リアホナ2014年10月号 安息日のみならず,日常の青少年に教える

安息日のみならず,日常の青少年に教える

─教室の外で青少年に耳を傾ける山下太郎兄弟(松戸ステーク鎌ヶ谷ワード)

山下太郎兄弟は今,鎌ヶ谷ワードで,伝道主任と福音の基礎クラスの教師を兼任している。この日の基礎クラスのレッスンのテーマは「祈り」だ。自己紹介の後,山下兄弟は皆に「人生の目標とする人がいますか」と尋ねる。そして質問を重ねた後,教義と聖約第18 章10 節を紹介する。「(人の価値が)神の目に大いなるものである,ってどういう意味でしょうね。」それまでの楽しい雰囲気から一転して生徒たちの表情が変わった。言葉にならなくとも,聖句に引き込まれ,真剣に考えているのが分かる。「自分の価値をどうしたら知ることができるでしょうか?」

─ここで祈りの話に入る。

山下兄弟は,仕事で耐えられそうもないストレスに圧倒されていたときに,席を外して心の底から祈った経験を分かち合った。祈り終えた瞬間に電話がかかり,そこから祈りの答えを受けた,と証する。

山下兄弟は同じように祈ってみるよう生徒に勧める。「自分は価値のある存在ですか。わたしは神の子なんですか。祈りってこたえられるんですか。そう祈ってみてください。来週,ぜひその経験を分かち合ってください」と結んだ。

基礎クラスでは,伝道調整集会でどんな人が来るか大体分かるので,必要に応じて準備してきたものを調整する。「どんなことを理解したら,今学んでいるレッスンに役立つのだろうか。この原則の中で喜びを感じることができたら,スムーズにレッスンが進むのではないか」など,宣教師のレッスンにつなげられるよう考える。この日のレッスンでは「あなたには価値があるんですよ」と伝える必要があったという。これまでずっと,心を込めて青少年に伝えてきた原則だ。半年前までは青少年を教えていた。基礎クラスも青少年クラスも必要な準備はそれほど変わらない。

いっぱいのコップに教えを注がずコップの中身をじっくりと聴く

4 年前,山下家族は鎌ヶ谷ワードに転入してきた。若い男性会長会顧問に召された山下兄弟は,日曜学校の青少年クラスに毎週出席することにした。「ぼくも若い男性のときに割と悩んだので,まず若い男性と信頼関係を築きたいと思いました。彼らがどういう思いで教会に来て,どういう悩みを抱えているのか分からないと,話のしようがないと思ったんですよね。」やがて中学生・高校生クラスを行き来するうちに,代理教師としてレッスンを依頼されるようにもなった。が,初めの頃はレッスンをするのが難しかったという。

「本当に大変でした。若い子は色々なストレスを抱えているので,レッスンをしようとしても成り立たない。なかなか核心に迫れないんですよね。」 「彼らのコップにはいっぱいいっぱいの水が入っていて,幾ら注いでも周囲にあふれるだけなんです。」本来なら吸収力のある青少年。しかし,両親からの,聖典を読みなさい,教会に行きなさい等の教え,教会での聖餐会や集会での話やレッスン─それらが彼らの中に深く入り込むことはなく,コップからあふれ出ているように思えた。ふて腐れているように見える態度,つまらなさや関心のなさ,疲れをあらわにしている様子からは,「これ以上は無理」のサインを感じた。

「彼らのコップの中に入っている,いっぱいいっぱいのものが何なのか。青少年の思いをくみ取り,理解したいと思いました。本当に彼らに近づきたかった。」山下兄弟は若い男性と個人面接をすることにした。神権会の時間などを使い,じっくりと話を聞くようにした。子供たちの状況によっては,外を散歩しながら,あるいはドライブしながら耳を傾ける。山下兄弟も自分のことを何でもざっくばらんに話した。青少年のときに感じた葛藤,寂しさ,未熟さ,証……。その結果,「彼らは臆さずに話してくれました。自分の人生を素直に語ってくれました。『教会に来ている意味が分からない』と率直に言ってくれました。」彼らの素直で純粋な反応に感動し,心を開いて本心を語ってくれた若い男性の愛を感じた。

教会の中で青少年が発言することの意味

「若い子たちは教会に連れて来られても,教会に来る意味が分からずに葛藤しています。それで,結構悩んでいます。」山下兄弟は青少年の心を代弁する。「彼らが本当に知りたいことは,福音が本当に人生に益をもたらすものかどうか,ということです。しかし,心を許して本音で話せる人が教会にはいない。教会の中で発言できないから,問題の核心に迫るところまで考えられない。だから,聴いてくれる人がいる外の世界へと彼らは流れて行ってしまうんです。」それだけではない。「最近では,自分なりの答えを出して,それで納得しようとする子が増えています。」悶々とした葛藤から逃れるための合理化だ。「彼らは福音を深く掘り下げて考えないで,自分の人生や生き方を自分なりに探ります。そして,福音は確かに良いものだけれど自分には関係のないことだ,教会は3 時間(プログラム)の中(だけ)で過ごせばよいなど,福音とリンクせずに結論づけるのです。」

「青少年は,聖典を読むことや祈りの大切さは表面的には知っています。しかし,それが自分の中の悩み,日々の葛藤,生活にリンクしていかない。ほとんどの青少年は祈りや聖典の勉強の習慣がありません。そして,祈りや聖典の勉強が自分の人生にどんな影響があるかを知らないんです。彼らには聖典を読んで楽しかったとか,実際に祈ってみてそれが助けになったとかいう経験がなかったりします。」青少年は飽きるほど一般論は聞いている。コップにいわゆる一般論を注いだとしても,これまでのように空しくあふれ出るだけだ。葛藤を生じさせるほどの証や信仰や知識を持っているはずの青少年。彼らが真に求めるものに気づき,応えたいと思った。

心の琴線に触れる質問を考える

「レッスンのアウトラインは,あまりがちがちに決めないようにしています。」と山下兄弟。「(青少年の)カリキュラムが変わっても,教えることは基本的には一緒。初めに,教える原則を頭に入れます。もちろん,福音の基本的な教義も念頭に置いて,毎日の祈りや聖典の勉強の中でどう教えるか深く考えます。彼らにはこういう原則が役に立つのではないのか。こういう聞き方,こういう質問なら彼らは具体的に考えられるのではないか。日々思い巡らす中でいろいろ思いつく。宣教師のときと同じですよね。」─伝道中,決まったせりふで話しかけても,伝えたいことを言い終わらないうちにほとんどの人が立ち去ってしまうことを経験した。どうしたら興味を持ってもらえるのか,心の奥にある疑問に働きかけられるのか。

山下兄弟は,人々がどのような疑問や悩みを持っているかを考え,100 個の質問と答えのリストを作った。青少年時代に抱いた疑問やこれまでに求道者から受けた質問も参考にした。「人々に会うとき,この人には何が必要か,どんなメッセージが心に響くのか,祈りながら考えます。」目を合わせて話しかけたその瞬間に,祈りの気持ちで証する内容を決める。例えば,─「わたしは神様が生きておられるのを知って人生に幸せを得ましたので,神様の存在を知っていただきたいと思ってやって来ました。」……自己紹介はその後。求道者から質問を受けると,「実は,答えはここにあるんですよ」と一緒に聖典を開く。

「このようにして一番変わったのは自分自身です。暗記した内容に頼ることなく,聖霊の導きを受けやすくなり,その人に合った話しかけができるようになりました。また,人々の苦しみを察知しやすくなったように思います。」足をとどめ,耳を傾ける人が増えたのは言うまでもない。伝道したほぼ全てのエリアで山下兄弟は,バプテスマに導かれた求道者を教え,足の遠のいていた会員が戻って来る場面に立ち会うことができた。

そのとき学んだことが今の責任につながっている。「どうしたら若い子たちの心の琴線に触れられるような質問や証ができるか,深く思い巡らします。」山下兄弟は若い男性一人一人を思い浮かべ,心に平安と確信を得るまで考え続ける。これが山下兄弟の準備の仕方だ。「祈り」がテーマならば,青少年が祈りたくなる,祈ったら自分も変われるんだ,と感じられるレッスンをとことん考える。青少年が実際に祈ってみて,自分は神の前に価値のある存在なんだ,と気づけるようなレッスンを目指す。

安息日は非日常。日常の福音こそ大切

「実は,彼らにとって安息日の生活は日常ではなく,非日常なんですよね。」山下兄弟によると,聖典から喜びを得る,祈りから答えを受けるという習慣は彼らの普段の生活にはあまりない。だから,平日は日常,安息日は非日常ということになる。「若い男性の会長ができることは限られています。安息日は彼らにとっては非日常なので,そこで全てを教えよう,伝えようと思っても限界があります。安息日の3 時間をどう使うかが大事なんです。例えば,青少年が日常の生活に帰ったときに福音を楽しめる,そんなきっかけとなるレッスン。安息日を終え日常生活に戻った後,そこでも安心して相談ができる間柄です。」非日常と日常をつなぐことが重要だと考えている。彼らが,教会に来て楽しいと感じられるにはどうすればいいか,会長会で話し合う。親たちとの連携も取る。

しかし,とてもレッスンできるような状態でないときもある。「若い子たちは色々なストレスを抱えていて,レッスンをしようとしても成り立たない場合もあって。でも,レッスンが成り立たないって,こっちの都合じゃないですか。」山下兄弟は,若い男性の準備が整わないときには無理をしない。「そういうときは,レッスンでなくても,悩みや不満を聴く時間であってもいいのではないかと考えています。」できればそこに,一つ一つ福音の原則を入れていく。それが結局,一番良いレッスンになったりする。

若い男性のつながりに加わる

鎌ヶ谷ワードに転入して2 年後,山下兄弟は若い男性会長に召された。「どうしたら一人一人を助けられるのだろう,何が助けになるのだろうかと,本当に毎日悩んでいました。会長が若い男性のためにできることは限られていますから。」活動の約束をしていても誰も来ないこともしばしば。「神への務め」の取り組みもなかなか進まない。するべき要素をばらして活動と一緒に行うなど,試行錯誤の連続だった。

若い男性たちを食事に誘うようになったのは会長に召されてからだ。彼らは活動に欠席したとしても,食事とゲームには来てくれる。気分転換のためにカラオケに連れて行ったり,教会を休んだ子を迎えに行ったりもした。他にも,「彼らと友達になるために,いい大人が若い子と同じゲームもやってみたり,ライン ※ 1 ,2でつながったりもしました。若い男性になじもうとして,一所懸命背伸びをしましたよ。」山下兄弟は楽しそうに笑う。背伸びをしても分からないことは若い男性に尋ねる。すると,「なんでこんなのも分からないんだよ」と言いながら丁寧に教えてくれる。それがうれしい。大人から見るとくだらないと思えることが,時に青少年にとって大きな意味があるのだ。

「彼らの日常生活のところでも会いたい。だから,メールやラインで話します。今どきの若い子はすぐに返事が返ってきますよ。」山下兄弟は,個人に対しても,若い男性全体に向けても発信する。「出張先からも,ここでこんなご飯を食べています,と伝えます。」すると,次々とコメントが届く。ラインを通して,活動の連絡,神殿参入の通知,お楽しみの活動についても伝える。行こうか行くまいかと迷っている様子,若い男性の間の活発なやり取りに,山下兄弟の打ち解けたコメントがタイミングよく入る。ラインでも「大好きだ。愛しているよ」と誰はばからずにメッセージを流す。くだけたことも言うが,証も伝える。そこへ,若い男性から伝道の決意の書き込みも入ってくる。「もともとそこにある子供たちのつながりの中に入っていく。ぼくは,そこに入っていない人を誘っていく。青少年をご飯に連れて行ったときにもラインに載せる。そうすると,『いいな,連れてって』とくる。『いいよ』って返す。いいツールですよね。」iPad※ 2 の画面を繰りながら山下兄弟はいとおしそうにメッセージを何度も読み返した。

あるときは深刻な内容もライン上を行き交う。教会を離れると決意した若い男性には,「今までユースを引っ張ってくれたことへの感謝をして,どんな選択をしたとしても君の思いを信じているよ,ずっと信じているから気持ちが変わったらいつでも戻って来ればいいよ,と伝えました。」その彼が,今年ユースカンファレンスを見に来てくれた。今も彼とのつながりを感じている。山下兄弟は若い男性の日常の中に出向いて行って,絶え間なく手を差し伸べ続けている。

真の友になる

「ぼくが若い男性のとき,活発に集っていたのは自分一人でした。」山下兄弟は当時を振り返る。正直寂しかった。「話を聞いてくれる大人,ともに楽しんでくれる存在がいてほしかった。そして,若い男性の時間が本当は楽しい時間,有意義な時間なんだと気づかせてくれる存在が欲しかったです。」何よりも,「自分の居場所と喜びを求めていました。だから単純に,このようにしてほしかった,このような人がいればよかった,と思うことを(今の)若い男性にしています。」山下兄弟は,「若い男性と友達になりたい,いい兄貴になりたい」という思いでこれまで彼らと接してきた。信頼関係を築くためにこちらから近づこうと努めてきた。

しかし,最近はっきりと感じるのは,自分の方が若い男性からはるかに多くを受けてきたということだ。「彼らが成長していく姿を見て喜びを感じるとき,本当にこの責任が好きだなあと思います。一緒に食事をしたりしながら,彼らがじゃれ合ってふざけたり,話をしてくれる時間が祝福です。」部活で来られなかった子が教会に来るようになったり,伝道に行かないと言っていた子が行くようになって,下の子たちを励ましたり誘ったりもする。教会に来る意味や価値が分かって大きく変化したり,青少年同士が助け合ったり,励まし合ったりする。その様子をつぶさに見せてもらった祝福,特権。

若い男性の繊細なまでの純粋さは,自分を映し出す鏡だった。「青少年が教会に来て,居心地が悪いということになれば,それはおそらく,ぼく自身の福音の生き方とか,福音の伝え方とかが,きっと独りよがりな自己満足的なものになっているからだと思います。若い男性が,ぼくの福音の考え方とか,福音に基づいた生き方を見直させてくれました。」また,転入者である山下兄弟は,同世代の人よりも若い男性の友達の方が多い。若い男性の仲間に加えてもらい,友として慕われ,必要とされ,若い男性会長を解任された今も過分な愛を受けている。友と見なされる喜び。もっと彼らに仕えたいという思いが湧き上がってくる。

「救い主は人々を愛し,彼らのために祈り,絶えず奉仕された。一緒にいる機会を見つけ,愛を示された。人々の興味と希望と望みと,彼らの生活に何が起こっているかを御存じであった。」 ※ 3 山下兄弟は青少年との交わりを通して,救い主の思いの一端を知ったのかもしれない。◆