末日聖徒イエスキリスト教会(モルモン教)リアホナ2015年1月号 主に背中を押され,人生の行程を走る

主に背中を押され,人生の行程を走る

─箱根駅伝のアスリートから専任宣教師へ 神戸伝道部 髙橋賢人長老

新春の風物詩として知られる箱根駅伝。毎年,1 月2 日から3 日にかけて行われる,関東地区選出20 大学対抗の駅伝競技会である。東京・大手町から箱根・芦ノ湖までの往復217.1km で10 人の選手がたすきをつなぐ。現在,神戸伝道部で働く専任宣教師の髙橋賢人長老(会津若松支部出身)はかつて,大東文化大学から2008年,2010年の箱根駅伝に出場し,卒業後は実業団の選手としても活躍した。アスリートとしての葛藤や経験を経て,専任宣教師となるまでの軌跡を追った。

「上り」を目指したい

生後まもなく,賢人兄弟は新生児肝炎のため生死の境をさまよった。黄疸の程度を表す数値が正常値の300倍もあり,医師からは「とても助からない。諦めてください」と宣告されたという。家族や会員の祈りと断食により一命をとりとめたものの,3 歳までは「あ~」としかしゃべれず,小学6 年生での垂直跳びは10cm。運動神経が抜群の兄の義人兄弟とよく比較された。

転機は中学3 年のときだった。「おまえの兄は駅伝で活躍したから,多分おまえもやれるだろう」との理由で誘われ,駅伝大会に出場。スポーツは得意ではなかったが一所懸命練習し,市の大会で区間賞を取った。少人数,しかも小差でやっとつかんだ結果だが,少し自分に自信が持てた気がした。さらに先生は,陸上部に進んで箱根駅伝を目指してみないかと勧めるが,賢人兄弟は「興味ないです」と即答する。彼の夢は2歳上の兄の通う高校に入学し,同じチームメンバーとしてバスケットボールで全国大会に行くことだった。しかし,兄の考えは違った。「賢人は体も小さいし,自分と一緒にプレーするとしても1 年しかできない。少しだけでも成績を出せた陸上でチャレンジするのもいいと思うよ。」自分の後を追うのではなく,自分の賜物を見いだして,それを伸ばすようにと勧めた。

高校での陸上の成績は,地区では上位だったものの,県では歯が立たなかった。これで陸上生活も終わりかなと思っていた矢先,部活の先生から「賢人は上りが強いから,箱根駅伝を目指してみないか」と言われる。箱根駅伝は5,000m の自己ベストより速いペースで20 ㎞を完走しなければならない。今の自分には無理だと思った。「上り」とは,小田原から箱根までの上り坂が続く往路の5 区を意味している。標高差864m を駆け上がる23.4 ㎞の最も長い区間で,相当な脚力とスタミナを要求される。大東文化大学は「山の大東」とも呼ばれ,5 区の山上りが得意なチームだ。優勝争いの鍵を握る,大逆転もあり得る大事な区間,そこでの可能性を語ってくれる先生の言葉に,「上りを走ってみたい」という思いが湧き上がってきた。一方で,両親は賛成してくれたものの,伝道をどうするかでずいぶん葛藤した。「大東大に進めば,駅伝に集中しないといけない。寮に入って24 時間管理されるので,休学するわけにもいかない。」伝道は早くても22 歳かな,と思った。

びりから2番目からの出発

賢人兄弟は,チーム54人中びりから2 番目のタイムで入部した。得意なはずの「上り」のタイムも名門校では並以下だった。寮では毎月誕生日の人を酒で祝う慣例があることを知り,賢人兄弟は,自分は教会員なので酒は飲めない,と先輩たちの前で話した。これをきっかけに,いじめや中傷が加速する。「お前は1 年でびりだろう。おれの酒が飲めないのか。飲まないのならこれくらいのことはしろ。」ジュースに酒を入れられたり,頭からビールをかけられたこともあった。日曜日はできる限り教会に行ったが,スーツ姿で出かけていると,私服で遊びに行く先輩からは,「ばかじゃないの。何をやってるんだ,スーツなんか着て。」電車の中でもばかにされた。寮に戻ってからも笑い種。中でも,教会名で色々なサイトを調べての罵倒には耐え難いものがあった。

朝4 時に起きての食事当番や夕食の準備のときには,練習時間を作るのも大変だった。大会に出る選手の練習が優先されるので,練習場所を譲ることもしばしば。どんなに練習をしても勝てない。何で自分はこんなに弱いんだろう。心が砕けそうだった。「おまえが箱根駅伝を走れたら,世界中の皆が走れる。おまえの後ろを走っていると元気が出るよ。」ばかにされる状況が2年間続いた。賢人兄弟は布団をかぶり,隠れて何度も泣いたという。

しかし,賢人兄弟が暗い顔をしていたかというとそうではない。教会や陸上を辞めたいと思ったこともない。「いつも笑っていました。とにかく笑っていた。怒っても何も生まれませんから。先輩,理解してくださいねって。」「自分のやりたいことをやっているんだから,喜びをもってやりなさい。」父からも教わっていた。家族の存在は大きかった。

走っても疲れない体

大学2 年の夏合宿のときだった。練習メニューを軽くこなすことができ,自分の力が一段階上がったと感じた。「自分が健康だと分かるんですよね。知恵の言葉の祝福もあると思います。走っても疲れることのない強い体を持つ,と祝福されてもいましたから。」箱根駅伝予選大会のメンバーに選ばれ,チーム4 位の結果を出した。自分をばかにしていた先輩からは「お前,本当に強くなったな」と言われた。続いて,全日本大学駅伝を走る機会が与えられた。その結果,翌年の箱根駅伝での8 区(平塚~戸塚間の復路)の選手に選ばれた。

2008 年1月3 日,本番当日,緊張で朝から地に足がつかなかった。沿道を埋め尽くす人々,湧き起こる声援,選手を四方八方から取り囲むメディア。家族は友人たちを誘い,バスをチャーターして駆けつけてくれた。飲み込まれそうな雰囲気の中,賢人兄弟は「自分を信じなさい」という父の言葉を思い出し,自分が信じている神様に心を注ぎ出した。朝起きたとき,ウォーミングアップをするとき,走る直前にも心から祈ってから,神様に「行ってきます」という気持ちで試合に臨んだ。良い状態で走り,区間8 位でたすきを渡した。が,次の選手が体調不良で棄権。大東大は40 数年続いたシード権※ 2 を失った。

3 年生になると,もっと強くなりたいという思いが強くなった。しかし,絶好調で1 か月後の予選会に向けて練習量を増やしていた9 月,ばきっという音とともに倒れる。腰椎の骨折だった。本選への参加は断念,涙をのんだ。

まだやれることがある

リベンジを誓った4 年生。「おまえに山上り( 5 区)を走ってもらいたい。」監督に言われ,賢人兄弟は走りに力強さを求めて特訓を重ねてきた。

駅伝を間近に控えた12月10日,学校には多数の報道陣が集まっていた。関心の焦点は「今年の5 区は誰か」ということだ。彼らの前で練習をしているとき,賢人兄弟は左太もも(ハムストリング)に肉離れを起こし,少し走った先で倒れてしまった。マネージャーがタオルで隠し別の場所に運び込んだが,すぐに痙攣が始まり,激痛で脂汗が流れ落ちた。頭が混乱し,何が起きているか分からなかった。

その後,2 週間の安静とできる限りの治療を試みたが,出場は絶望的に思われた。「筋肉が切れているのだから走れない。0.1%走れたとしても,100%後遺症が残る。山上りは特殊区間だから走り切れない。」どのトレーナーも口をそろえて断言した。家族や恩師や友人からは,最後の箱根駅伝だからバスをチャーターして必ず応援に行く,と言われていた。この事実をどう伝えればいいのか。不安と孤独の中,賢人兄弟は兄に電話をする。「いろいろ試してみたけれどだめだった。ごめん,出られない。」─「4 年間を終える最後の最後まで,チームのために悔いのないと言える競技生活を送りなさい。」兄の声を聞き,泣きながらうなずいた。 チームのサポートに回ることを覚悟した数日後,父から電話があった。調子はどうかと問われ,賢人兄弟は言葉を濁した。「まあまあかな。でも皆の調子もいいから,本戦に出られないかもしれない。」「けがをしたことは知っているよ。後ろめたい気持ちを持つことはない。

やれることをやりなさい。」賢人兄弟は父に,これまでの努力と,それでも歩くこともできないことを話した。「まだやれることはあるよ。」父から重ねてこの言葉を聞いたとき,心に怒りが込み上げてくる。「やってるよ。」そう言い放つ息子に,父は優しく諭した。「神様に祈った? それが一番にやることだよ。」賢人兄弟ははっとした。「そうだった。自分は一番大事なことをやっていなかった。」電話を入れると,すぐにワードの神権者が駆けつけてくれた。寮の前に車を止め,その中で癒やしの儀式が行われた。けがをしてから初めて,祈りを通して「大丈夫」という言葉を聞いた。

背中を押されて駆け上った

その2 日後,歩けるようになった賢人兄弟を見て周囲は驚いた。それでもトレーナーは,「もしかしたら走れるかもしれないが,将来のことを考えたら絶対走ってはいけない」と釘を刺す。

しかし,監督は意外な決断を下した。「おれが高橋賢人を箱根の5 区で使う。だから,賢人は脚が折れてでも走れ。」─歴史のある大学で,しかも注目を浴びている山上りの区間。自分の状態と大きすぎるリスクを承知したうえで,監督は全ての責任を引き受けようとしてくれている。なぜそれほどまでの覚悟を─賢人兄弟は不思議に思った。監督は語る。「おれはおまえの信じる道を4 年間見てきた。おれはおまえを信じる。」胸が熱くなった。監督はずっと自分を見てくれていたのだ。もう箱根駅伝本番まで1 週間を切っていた。筋肉も心肺機能も弱くなっている。やれるところまでやろう,と思った。

2010 年1月2日,十分な走り込みのない状態で,ついに夢に見た箱根駅伝,往路5 区の檜舞台に立つ。「髙橋,頑張れ!」の声援が聞こえる。何度も祈ってスタートを切る。

最初は思ったより調子が良かった。が,急な上り坂に差しかかったところで,脚の痙攣が始まった。悪夢がよみがえる─「どうしよう。これからまだ10 ㎞以上もあるのに……」脱水でふらふらになり,虚脱状態であわや棄権かという状態になった。「神様,助けてください!」賢人兄弟は心の中で叫んだ。

すると,後ろからぐいっと押される感覚があった。「後ろから押されて,自分が前に進んで行く感覚をすごく感じて,何だろうこの力,と思いました。」痙攣している足で,しかも,最も険しい864mの標高差を駆け上がっていく。どこを走っているのかも分からない朦朧とした意識状態の中で,その力はゴールまで賢人兄弟を押し続けた。

家族は芦ノ湖のゴールで待っていてくれた。治療に向かう担架で運ばれながら,「よく頑張ったね。」涙を流しながら喜ぶ家族が見えた。タイムは良くなかったものの,「この光景を見て感動した。力をもらった」などの大きな反響があった。文字どおり死力を尽くして,大学4 年間の競技生活は終わった。

謙遜になりなさい

大学卒業後,賢人兄弟はもう少し陸上をやりたいと思った。まだ納得のいくタイムは出せていない。複数の企業からの勧誘があり,賢人兄弟は山形の某製薬会社のユニフォームを着て走る道を選ぶ。「あと2 年だけ陸上をやりたい。伝道は2 年後の24 歳に出る」と家族に伝えた。「何事も引き延ばさない方がいい。」母は息子に警告した。

山形での競技生活はいろいろな面で優遇され,注目もされた。東北大会では3連覇し,区間新記録も出した。個人種目でも優勝。翌年の全日本選手権の切符も手中にあった。一方で,教会に行くには車で片道1 時間かかった。賢人兄弟は次第に教会から足が遠のくとともに,信仰も弱くなっていった。約束の期限はとうに過ぎ,就職して4 年目になろうとしていた。「これからの人生どうするの?」家族の心配する声に,「自分の人生だから自分で決める。」思い上がった息子に父は怒った。「謙遜になりなさい。」賢人兄弟はその言葉に驚き,謙遜について考え始めたという。「謙遜ってどんな意味だと思う?」 と兄と母が尋ねる。 「結構です,って控え目になるということかな……」と賢人兄弟。「違うよ。主の御心を行うことを謙遜っていうんだよ」と返され,胸が痛んだ。「ああ,自分は全然主の御心を行っていない。」いつしか箱根での奇跡も忘れ,慢心していた自分。伝道も引き延ばしてばかりいた。25歳と10か月のときだった。

その頃,結婚してアメリカに住んでいる姉のリベカ姉妹の家族が帰国した。賢人兄弟は心の底にある問いを投げかける。「お姉ちゃんは神様が本当にいると思っているの?」「絶対いるよ。心で感じることができるんだよ。」姉の言葉の強さに驚く。「賢人は心から求めたことがある? 神様は心を見るんだよ。」

振り返ると,走るときは心から祈ったけれど,伝道や将来のことについては心から祈ったことがなかった。賢人兄弟は久しぶりに祈り,聖典を手に取った。教義と聖約第4 章がぱっと開き,聖句が目に飛び込んでくる。「おお,神の務めに出いで立とうとする人々よ,……あなたがたの心と,勢力と,思いと,力を尽くして神に仕えなさい。」強い御霊を感じて鳥肌が立った。それはかつて兄から贈られた聖句だった。

東日本大震災の後,義人兄弟と二人でボランティアに行ったときのことだった。「伝道にでも出ようかな。」軽く口にした言葉に,「そんな気持ちで伝道に出てはいけない。安易な気持ちでは刈り入れをすることはできないし,刈り入れをする宣教師の迷惑になる。冗談でも言うのはやめなさい。」兄から強くたしなめられ,この聖句を示されたのだった。

決意は固まり,大急ぎで申請の手続きを済ませ,大管長会の認可を待った。高橋賢人長老は異例の26 歳3 か月で神戸伝道部に召された。

わたしの望む称賛

伝道に出る直前,母が教えてくれた。「あなたが肝炎で死にかけたとき,お父さんはひざまずいてベッドに手を置いてこう祈ったのよ。『神様,この子を助けてください。この子がいつかあなたの福音を伝える宣教師として奉仕するように,わたしが責任をもって育てますので,どうかこの子を助けてください』って。それであなたは助かったのよ。」髙橋長老の眼から感謝の涙があふれた。どれほど家族に愛され,優しく導かれてきたことだろう。

箱根駅伝を走れたらヒーローになれると思っていた。称賛も受けたが,駅伝を走ったことでたくさん失敗もし,道を見失うこともあった。でも,助けがあって新たなスタートを切れた。「いつか日の栄えの王国に行って,最後まで堪え忍びました,と神様の前で報告できるようになりたい。これがわたしの望む称賛です。」

万事に満面の笑顔で伝道に励む髙橋長老に,主に背中を押され,過酷な「上り」を最後まで力強く駆け上った,あの日の出来事が重なって見えた。◆