リアホナ2015年8月号 子供たちには主の道へ帰る導きがある

子供たちには主の道へ帰る導きがある

─札幌神殿建設現場 クレーンオペレーター 太田雅幸兄弟

2015年 5月15日,午前8 時50 分,風強く曇った寒い朝。札幌神殿建設現場の周りには 200人を超える教会員が集まり一点を注視している。大きな木造コンテナから金色のモロナイ像が姿を見せた。クレーン車のエンジンが唸り,ワイヤーが巻き上げられる。ラッパを掲げたモロナイ像がふわりと立ち上がった。

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会員たちはひととき寒さを忘れて声を上げる。強風に揺れる木々の潮騒のような音の中,現場作業員がロープを引き,風に回転する像を安定させる。風下の神殿北面に向けモロナイ像はゆっくりと水平移動する。回転する 60トンクレーン車の運転台,そのフロントグラスにはお守りのように 1 冊の『リアホナ』大会号が置かれていた。落ち着いた手つきでクレーンを操作するヘルメット姿の男性─札幌神殿建設現場作業員で唯一の教会員,太田雅幸兄弟である。

太田兄弟がモロナイ像の吊り上げを任されたのは決して偶然ではない。強く心に願ったからだ。「人は外の顔かたちを見,主は心を見る」※ 1 その思いは 2000年,福岡神殿モロナイ像設置の映像作品を見たとき太田兄弟に宿った。もちろん当時,札幌神殿という話は影も形もない。ただ彼には信仰があった,必ず札幌に神殿が建つ日が来る,そのときには,末日聖徒のクレーンオペレーターとして,札幌神殿にモロナイ像を吊り上げたい,と。15年の時を経て実った願い─否,この話の原点はさらに,1976年に書かれた 1 枚のカードへとさかのぼる。

太田兄弟は 1968 年生まれ,北海道の釧路で育った。父親は炭坑で働いていた。

「自分が6歳から7歳のときに,宣教師が1年くらいうちに来ていたことがありました。たぶん父親と母親が求道者だったんですね。」太田兄弟が 7 歳のときに両親が離婚する。それまでは誕生日のたびに友達を呼んで祝っていたが,8 歳以降はそれもなくなった。唯一,「宣教師がうちに来てくださってバースデーカードをくれたんです。『マーちゃんおめでとう きょうで8才になったね。よいこととわるいことがもうわかるんだ…がんばれ!』って書いてあって。」

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2度の自殺未遂

両親の離婚後,太田兄弟は父親に引き取られ,5 歳年上の兄と 3 人で暮らし始める。その兄も中学校卒業とともに上京し,5 年生からは父親と二人暮らしになった。炭坑夫の父は家庭に不器用で,積極的に子供の世話をするというタイプではなかった。

「仕事に行っているか,休みのときはパチンコか釣りで家にいることはほとんどなくて。夜になると 500円札が置いてあって,自分でおかずを買いに行ってご飯を作って(独りで食べる)という生活を毎日続けていました。父親はどこかで飲んで帰って来るという感じで。男に育ててもらっているので着るものがいつも同じなんです。下着も取り替えない,靴下も取り替えない,自分じゃそれが分からないんですよ。」

学校ではひどいいじめに遭った。「かばんを捨てられたり,社会の教科書を隠されて,友達から借りた教科書も隠されて,他の友達から借りたのも隠されて……そういう時期がありました。いじめがひどすぎて,5 年生のときに首を吊ったことがあるんです。そのひもが切れてしまって。『ああ,死ねないんだな』と思って。」

6 年生のとき,父親に再婚話が持ち上がった。ほどなくしてクリスマスイブがやって来る。「クリスマスってずっと嫌いだったんですよ。惨めな思いをするんです。(イブの夜が明けると)皆,プレゼントに何買ってもらったとか,そういう話をするんですけど,自分は独りだったんで,ただご飯を食べてテレビを見て,クリスマスとは無縁で。」その晩ふと,再婚話の相手の家に父親が行っているのではないかと思った。12月の釧路は午後 4 時前に日が沈む。7 時頃,すっかり暮れた街の気温は氷点下にまで下がっていた。「その家,長屋だったんですけど,裏手の方に回ったら,子供たちの笑い声と,特に,聞いたことのない父親の笑い声が聞こえてきて。『自分独りで何やってるんだろう,俺何のために生まれたんだろう,何で生きてるんだろうな』って思って。」

太田兄弟の家は海のそばにあった。岩の崖をロープを伝って降りると,いつも遊び場にしていた砂浜がある。「学校に行ってもいじめられる,家では独り。誰にも何も言うことができない。ましてやクリスマスの夜にどうして俺はこんな思いをしなきゃいけないんだ。」そのまま足首くらいまで海に踏み込んだ。北海道の冬の海は死の危険に直結している。「(でも)やっぱり怖くて死ねなくて。そこから自分の何かが壊れて,おかしくなってしまって。一度死んだ思いをしたらもう何も怖くないって感じで,無茶をするようになりました。」

地位と権力を手にして

父親が再婚し,太田兄弟は中学生になった。しかし学校には行かず,友達と遊び回る毎日。中学1年で飲酒,喫煙,中学2年でシンナー遊び……家出をしたり,万引きをしたりと,警察のご厄介になった。「警察に捕まったとき友達はみんな親が迎えに来るんです。で,自分の場合は,お巡りさんが言うんですよ。『お前の親はどうかしてるんじゃないのか。母親に電話したら「わたしは恥ずかしいから行けない。父親が帰って来るまで待ってくれ」って。』そのときに『こんなもんなんだろうな』『もういいな』って思って。もう中学時代は父親とも口をきいていなくて。最後に口をきいたのは中学を卒業して内地に行くときです。『せめてお前が高校でも出ていたら』,『もう遅いだろう,そんなことを言ったって』って。」

小学生のときから自炊した経験を生かして,しばらくは料理人修業をした。横浜の中華街に半年,友人のつてで厚木の寿司屋へ。そこで 3 年の経験を積んで川崎の寿司屋に移る。「もちろんその間も荒れている状態です。横浜でいわゆる愚連隊というグループに入って,厚木に行ったら地元の若者たちに『お前が横浜から来た太田か』ってあっという間に広まっていて。」

川崎の寿司屋で 1 年,客であった暴力団関係者の組織に誘われ店を辞める。その後 1 年半ほどして札幌に戻り,札幌の別の組織で盃を受けた。そこから上部組織の「部屋住み」として修行に出され,この世界では例外的なエリートコースを歩むことになった。札幌に戻ると「若頭」という地元組織でナンバー 2 の地位に就いた。「運転手付きのベンツで,タバコを出せば皆が火をつける,どこに行っても皆が頭を下げる,空港に行くと皆が荷物を取りに来る,そんな感じの世界でした。自分はもう全てが手に入ったと思ったんですよ。」

人一人救えない

組織の関係者に,太田兄弟が本当の姉のように慕っていた「姐さん」がいた。7 歳ほど年上で,釧路の,太田兄弟と同じ中学校の出身だった。

「本当に弟のように可愛がってくれて,いつもご飯を作ってくれたり,子供のときの話をしたら泣いてくださったり,手をつかんで『まさゆき,本当に大変な思いしたんだね』って。俺,家族いたんだ,本当の身内がここにいた,って思ってたんです。」

ところが,その人はやがて自殺してしまう。自殺の前日,一緒にいた太田兄弟にこう漏らしたという。「わたしって何のために生きてるんだろう」─。

「そのとき自分は何も答えることができなかったんです。もう全てが手に入って自由にできると思っていたのが,『人一人救えないんだ』って。『自分が家族のように姉のように慕っていた人に自分は何もできなかった。』そこから何か全てが嫌になって,足を洗うことにしたんです。」

組織を抜けるには,習わしに従って指を詰めなければならない。「カタギにならせてもらいます!」太田兄弟が出刃包丁でまさに指を落とそうとしたそのとき,親分からいきなりグラスが飛んで来る,錐が飛んで来る……「お前はカタギになるんだろう,カタギになる人間に指がなくてどうする! お前が何になろうが俺はお前の家族だし,お前の父親だ」─その言葉を餞に,親分は太田兄弟を送り出してくれたのだった。

もう一度歩むことができます

それが 1993年のことだった。いざカタギになったものの,何をしていいのか分からない。毎日酒を飲んでぶらぶらしながらも,「何のために生きてるんだろう」─その問いかけを深く考え続けていた。

そんな矢先,太田兄弟は札幌の街頭で宣教師に会う。「『ああ,今度会うことがあったら話を聞きます』って逃げたんです。そうしたら翌日の夜,アパートに来たんです。(住所は)教えてないんですよ。」後で聞くと, 彼ら─ロックウッド長老とオールダム長老は,準備の日に断食をして,必ず改宗者を見つける決心をしていたという。そして,この辺を探してみよう,と訪れたのが太田兄弟のアパートだったのだ。

宣教師が来たとき,太田兄弟は酒を飲みタバコを吸っていた。「彼らも怖かったんじゃないですかね。」それでも約束した手前,彼らを部屋に上げて話に耳を傾ける。そのとき宣教師から見せてもらった『モルモン経』の口絵を見て,太田兄弟の記憶が呼び覚まされる。「あれ,これって子供のときに自分のところに来てた?」

太田兄弟はかつて,子供時代の写真,アルバム,卒業写真などの一切を捨てた。

「やくざの盃を交わすと,その人(親分)が親になるから,過去は全部捨てたつもりでした。でもこのバースデーカードだけは,なぜかいつも持ち歩いていて。自分は本当にうれしかったんです,そのカードが。」

宣教師と話すうち,カードに書かれた言葉の意味が分かってきた。「8歳ってそういう意味があったんだ。良いことと悪いことが分かって,バプテスマを受けるのは8歳なんだなって。」

ネッド・L・クリステンセン伝道部会長にバプテスマの面接を受けたとき,太田兄弟はこう尋ねる。「『自分のような人間が,やり直すとか,都合良くそんなことができるんですか?』そうしたら伝道部会長は,『あなたの罪は全て洗い流されました。あなたはもう一度歩むことができます』─そのときは泣きましたね。」

太田兄弟がバプテスマの水をくぐったのは1993年のクリスマス,12月25日であった。

父親の思いを知り,父となる

それから,太田兄弟の生活の全てが音をたてて変わり始めた。神権の祝福を受けたとき,「あなたは帰還宣教師の姉妹と結婚します」と告げられた。改宗した翌年のサマーカンファレンスで,平田美智子姉妹と出会う。「そのときに『この人と俺,結婚するんだな』って勝手に決めつけて,付き合ってくださいって言って。」1年後のクリスマスにプロポーズ,翌 1995年春に結婚する。

長らく音信の途絶えていた父親とも再会した。しかし,ほどなく父親は血を吐いて倒れる。「もう大酒飲みだったので内臓がだめだったんでしょうね。」駆けつけた太田兄弟に医師は,今夜が峠です,と告げる。

「そのとき,『俺は父親に何も伝えてない』って思って,『どうか父親をもう少しだけ長生きさせてください』ってお祈りしたんです。」

─その晩,父親は持ち堪えた。

「父親に,今までのこと本当にありがとうって,『俺は本当にお父さんのこと好きだった』って伝えたら,父親から『俺もお前のことずっと心配してたんだ,ずっと気になっていたんだ』って話してくれて。」

それから1週間ほど後に,太田兄弟の父親は亡くなった。

「父親の部屋に行って遺品を整理していると,写真がいっぱい出てきたんですよ。『あれ? 俺,全て捨てたはずだったのに,子供のときの写真あったんだ,赤ちゃんのときの写真あったんだ。』運動会の記念品とかもです。ずっと取ってあったんですね。そのときに『父親は父親なりの愛情の示し方しかできなかったんだけど,それなりに大切に思ってくれてたんだな』って感じました。

その1か月後に長男が生まれて。昔は家族は持てないんだなって思っていたんです。子供のときから,もう自分の命はいつどうなってもいいと思って無茶してたんです。でも改宗して,父親に感謝を伝えることができて,自分の家族を持てたときにこう思ったんです。自分みたいな寂しい思いを(子供に)絶対にさせたくないって。家にいつも笑い声があって,子供たちにとって大切なときに父親がいる,そういう家庭を持ちたいと思って,今,一所懸命頑張っているんですけど。もちろん学校に行ってなかったので仕事と言っても限られた中でですけど,それでも姉妹に支えられて,子供たちもよく理解してくれたので,今こうして生活することができています。」

クレーン運転士の夢

結婚して間もなく,太田兄弟の生活が安定するようにと,離婚した母方の親戚がクレーン会社の社長を紹介してくれた。

「社長さんが取りあえず免許取ってきて,使いものになるならやってみようって言ってくれて。もちろん給料は見習いみたいなものだったんですけど。免許取るときも大変苦労したけどね。」

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ちなみにクレーン車免許試験の毎回の合格率は 28 〜 30%である。試験科目に法律と電気と動力と力学がある。「そのときに姉妹が力学を教えてくれて。自分は学校に行ってないんで分からないんですよ。何で答えが出るの?って。あまりに理解が遅いから, 教えてられないって姉妹が途中で家を飛び出して,頭を冷やしてきたこともありました。それで免許取れたんです。始めて1か月くらいかな。教習所に通いながら実地取って勉強しながら同時進行で。そのときも(合格率)28% くらいで自分でも信じられなかったんですけど。」

そして 2000 年,福岡神殿モロナイ像設置の映像に出会う。

「札幌神殿のこの仕事したい,って。うちの姉妹も『頑張りましょう。お祈りしていればできるわよ』って。それからはもう毎日お祈りの日々だったよね。子供たちもよくお祈りしてくれて。自分たちが忘れていても一番下の子供が忘れずにお祈りしてくれたんです。」15 年間,1 日も欠かさずその祈りは続けられた。

2009年10月3日の総大会で,トーマス・S・モンソン大管長は新たな 5 つの神殿建設発表の末尾に「…… Sapporo, Japan」と告げた。太田兄弟は奮い立つ。

2011年 10月22日の鍬入れ式当日,太田兄弟は会場警備を担当していた。「あらゆる努力をしようと思って,鍬入れ式のときに竹中工務店の人が来ていたので,うちはこういう会社で,と上司の名刺を渡して,もしよかったら声かけてください,とか話してたんですけど。」ところが,会社は一向に営業に行ってくれない。「今の会社にいたらできないのかな……。」

かなり以前から,太田兄弟に移籍を打診してきた会社があった。そこは神殿建設工事に参加している。

「分かりました。もし神殿建設に優先的に入れてくださるんだったらお世話になります。」長年勤めた会社を移る決意をした。

以前の会社でも運転していた 60トンクレーン車の担当となる。しかし当初,モロナイ像の吊り上げは 400トンクレーンでする予定だった。「あぁ,無理でも,神殿建設に携われたならそれでいいのかな。」その後,120トンクレーンで,という話になるが,

「あぁ,担当の違う機械だから無理だな。」

けれども,太田兄弟の熱意を知る現地プロジェクトマネージャーの吉村信之兄弟らが声をかけてくれたり,会社の人も「太田さんの乗っている(60トン)クレーンで十分できますよ」と話をしてくれたりした。

実は 1 週間前,モロナイ像設置工事のリハーサルが行われた。そのときは,家族全員が見守る中,太田兄弟が操作した。「本番はないかもしれない」と覚悟はしていた。実際のところ,太田兄弟の操作するクレーンでモロナイ像を吊ることが最終的に決まったのは,本番前日のことだった。

生活のために操縦するのが精いっぱいだったクレーン車。それがいつしか,神殿建設に携わるという目標に変わり,モロナイ像を吊り上げるという夢に結実した。「ビジョンを持つことはかなえられる,お祈りをすればかなえられると本当に確信しました。」

長い道のりの果てにたどり着いた現在の幸福。太田兄弟は自らの半生を振り返り,宣教師に会うたびにこう話すという。「子供たちの目を見て話してね。子供たちは,お父さんお母さんが改宗しなくてもあなたたちのことを忘れないよ。その子たちに時期が来たら必ず主の道へ帰るための導きがあるから,子供たちにも大切なメッセージを伝えてください」と。◆

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※1─サムエル上16:7