信仰生活とは心の変化の連続です

信仰生活とは心の変化の連続です

─元地域七十人,楠目克美長老インタビュー

地域七十人の楠目克美長老は6 年間にわたり,アジア北地域において卓越した奉仕の召しを果たしてこられ,今年4 月の総大会で感謝の解任を受けた。このインタビューではその足跡をたどるとともに,召しを通じて学んだ原則や経験などを伺う。

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「わたしは北海道出身,19 歳のときにバプテスマを受けました。札幌で改宗して東京に出てきて3年,改宗して4年目くらいに3年間ほど教会から足が遠のいていた時期があったんです。長老定員会の会長を解任されたのですが,次の週から3年間くらい。あまり特別な理由があったわけではないんですけれど,だんだん大変になって疲れてきて『今週は休もう』と思ったのが,あっという間に3年経ってしまったという感じですね。

─今から考えると,本当の自分と教会で表現している自分とのギャップがあったのだと思います。期待された通りに演じていたのかもしれませんね。

当時のことで非常に覚えているのは,教会に戻り始めたときに『わたしは教会に来ても握手はしません。心から握手がしたくなったらしますけど』と言ったことです。教会で『いい人』を演じてしまうと,また教会で自分を見失ってしまうことが心配だったからです。それから,本当の意味での信仰生活に入ったような気がします。

本当の意味で,安息日が心から楽しいという状態に戻るのには何年もかかりました。自分はそういう過去がありますから,ちょっと慎重になっている気がします。自分で自分を疑っているところがあると思います。

わたしは,人は少し分かっていると,自分は理解していると思うようになり安心する傾向があると感じています。むしろ今は,自分は分かっていると思ったときこそ危ないのではと思うようにしています。本当の意味で分かっていないからです。」

自分は何も分かっていない

「例えば,これは以前のわたしのことですが,安息日は守らなくてはいけない,知恵の言葉は守らなくてはいけない,責任を果たさなくてはいけない…… 戒めだから,と理解して,信仰生活とはそのことを繰り返すことだと思っていました。戒めを守っていることを示すために教会に行くという感覚があったと思うのです。

では福音はどう教えているのか。『もし人がわたしのもとに来るならば,わたしは彼らに各々の弱さを示そう。……』イエス・キリストのもとに行くこと,すなわち教会に行くことは,主から各々の弱さを示していただくために行くということです。

自分はこう思って生きてきたけれど,実はそうではなくて,むしろ180 度違っていたと気づくことがあります。そういうことを御霊を通して日々経験することが『改心』だと思います。

これもわたしの経験ですが,聖餐会や様々な機会でお話や証をするときに,今日は特に自分でも御霊を感じ,強い力を感じるという証は,だいたいごく最近に得た証である場合が多いです。証とは,御霊を通して真理を得た喜びであり,知らなかったことを発見した喜びだと思います。でも冷静に考えると,とても重要なことは,証を得る前までその真理を自分は知らなかったという事実もまた証明されたことになる,ということです。

要するに,わたしたちは知ることができたことだけをクローズアップすることが多く,知る前までは知らなかったという事実をクローズアップすることはあまりしないということです。すなわち,知る前までは不完全な知識,または間違った理解を頼りに生きていた,または指導をしていた,その可能性をあまり考える事がないかもしれないということです。

証を得る(新たに真理を知る)ことができるたびに,わたしたちが今まで知らなかったという事実と直面することになります。知れば知るほど,知らなかった事実も知ることになる。そのことを常に意識するならば,だんだんと謙遜になってくると思います。

「わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために,人に弱さを与える。……」

もし,地域七十人の召しを通して得られたものは何ですか,という質問があれば,迷わず,『自分は何も分かっていない』ということに気づかされたこと,そう答えると思います。このことは,わたし一人の思いではありません。同じ召しを受けている長老たちと話すときに,皆さん同じことを感じておられると分かります。

わたしたちが,信仰生活にいつも喜びを感じ,感謝にあふれた生活を送れるかどうかは,自分の正しさ,自分の信仰を目に見える形で表したり,自分の教会生活の経験を人に指導したりするために教会に行くのではなくて,自分の弱点を謙遜になって知りに主のもとに(教会へ)行くということを信仰の目で理解しているかどうかにかかっていると思います。」

ご利益宗教と福音の違い

「自分自身の中には,日本の文化的伝統が生きていると感じることがあります。例えば『ご利益宗教的な感覚』というものがあります。神仏に手を合わせさえしたらご利益があるという感覚です。

簡単に言うと,人は良いことをしたらご褒美がもらえる。例えば,教会に行ったり聖典を読んだりお祈りをしたり良いことをしたりすると,自分の目から見て良いことが起こるだろうという感覚です。

日本人が改宗してすぐに多少なりとも経験する過程で,こうした感覚が障害となることがあります。例えば,バプテスマを受け,御霊と喜びを感じて教会に通い始め,責任に召されます。これまで経験のないことをすることになり,信仰を使って頑張り始めます。しかし,なかなか難しく,人間関係で傷つくこともあります。そのときにこう考えるかもしれません。『なぜ,教会に来る努力をし,責任も頑張って良いことをしているのに,いやな思いをすることがあるのだろう?』─最初は,自分自身が至らないからと考えるかもしれません。しかし,しばらくすると『あの人がわたしを傷つけたのが悪い』また,『こんな思いをさせるこの教会が間違っている』と考えて教会に来なくなるかもしれません。

それは,この福音を,ご利益宗教的な価値観に当てはめて考えているからではないでしょうか。人は良いことをしたらすぐにご褒美がもらえるという感覚です。

それは福音の目的と根本的な効用と力,すなわち『贖い』ということがまだ理解できていないことに起因するといえます。わたしたち日本の教会員が一番理解しなくてはいけないことであり,新会員に教えなければならない重要な教義であると感じています。

この救いの教義は,先ほど引用したエテル書第12 章27節から学ぶことができます。『もし人がわたしのもとに来るならば,わたしは彼らに各々の弱さを示そう。』イエス・キリストのもとに行くのは自分の弱さを示していただくためであるということ。自分の弱さを積極的に見たいと思う人はあまりいないと思います。しかし,救いの業,贖いの業はここから始まります。真の祝福を得るためにはまず,主の力を通して自分自身の弱点を知る必要がある。この教義の理解が日本において主の業を速めるための鍵であると感じています。

弱さを強さに─福音のプロセス

『わたしは人を謙遜にするために,人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して,わたしの恵みは十分である。』恵みというのは,人に能力を与える神様の力です。『もし彼らがわたしの前にへりくだり,わたしを信じるならば,そのとき,わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。』これが救いの計画であり贖いです。こうしたプロセスを通して,わたしたちは良い行いを通して祝福を受けます。

毎週教会に真面目に行って責任を果たすこと,毎日聖典を読むこと,祈ること,預言者のチャレンジにこたえること,御霊の導きに従うこと。これらはすべて,自分の弱点と常に向き合うことを自らの意思で選んでいるということです。その理解がとても重要となります。自分の弱点と向き合ったとき,人のせいにするのではなくて自分の未熟さのせいであると認めて謙遜になったときに,わたしたちの努力にイエス様の恵みが加わり,弱さが強さに変えられる。今まで理解できなかったこと,能力として自分ができなかったことが, 霊的な力が加わることで,聖められ,神に近づいていくことでわたしたちが変化し,自分たちの限界を超えて,なるべき人物になることによって,結果的に祝福を受ける。これが救いの計画と贖いの根底にあるものだと思います。」

聖徒に「なる」

「聖なる御霊の導きは,わたしたちができるだけ苦労しないで進める容易な道を教えてくださるものとイメージする場合があります。しかし,モーサヤ書第3 章19 節を読みますと,聖霊はむしろ,わたしたちが昇栄するために負うべきさまざまな課題,試練に導こうとしていることが分かります。わたしたちは,生まれながらの人を捨てて聖徒となることを目指します。

自分だけの考えではなくて,聖なる御霊の勧めに従うことで,自分の弱点と向き合い,謙遜になり,贖いにより聖められて初めて,『聖徒』となります。自分の努力だけで成長した状態を聖徒とは呼びません。生まれながらの者が聖徒となるということは,自分の努力だけで改善するのではなく,贖いの力,霊的な力をいただいて成長することです。末日聖徒イエス・キリスト教会という名称の中の『聖徒』とは,そうした人々の集まりであるということを意味しています。

人は成熟してくると,経験やあらゆる学問を通して失敗しないように自分で考え,理解して,理性的に物事を進めようとする傾向があります。世の中ではそういう態度が正しく,賢い人間であると評価することがあります。しかし,この考え方には大きな問題があります。それは,『自分で理解できることしかできない 』─要するに自分の限界を超えることができないということです。教会員であってもこうした考え方がベースにある場合,福音を道徳的価値観として捉え,自分の考えに合うものだけを受け入れて,ひたすら運用していく。そして自分の価値観に合わないものは無視し,場合によっては非難するようになります。そうして10 年前,20 年前に確立した自分の福音の価値観を基に行動を繰り返していくことになります。」

外見と心,結果と過程

ウークドドルフ管長は昨年秋の総大会説教で,あるワードを紹介した。聖餐会出席率,ホームティーチング達成率は最高,食事会にはすばらしいごちそうが並び,子供たちの行儀はよく,会員が悪口を言い合うことも決してない。ところが3 年後,そのワードで11 組の夫婦が離婚していた。

ウークトドルフ管長は言う。「表面上はあらゆる点で忠実で強いワードに見えていましたが,会員の心と生活の中に残念なことが何か起こっていたのです。」※ 1

「このワードは,外形的には問題がないので,見た目はうまくいっているわけです。ところが夫婦関係という内面的・本質的なものに問題があったようです。

わたしたちも,いいワード/ 支部とは,問題(特に人間関係などの)がなく,表面的に穏やかな状態のユニットであるという考えを持つことがあります。

しかし,実際,救いの業が働いているワード/ 支部では,会員の皆さんが自分自身の弱さと向き合い,問題は沢山あるけれども,信仰を使って,自分自身の弱点を謙遜にとらえて,神聖な力を借りて弱さを強さに変えている─このプロセスのあるワード/ 支部が,一番理想に近い状態だと言えます。そうしたワード/ 支部では,表面的には,チャレンジに直面しているので大変そうに見えることがありますが。

世の中は結果を重要視しますが,福音はその過程が重要であると教えます。福音は課題(わたしたちの弱点)を強めるプロセスにあって,信仰を行使し,聖められる経験をすることを重要視します。福音にとっての結果とは,こうした過程を経ることによって得られる人格(イエス・キリストに近づく)であり,表面的な問題,課題が沈静化したり,単純に解決したりすることではないのです。

ワードや支部を管理する立場では,できるだけ問題が起こらないようにするためにどうしたら良いかと考えることがあります。例えば,いろいろと活動やチャレンジをすると問題が起こるので,できるだけそうした活動をしないように,会員に負担をかけないようにする─しかし,それは人間的な考え方であり,主は,「御霊の勧めに従い,……主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり,とこしえにいつまでも神の敵となるであろう」とおっしゃっています。主はわたしたちにふさわしいチャレンジや経験へと導きます。わたしたちは,自分ではどのように行えば良いのか分からない場合でも,自分には無理かもしれないと思うときでも,信仰を使って前進します。そうするときに,わたしたちは自分たちの弱点と向き合い,謙遜になり,主からの恵みを受けて,わたしたちの弱さは強さに変えられます。指導者や両親の役割は,こうしたプロセスの中で,神様の愛する息子・娘たちが主を思い起こし,主を頼り,贖いの力を受けることができるように,慈愛をもって導くことです。」

自分のことですか

楠目長老は再びウークトドルフ管長の説教※ 1 から話す。「十二使徒の前でイエス様が最後の晩餐で,『あなたがたのうちのひとりが,わたしを裏切ろうとしている』と言ったとき使徒たちは言いました。日本語の聖書にはこう書いてあります。『主よ,まさか,わたしではないでしょう』※ 2 この箇所は,わたしは今まで書かれたまま受け取ってきましたが,実は誤訳であると知りました。英語の欽定訳聖書では「Lord ,Is it I?』─弟子たちは非常に心配して,次々に,『主よ, それはわたしですか?』と問いかけています。彼らは3年間イエス様と行動を共にした結果,『主よ,それはわたしですか』と自分自身を疑ったわけです。十二使徒が,です。一つの例ですが,あるときペテロが主のことを思って言ったら怒られてしまう。『サタンよ,引きさがれ。……あなたは神のことを思わないで,人のことを思っている』※ 3 それくらい彼らの心は打ち砕かれていたことが分かります。『この中に裏切り者がいる』と主に言われたらわたしたちは何と答えるでしょうか。『主よ,それはわたしですか?』それとも,『主よ,わたしじゃないですよね』……わたしたちは聖餐会でも総大会でも,説教を聞いて,『あぁ,それはわたしに言ってるんだな』と思っているでしょうか。それとも,『この話は○○兄弟に聞かせたかった』と思っているでしょうか。」

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再び─自分は何も分かっていない

「例えばイザヤ書第55 章8 − 9 節,この聖句を知っていても,自分にあてはめているかどうかが重要です。もしこれを信じるならば,今自分が考えていること,理解していること,教会や家族,夫婦の中で主張していることは,神様の考えていることとは天と地ほどにかけ離れている可能性があることに気づきます。だから自分を疑わなくてはいけない,信仰を疑うのではなくて。自分自身には神様の助けが必要だということを自覚することです。

わたしが一番重要だと思っていることは,自分は何も分かっていない,または分かってない可能性が高いと自覚することです。それが地域七十人になって最も感じたことです。『楠目長老,贖いを教えてください』と,多分6年前に聞かれても,何一つ言えなかったと思います。今は,自分なりに多少答えることができるようになったと感じていますが,それも実際は怪しいとも思っています。去年の説明と今とでは内容が既に違うことからも分かります。きっと,来年この記事を読んだときは,自分自身恥ずかしい思いをするのではないかと想像しています。今日はこうしていろいろ語っているけれども,福音はもっと深いと思っています。だから,わたしがこの,地域七十人という祝福された経験から皆さんにお伝えしたいことは何かいうと,わたしたちは本当に理解していないことを認めて,一から主の方法で学び直すという勇気と行動が常にない限り,わたしたちは同じところでつまずく人生を繰り返すことになる,ということです。」◆(続く)

※1─ディーター・F・ウークトドルフ「主よ,それはわたしです か」『リアホナ』2014年11月号,57参照

※2─マタイによる福音書26:22; マルコによる福音書14:19も参照

※3─マタイによる福音書16:23