サハリン(樺太)より引揚帰国して

サハリン(樺太)より引揚帰国して

盛岡地方部 盛岡支部 篠木洋子姉妹

私の父は,昭和14年12月11日,第 二次世界大戦が勃発する2年前 に岩手県盛岡市で生を受けた。 昭和16 年,祖父がサハリン(以下樺太と 称する)の国境警備隊の将校として任ぜら れ,一家は,祖父の妹夫婦に自宅の管理を 依頼し,一家総勢で海を渡り樺太に居住 する事になった。総勢とは,曾祖父母,祖 父母,父…祖母は妊婦だったらしい。

樺太は日本の最北端の北海道より遥か に北方,豪雪に見舞われた寒冷地で冷え 込みも一際厳しい。(その時の生活が写真 で残されている)更に国の領地は 2 分さ れ,南部には日本領,北部にはロシア※ 1 領 となっていた。

これらの実録は昭和 16 年から終戦まで 当時 6 歳に満たない父の記憶に基づいた実話であり父は,現在地元で「戦中,戦後 を語る会」の会員で語り継いでいる。

shinoki.png

時は,昭和 20 年,8月…日本は敗戦の 兆しが見えつつ,それでも父の居住地であ る樺太でも交戦をし続け,敵対するアメリ カ艦隊,加勢するロシア軍からの攻撃を受 け,必死に最後の攻防戦を戦っていた。

祖父は国境警備隊として配属になった ロシア領との境にある日本領は最北端,敷香と言う地で宿舎があり一家で生活して いたが,その間,父の下には昭和 16 年に妹 (長女),17 年に弟(次男),が相次いで誕 生しそして終戦の1週間前の 8 月 8 日に妹 (次女)が産まれ総勢 8 名になっていた。

…当時,5 歳余りの父が記憶に鮮明とし て残る程の惨事がそこにはあった。

昭和20年8月15日,日本は敗戦国となり,樺太に居住していた日本国民は本土へ の帰還を強いられていた。当然,父一家も 日本領に侵入してくるロシア軍からの攻撃 から免れる為に急ぎ軍用トラックにホロを 被せ3日かけて敷香から港のある大泊まで 向かう事になった。もちろん,夜間走行で ライトはつけられない…どうにか大泊へたどり着いものの,道中,調子を崩してた曾祖父が亡くなってしまった。祖父は将校との 責任があり一家を大泊まで送り届けてから 任地であった敷香へ再び戻らなければなら なかった。祖父は,生まれたばかりの子が いては手余し(手が塞がるの意)になるか ら海に投げろと祖母に言った…それを聞い て 5 歳余りの父は,「僕が抱いて帰ります」 と生後10日の妹を抱き軍艦に乗り込んだ。

その軍艦は引揚船としては3隻目で,1 隻目も 2 隻目も海の機雷 = 地雷のようなも のにあたり海に沈められ,3隻目も 42 ㎞ 先にある日本の本土,宗谷岬まで辿り着ける保障ないですよと言われた。それで も迫り来るロシア軍から身を守る手段とし て,軍艦に乗り込み私達一家は,祖父が 将校だった為,地下の客室を用意されてい た。…出港してしばらくするとバーンとい う爆音と共に丸窓のガラスが割れ海流が 流れ込んできた。いわゆる“あたった”の だ,そこで,船の甲板に上がるしかなく階段を登ってみるとデッキにはすごい人が溢 れていて…海に放り投げられる者やロシア 軍は引揚船を追いかけ空中からもミサイル 攻撃※ 2 を放ち,子供を守ろうと丸まったまま貫通してる者,傷を負い血まみれになり ながら助けてくれ~と泣き叫ぶ者,軍艦と 言っても軍医はいない…周囲の方々はまる で自分達の身代わりになるように撃たれバ タバタと倒れ込んでいった,と祖母は振り 返る。そんな中,沈没寸前の船は岬の岸= 砂浜に乗り上げられ,私達一家は,全員無事で本土へ帰還する事が出来た…

祖父は,一家を港に送り届けた後,曾祖父を背負い大泊の山で荼毘してたところ をロシア軍に捕まり 捕虜となった。そも そも祖父は県庁の建築課勤務を経て建設会社を営む1級建築 士で国境警備隊として隊に加わると言う より,1級建築士とし ての技術者として,日 本基地の建物の管理や国境防護壁の修復作業の監督者として 配属になった。だから,捕虜になってもロ シア人は日本の構造建築物に興味があり, 祖父に建物の造り方を聞いて祖父は教え たと言う,だからロシア人は攻めて来ても日本の領地にある建物を破壊しようとせず, 父は言う「敵機来襲!! と言って空を見て いてもいんですよ,爆弾を奴ら落とさないから,ただ地上に着地し銃撃戦でダダダダ ダッと撃たれ,皆亡くなっていった」と…

saharin.png

祖父が曾祖父の形見の品を片手に日本 へ帰還したのは昭和 22 年になっての話で ある。祖母曰く,誰かわからない程,痩せ 細っていたという…また,祖母も自宅は祖父の妹夫婦に管理を依頼してたので,住 まいはあったものの,一家を飢えから守る 為日雇い労働でも何でもやった…父曰く, 「弟にお腹空いた~って泣かれてもどうし てやる事も出来ないもんだよね,食う物が なかったんだから,何年か前に米がないと 騒いだ時があったけど,当時の思い出を考 えたら何でもない事ですよ」と今の思いを 赤裸々に語る。

こうして,私が神様の不思議な愛の力に 守られた家族のもとに誕生する事が出来 た☆※ 3 深い先祖の祈りもあってそれから 70年後に改宗した子孫として私がいる…先 祖の生き抜いた現世での歩みに心から感 謝すると共に私も心して神様からの召しを 全うし現世で歩み寄っていきたい。◆

※1─以下,「ロシア」の表記は全て,当時のソビエト社会主義 共和国連邦(ソ連)のこと。表記は原則として応募作の原文の まま掲載しています(編集室)

※2─これは機銃攻撃のことでしょうか。史実を記録する際は 書き手の責任として,傍証史料を参照するなどの歴史的考証を 行う必要があります。引揚船の名前も分かるといいですね

※3─文章中の約物(☆〜…や句読点などの記号)は,文章内 容や掲載媒体,読者層などを想定して適切な使い方を吟味して ください