の望み。 以来,神権指導者管理の下で幸子姉妹がカンファレンス企画の中心的役割を担うようになり,「ろう者によるろう者のための大会」が横浜,大阪,熊本,福岡,東京神殿別館で開かれてきた。


結婚,子育て─多忙な日々の中で

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                                                          結婚式の日


2001 年,幸子姉妹はろう協会の活動で知り合った井上正之兄弟と結婚する。 彼も,1 歳のときにかかった麻疹により失聴したろう者であった。 なかなか会う時間を持てない分,メールのやり取りをして思いを深め合った。 プロポーズは観覧車の中─横浜の夜景がとても綺麗だった。



2003 年に双子の綾香姉妹と泰輝兄弟を出産してからは,非常に多忙な日々を過ごした。 それでも子育てが一息ついた2008 年には,横浜で久しぶりの「ろう者の集い」を開催。 正之兄弟はまだ改宗していなかったが,教会のことで休みなく働く幸子姉妹に深い理解を示し,決して怒ることはなかったという。 やがて正之兄弟は川崎市ろう者協会の事務局長を経て理事長に就任し,多忙を極める。 当時,幸子姉妹は子供の世話やさまざまなことで疲れ果て,体調も崩し,ストレスで爆発しそうだったという。



2010 年2 月,横浜ステーク大会で通訳者として指導者に同行したサブストローム兄弟と話す機会があった。 かつて教会手話辞典を作る際に,非常に尽力したという兄弟との出会い─幸子姉妹は「ぜひ彼と話したい。話さなくては!」の思いに駆られ,田中姉妹に通訳を頼んだのだった。



教会手話辞典の改訂,モルモン書の手話翻訳など……それまで「日々いっぱい考え」,胸に温めてきた数々の提案を彼に伝えた。 サブストローム兄弟は熱心に耳を傾け,前向きに受け止めてくれたという。



そうした中,正之兄弟が筑波技術大学で情報システムを教えるため,一家でつくば市に引っ越すことになる。



「急いで進めなければならない」



2010 年3 月30 日引っ越し当日─荷物積み出し作業は夜11 時までかかり,やむなくタクシーで新居に向かう。 就寝は午前3 時近くとなった。 翌3 月31日は,朝から荷物積み込みと荷ほどき作業にかかる。 ところが幸子姉妹は,前日からの激しい悪寒と頭痛に加え,平衡感覚に異常を覚えた。 何度も立ち上がろうとしてはふらついて倒れ,また起き上がろうとしては倒れる。 正之兄弟が幸子姉妹を抱きかかえ手話で呼びかけても,うつろな目で反応はない……やがて深い眠りに落ちていった。



夕方6時過ぎにつくばワードの根本ビショップが駆けつけ,119番通報─救急車が到着するまでの間に,ビショップと,日本手話の堪能な岡田昌章兄弟による癒やしの儀式が行われた。 まもなく幸子姉妹は病院に搬送され,HCU(高度治療室)に入室する。
診断名は細菌性髄膜炎であった。 医師は正之兄弟に,「白血球が3 万を超えており重篤です。 治療しても死亡率は20% ,助かったとしても後遺症が必ず残るでしょう」と告知した。 ぐったりした幸子姉妹の腕には点滴が挿入され,顔には酸素マスク……「そこまで悪いのか……」正之兄弟は呆然となる。 HCU 前のソファに座り,常夜灯のみの薄暗い中を,ぽつんと独りで入室の許可を待っていると,涙が込み上げてきた。 「幸子が死んでしまう。もし父子だけになったらどうやっていこう。 幸子を失ったら生きていけない。」 正之兄弟は頭を垂れ,妻を助けてくださるようにと,御父にひたすら祈り求めた。 結婚して9 年,家族の祈る姿を数えきれないほど見てきたが,自分から祈ったのは初めてだった。




翌朝,幸子姉妹は「まったく普通に」目を覚ます。 起き上がろうとするが,抑制帯で縛られ動けない。 「何でこんなものが…… 苦しい」少し混乱したが,すぐに周りをきょろきょろと見渡し,メガネを探した。


これがないと何も見えない。 面会に来た夫の顔を見るや,手話で「メガネ持って来た?」と尋ねたときには,正之兄弟は安堵のあまり絶句したという。 毎朝の医師回診では,ベッドを取り囲んだ医師たちが,その回復ぶりに目を丸くした。 10 日後には外出許可を得て子供の入学式にも出席,2 週間後に退院した。 が,その年の内にさらに3回,同じ病気で入退院を繰り返す。 続いて5 回目の入院では,開頭術も受けるという大変な1 年を過ごすことになる。

そして同年5 月,井上家にとってこの過酷な時期に,正之兄弟は宣教師からレッスンを受け始め,7 月にバプテスマを受ける。
全てのレッスンで手話通訳を行った岡田昌章兄弟は,「何の障害もなくバプテスマを受けられたので,びっくりしました」と振り返る。 「神様が確かに存在すると信じられました。」 力強く証する正之兄弟。 レッスンを受けたきっかけは確かに,神様の力を目の当たりにした幸子姉妹の病気だった。



しかし「バプテスマを受ける前夜,神様に『本当にわたしでいいのですか』と尋ねたら,神様から確かな答えを受けました。」
正之兄弟はバプテスマの門をくぐり,神の息子として新たに生まれた。




12 月になると,何度も肉体的な試練を受けながらも,幸子姉妹の体力は徐々に回復の兆しを見せる。 やがて,病気で小さくなっていた思い─ろう者の将来のビジョンについて語り合ったあのときの熱い思いが,また力強く湧き上がってくるのを感じるようになった。 「急いで進めなければならない!」自分にはやるべきことがある。 突き動かされる思いだった。 開頭術を受ける前日,幸子姉妹はサブストローム兄弟にメールを送り,体調が回復してから再会する約束を取った。



待つのではなく発信する



医師からは「右の脳で起きたこと(髄膜炎)が,左の脳でも起きる可能性がある」と言われている。 しかし,体調は万全でなくても「(自分が)倒れないように,亡くなったろう者の教会員たちが背中を押してくれる」ように感じる。 日本でおそらく150人はいると思われるろう者の会員。 教会に定着できずにお休みになった人も多い。 これまで接してきた彼らとの思い出がよみがえる。 1歳の赤ちゃんを残して亡くなった姉妹,「日本に来る宣教師にMTC(宣教師訓練センター)で手話も教えてくれたらいいのに。」そうぽろっと話して,亡くなっていった兄弟の言葉……そうした言葉がずっと忘れられずにいた。



「ろう者は言いたいことがあっても気軽に言えません。 いつか報われる日が来ることを信じて,堪え忍んでいます。 そういう人たちの声にならない声を代わりに話す使命を強く感じています。」 幸子姉妹は,これまでの経験から,ただ忍耐するだけでなく,具体的に「このような助けが必要」と声に出す必要を実感してきた。


幸子姉妹は,通訳者がいなければ誰かが来るのを待つのではなく,廊下に出て,少しでも手話ができる人を探す。 いなければ口話通訳をしてもらい,手話をまじえながら通訳してもらう。 インスティテュートもこの方法で5 年間学んだ。 独身のときは,週に3,4回神殿に参入した。 字幕も手話もなかったが,儀式の流れだけでも覚えようと回数を重ねた。 神殿ワーカーとしての奉仕もした。 「聴者の皆さんがやっていることを,わたしもやりたかった。 ろう者だから難しいかもしれないけれど,やれば大丈夫だと思います。」 何かチャレンジを受けたときには,具体的にどんな助けが必要かを伝えて,喜んでチャレンジを引き受ける。

「自分できちんと説明する力があればできる」と思っている。 その分,「何を訴えたいのか,自分の中できっちりと理解をして意見を持ち,時間をかけて具体的に説明できるよう準備」をする。


つくばワードに引っ越すと,手話のできる人はごくわずかだった。 「手話で話せる話し相手がもっと欲しい。」 つらい思いの丈を家庭訪問教師の石飛姉妹に伝えると,彼女は手話に興味のある人に声をかけてくれた。 週に4 回の手話クラスを設け,今も週に1回集まっている。 手話通訳できる人はもちろん,友人や理解者も増えた。 「手話を学んだ宣教師たちが,転勤先で手話を通しての奉仕・伝道をしているという話を聞くとうれしいです」と幸子姉妹。



もっと奉仕をしたい,宣教師を助けたい。 黙って待つのではなく,とにかく発信していくという姿勢を貫いている。



「わたしは何度でも叩きます」



健康を取り戻してからの幸子姉妹の働きは,さらに加速する。 2012 年12月に松戸ステーク主催で4 年ぶりの「ろう者の集い」開催,2013 年9 月には福岡で「全国手話交流会」を,2014 年7月と11月には「手話カンファレンス」,2015 年には3 度のカンファレンスを開いた。カンファレンスでは必ず神殿参入を組み入れ,何か月もかけて緻密に準備をする。 2015 年2月には,全国のろう者や手話通訳者との情報交換のため,facebook 上で「LDS 手話・字幕グループin Japan」を立ち上げた。 神殿の手話通訳付きセッションの案内,ろう者の求道者や改宗者についての情報交換も行われる。 昨年は,長年夢見た手話賛美歌の動画配信,総大会の手話通訳もパイロットプロジェクトとして一部実現した。



「『求めよ,そうすれば,与えられるであろう。 捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。』(マタイ7 :7 ) これが一番わたしの想いに近い聖句です。 わたしは何度でも叩きます!」 人や状況を通して,祈りが神様に届いているとの証がある。 考え,祈り,自分から出向き,率直に語り,メールで何度もやり取りをすることで,扉は開いてきた。



IT を専門とする夫の正之兄弟の存在も大きい。 松戸ワード・つくばワード・水戸ワード間で実施されている「オンライン日曜学校」,ステーク大会や聖餐会で,聴者がパソコンに文字を入力し,リアルタイムでもう1 台の表示用パソコン等に出力する「IPトーク」─母語である手話を通して,ろう者が豊かに御霊を感じられるよう,最新の知識と技術で幸子姉妹を力強くサポートする。




12月19日,カンファレンス最後の証会で,横浜ステークの坂井ステーク会長が習いたての手話で証した。 「最後に手話で証をします。」 それだけでろう者と彼らを支援する会員たちは涙ぐみ,会場は静まり返った。 「天のお父様はわたしたちの霊の父です。 イエス・キリストはわたしたちを愛してくださっています。 わたしはそれを知っています。 イエス・キリストの御名によって,アーメン。」 身を乗り出し,食い入るようにその手を見つめる人々の目から,大粒の涙が後から後からこぼれ落ちた。 彼らは皆,御霊を感じて満たされ,力づけられた。
「わたしは,カードやプレゼントなど目に見える物をもらうよりも,手話でその人と話せるようになることが一番うれしいです。」
幸子姉妹はこう打ち明ける。 そんなささやかなろう者の願いを叶えるために,これからも全力で走る覚悟だ。◆




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手話・字幕カンファレンス2015冬の参加者たち。幸子姉妹の右隣が坂井ステーク会長