リアホナ2014年3月号 家族の平安を取り戻してくれた試練

家族の平安を取り戻してくれた試練

父の病気が教えてくれたこと─京都ステーク大津ワード 木前 葵 姉妹

「高校に入ってから周りに明るい友達が増えて,中学校のころは真面目に過ごしていたので,遊びたい気持ちが出てきて。膳所の近くのパルコとかマクドナルドで何時間もおしゃべりして帰ったりすることが多かったですね。」京都ステーク大津ワードに集う木前葵姉妹は,自身の「やんちゃ」だったころをそう振り返る。彼女は滋賀県立石山高校の音楽科に通う高校3年生だ。妹の舞姉妹(中3)と母親の恵姉妹,教会員ではない大学教授の父親の利秋さんの4人家族である。

母親に反抗したころ

葵姉妹が中学3年生のころ,父親の利さんに癌が見つかった。「見つかったときには骨転移もあって,発見が遅くてもう治らないと言われていたみたいなんですけれど,父の体調にあまり変化はありませんでした。両親から『癌だけどすぐ治るから気にしなくていいから』と言われて,妹もわたしもそういうものなんだと思っていました。」深刻な病気を抱えていると理解はしたものの,通院で治療しながら仕事をする利秋さんのいつもと変わらない姿に実感は湧かなかった。

やがて葵姉妹は反抗期を迎える。「高校に入る頃からですね。元から父とはそんなに悪い関係ではありませんでした。父は寡黙で,怒ったら怖かったけれど理由を話してくれるんです。理にかなっているので嫌だけれど納得はできる,仕方がないかなと思うんです。(でも)母は『理由はないわよ。でも聞きなさい』というのが多かったので。」葵姉妹の反抗はもっぱら母親の恵姉妹に向けられた。「わたしがとことん口答えをするのもあったんですけれど,お互い頑固なんです。妹や父は聞き流せるタイプなんですけれど,わたしと母は頑固で譲らなかったのでぶつかっていました。正直なところ,こんな母親ならいらない,いない方がましだ,と何度も思いました。」怒鳴り合い,時にはつかみ合いになることもあった。それは教会に対する感情にも影響を与えるようになる。教会員ではない利秋さんとの関係に問題がない分,「教会員の母には反抗心があったので,教会員よりも教会員じゃない人の方が素敵に見えました。それで余計に教会員に対して反発心が大きかったです。」

「ちょうどその頃仲良くしていた教会のお友達が来なくなりました。友達がいなかったり母のことがあったりで,学校の友達の方との信頼関係ができてきて。」葵姉妹の気持ちはどんどん教会から離れていった。恵姉妹に連れられて教会に行っても途中で抜け出し,友達と遊びに出かける。朝,準備が遅れて,「後から一人で行くから」と言ってそのまま休む。そんな日曜日が続くようになった。日常生活でも, 高校1年から2年と日を追って,葵姉妹の羽目を外した行動はエスカレートし,時には家に帰って来ないこともあった。

一方,小康状態を保っているように見えた利秋さんの病状は葵姉妹の反抗と同調するかのように悪化していた。けれども家族の誰もそれに気がつくことはなかった。そして2012年3月23日,葵姉妹は利秋さんの衝撃的な姿を見ることになる。

病気の過酷な進行

利秋さんの病気が見つかった2010年4月当時のことを恵姉妹はこう振り返る。「実を言うと最初の先生は(余命が)半年から3年と言われました。でも『だめだと言われて生存した』という話がネットで見るとあまりにも多いし,夫の父親も同じ癌で骨転移していたんですけれど手術もせずに10年くらいは過ごしていたし,いちばん進行の遅い癌だと言われたので,病気が分かったときも『悲しいけれどこれから10年ね』って勝手に思って楽観視していました。」

しかし利秋さんの病状は進み,2012年には脳に転移する。「2年前の12月まではしんどいと言っても普通だったんです。仕事に行き,わたしたちも何の配慮もせずにいました。でも去年(2013年)の1月の第一安息日に主人から(教会に)電話が来ました。自分の意思に関係なく急に手や足が震え出して止まらないと。」利秋さんはそのまま検査入院をする。「そのときに,脳への転移なのでもたないと言われて。進行が遅いと思い込んでいたのでびっくりしました。」余命は限られていてもその日はまだ先だと皆が思っていた。

「病院は,治療の手立てがないので有意義な時間を自宅で過ごしなさいという方針でした。意味がないから放射線もうちでは当てないと。」恵姉妹はあきらめ切れず,治療をしてくれる病院を大阪に見つけ,利秋さんは大津の病院から転院した。「大阪の病院に行ったら,リスクを説明したうえで患者がやりたいならやりましょうということになりました。」利秋さんの放射線治療の目的は治癒ではなく緩和にあった。そのために,長期(4週間)にわたって弱い線を照射する。大阪の病院は,腫瘍にピンポイントで放射線を照射できる,日本に10台ほどしかない器械があることで知られていた。しかし─「主人の病状には当てはまらなかったんですね。後で聞いたら全脳照射という,どこででもできる放射線治療でした。」その治療の脳へのダメージは,家族はもとより病院側の予想をも上回るものだった。「結局(体が)もたずに悪化して,明日までもつかどうかという切迫した状況になったんです。」

その日,3月23日は祭日で学校は休み,教会では扶助協会の活動があった。いつもは恵姉妹が一人で見舞いに行くのだが,この日は夕方に3人で会いに行くことにした。利秋さんは前日に恵姉妹の介助を受けながら入浴をした。病状は思わしくないとはいえ普段と変わらない様子で会話もし,大きな問題はなかった。しかしいつもの利秋さんに会えると思った3人を待っていたのは,脳腫瘍のため「外せ!外せ!」と叫び暴れてベッドに拘束される,これまでに一度も見たことのない父親の姿だった。

「父はあまりにひどい状況でした。そのときは排尿ができないので直接チューブを着けていたんですが,父がそれを嫌がって暴れるあまり,拘束されるのを目の当たりにしました。」

改心の始まり

「本当に時間がない」と葵姉妹は悟った。そして同時に気づいた。「愛する人を失う悲しみは大きいと思うのに,母はいつでも前向きに父を励まし,父の論文を書く仕事を手伝い,大好きだった仕事を辞めて,いつ何が起きるか分からない父のためにできるだけそばにいるようにして。わたしは,ちょうど(高校の音楽科の)受験時期なので毎朝毎朝,音楽の朝練に行くんですね。6時17分の電車に乗るので,それまでにお弁当を作ってもらわなくてはいけなくて。それをちゃんとこなして,家事も全部やって,妹のことも全部ちゃんとやって,という母が本当にすごいなと思ったんです。わたしは母に感謝することが実はこんなにあったんだなと。」

利秋さんの苦しむ姿を見ることで,すべてのことに懸命に取り組む恵姉妹の強さや愛情を理解した葵姉妹の心に,初めて母親への尊敬の念が芽生えた。「しっかりしようと思いました。3年生になって受験生だしと思って,あまり関係ないかもしれないですけれど思い切って長かった髪を切りました。(そこから)自分で変わったなと思っています。」

葵姉妹は教会に対しても心を和らげていく。「教会にちょっと前向きになっていました。なぜですかね。ひとつ大きかったのは神殿に参入したことですかね。ちょうど夏ごろでsmycの前でした。」

教会のプログラムに支援され

2013年3月に何とか命を取り留めた利秋さんは,大阪の病院から大津の病院に戻り,放射線治療の副作用が落ち着くのを待って4月に退院した。

6月,葵姉妹はステークの神殿団体参入に参加する。東京神殿に入るのは3年ぶりだった。「わたしはいろいろやんちゃばかりしてて,教会的によくないこともあったので神殿に行く気が失せていたんですよ。でも大学の関係で大津に来ていた男の子の助けをもらって,ビショップとお話をして。頑張っていこうと。もう行けるかもしれない,わたしはやることはやったからもう行ってみようと思いました。行ってみたらけっこう楽しくて,神殿でもステークのいろんな人としゃべって。そのときに知り合いの男の子のお兄さんの神殿結婚に立ち合って,神殿結婚に対して『いいなぁ』っていう気持ちを初めて持ちました。それがきっかけでちゃんと教会に行こうかなと。」

「ちょうどその頃,ずっと上がり続けていた父の腫瘍マーカーの数値が何と大幅に下がるということがあり,先祖の方々が

わたしたちのことを見守ってくださっているのかもしれないな,と思いました」と葵姉妹は語る。

葵姉妹の神殿結婚への関心が冷めやらぬころ,今度は青少年のための系図の集会が7月初旬に開かれた。「母から資料をもらって(系図オンラインサイト※2に)打ち込みました。母の方は母から4代,5代まで。父の方は祖父母まで入れました。」

7月7日の断食 証会で,葵姉妹はいちばんに証をした。─3月に父親の暴れる姿を見たときに感じた思い,母親への感謝の気持ち……「いつか父と母に言わなきゃと思っていたんですね。せっかくの機会だし言ってみようかなと思いました。」

「この子が壇上に立ったのにはびっくりしました。」恵姉妹も続いて壇上に立ち, 証をした。二人の証を聞いて,「(元東京神殿会長の)中野(正之)兄弟が『木前姉妹たちは気がついているか分からないけれど,先祖の霊が絶対に助けていると思う』と言われたんです。それまで自覚していませんでしたけど『あぁそうなのか』と思いました」と恵姉妹は振り返る。

「系図は,わたしがやったというよりは母がやってくれて,わたしは打ち込んだだけです」と言う葵姉妹には,系図の入力が家族にどう影響を及ぼしたかは分からない。けれども神殿参入や系図集会が心の変化を続けるのに一役買っていることは何となく感じている。

断食証会での証を聞いた中野兄弟に依頼されて葵姉妹は,smyc神戸セッションの家族歴史の時間に参加者全員の前で証をすることになった。葵姉妹は,母への思いの変化や父親の腫瘍マーカー値の改善,神殿参入での経験を分かち合い,先祖の系図を探求するときに助けと祝福が与えられることを涙ながらに証する。

神殿,系図,証会,smyc。そのどれもが,変わろうとする葵姉妹の後押しをした。

聖文と家庭の平安

4月に家に帰った利秋さんの病状は安定し,その後,恵姉妹の見つけてきた総合医学の治療を受けながら仕事に復帰した。大学教授の利秋さんは職場の仲間の協力によって最小限の仕事で済むように配慮された。恵姉妹は仕事を辞め,秘書のように利秋さんに付き添い仕事を手伝った。「いつも一緒にいて充実していました」と恵姉妹。家族で聖書の輪読もした。「娘たちがセミナリーの読書課題で聖書を読むことになっていたので,あるときわたしが家族みんなに輪読しようと提案したところ,全員が賛同してくれて読み始めました。娘たちが参加を渋っていたときも主人が率先して『読もう』と声をかけ,いちばん熱心に読んでいました。子供たちが数回いない日がありましたが,そういう日は二人で読むようにしていました。楽しみにしていたと思います」と恵姉妹は言う。病状が悪化して自分で読めなくなってからは恵姉妹が利秋さんの分も読んで続けた。葵姉妹もこう話す。「聖典を読むのは面倒なときもありましたが,わたしたちが大きくなって全員が必ずそろうことがなかったので,家族4人で過ごす時間はとても良かったです。」利秋さんはホームティーチングにも出席するようになった。恵姉妹は,教会の周りの人々の助けと祈りによってこの時期を平安に過ごせた,と心から感謝している。

利秋さんに余命の宣告があったのは2013年の9月,亡くなる3か月前だ。「それまでは誰もはっきり言わずにきました。 先生から面と向かって「木前さん,実はもう時間があまり残されていません。最期をどこで迎えたいですか」と言われてすごくショックを受けていました。そのとき主人は初めて泣きました。そしてちょっと落ち込みました。主人も長くないとは思っていても,いつとはあまり考えていなかったようです。考えていなかったのか,考えるのを避けていたのかは分かりません。……主人は教会員ではなかったので,来世の話とか,『待っててね,こちらも準備したら行くからね』という会話ができなかったのは残念ですね。そういう会話ができていたら心の負担を軽くしてあげられたかもしれないですね」と恵姉妹は涙ぐむ。

悲しみを経験することの祝福

2013年12月2日の深夜に呼吸が苦しくなり,利秋さんは救急車で病院へ運ばれた。葵姉妹と舞姉妹に,治療をしたら帰って来るから,と言って恵姉妹と二人で家を出た。それが最後になった。利秋さんはすでに薬が効く段階ではなく,徐々に呼吸量が少なくなり,12月4日の朝,病院で静かに息を引き取った。利秋さんの死を,学校から帰宅した葵姉妹は恵姉妹に聞かされる。「家に帰ったらお母さんから『お父さん亡くなったから』と言われて,『そうなんだ』と思いました。涙が出て泣いたけれど実感はありませんでした。父が 使っていたものを見ると今になって寂しさが湧いてきます。」

「教会のプログラム,そして,母との仲を改善してくれた父の病気にわたしは感謝しています。わたしは父の病気によって恵まれていることに気がつきました。学校の友達でもいろんな友達を見ても,親に反抗的な気持ちを持っている子って多いと思うんです。心のどこかで尊敬しているけれど祝福に気づけている子は少ないなって思うんです。その中で(わたしが)気づけたのは本当に祝福だなと思っています。」

亡くなったお父さんに言いたいことは,と尋ねると─「父はちょっと感じてくれていたと思うんですけれど,もう前みたいに,お母さんに反抗心はないよと直接言いたいですね。それと育ててくれて,働いてくれてありがとうということ。本当に自慢の父でした。」凛とした大きな瞳を少し潤ませながら葵姉妹はそう語った。◆