リアホナ2014年6月号 慈愛のある社会を育む─違いを尊重し受け入れることを学ぶ

慈愛のある社会を育む─違いを尊重し受け入れることを学ぶ

LDSファミリーサービス日本事務局長 臨床心理学博士 下川健一

兄弟わたしたちの文化や固定観念を吟味する

わたしたちの人間関係や社会における慈愛の本質についてすばらしい真理を思い出させてくれる,初等協会の歌があります。「愛のあるところ 神様います。 愛のあるところそこにいたい(原文直訳)」人と人との関係にそのような愛があふれていたとしたら,どうでしょうか。だれもが愛や居場所を必要とし求めていますが,多くの人間関係においてそれらが欠けているようです。本記事では,社会で当然と思われている価値観や行動パターンといったわたしたちの文化が慈愛ある社会を育む妨げとなっていないか,一緒に見ていきたいと思います。また,そのような文化に打ち勝つため,わたしたち一人一人にできる慈愛に根ざした取り組みについて考えてみましょう。

相違点への対処─人間関係に対する世間の見方

現代の社会では,同じ興味や価値観や信条の上に人間関係が築かれることが多くなってきています。共通点があるのは良いことですが,愛ある関係を育むうえで, 違いへの対応方法を見いだしていくことはきわめて重要です。現代の人間関係に関する考え方は個人主義的になってきているので,各人の違いを尊重し,受け入れることを難しくしています。そのような考え方には以下のようなものが含まれます。

(1)人は第一に,別個の独立した個人である。(2)コミュニティー(家族,教会,地域社会など)を形成するためには,個人が関係を結ぶ必要がある。(3)人間関係を築き,それを強めるのは共通の関心事,外見,信条,価値観といった共通点である。(4)人間関係は最終的には,その関係の中で個人の必要と欲求を満たすために存在する。(5)各人の相違点,特に相いれない相違点は,人間関係を弱め,脅かす。1 2 3

世間一般の考え方が入り込んでいないか

このような考え方が広く浸透しているため,わたしたちもそれらから派生した次のような考え方をしていないか振り返ってみましょう。

(a)初対面の人とは,その人について知り,仲間として関係を結ぶまでは何の関係もない。(b)教会員を結ぶのは,同じ宗教的教義や原則や慣習である。(c)家族を結ぶのは,共通の価値観や道徳観や伝統である。(d)集団の決まりごとに従うことは,愛と調和のある人間関係を維持するために必須である。

どの考え方も,共通点つまり「同一性」が,人間関係を築き維持するものとして強調されています。

個人主義が人間関係に入り込むとどうなるか

新しい人との出会い:相手と交流するまで人間関係は存在しないと思い込んでいるため,コミュニティーのメンバーは新しく入って来た人に対しては距離を置いたり,無関心になったりするかもしれません。その人と自分とグループの「相性」にばかり目が行ってしまうかもしれません。そして,共通点を基に「相性が良い」と判断すれば,関係作りを始めるかもしれません。

教会の中で:天の原則をお与えになる御父の御心を求めて行うことよりも,原則や期待される行動パターンに従うことの方を重視してしまうと,個々の状況で各々に最良のものは何かを御存じの生ける神ではなく,抽象的な原則を礼拝しているかもしれません。これは一種のパリサイ主義です。3 4 注意しないと,期待や標準を基に互いを裁くことになりかねません。例えば,行儀の良い子供は「良い子」あるいは模範的な子として褒められ,行儀があまり良くない子は出来の悪い子,問題児と見なされることがあるかもしれないのです。悲しいことに,どちらの場合も,外見的な行動しか見ていないために本人の考えや感情や具体的な状況が見落とされてしまいます。たとえ愛が説かれ,親切な行いがなされていても,愛が感じられないことになってしまうかもしれません。なぜなら,愛ある行為が純粋な愛からではなく,原則の順守のために行われるからです。

家庭の中で:家族の価値観や健全な教えは,現代社会の邪悪でこの世的な影響力から,家族を守る助けとなります。5 多くの親は家庭に愛と一致の精神を育もうと努めますが,そのために共通の価値観や道徳観,伝統に従わせることに執着しすぎると,そこから逸脱した行動を正すことばかりに注意が向いてしまうあまり,家族の一人一人の良さと個性を見落とすことになりかねません。関係を築く有意義な対話の機会も閉ざされてしまうかもしれません。

その他のコミュニティーや人間関係で:一致を脅かすものを避けるため,個人主義的なコミュニティーでは,都合の悪い相違点を無視または過小評価したり,個人の意見を述べるのを控えたり,合意に至らせるために説得をしたり,対立した見方を否定するなどして,争いを避ける傾向があります。1 ひどいケースでは,周りと合わない人が批判や非難の的になったり,疎外されたりすることさえあります。そのように疎外されることはとてもつらいものです。多数派に属する人にとってみても,個人主義的なコミュニティーは多くの人が期待するほど愛にあふれる場所,安心できる場所ではないかもしれません。集団の一員でいるためには,その集団の常識と標準を守り,自分の信念を抑えるという代価が伴います。そのようなコミュニティーでよく見られる人との関わり方は,日本の文化に見られる「本音」と「建前」の使い分けのように,公私の自分を分けることです。つまはじきにされないために,コミュニティーのメンバーは本音で意見を述べることや今までになかったような提案をすること,自分の個性や才能を分かち合うこと,そして特に自分の弱点や欠点を見せることを恐れる傾向があります。端的に言えば, 神から与えられた才能と選択の自由を使って,神と隣人を心から愛し仕えることを, 人への恐れや自己愛が阻んでしまうのです。

個人主義的なコミュニティーの皮肉

皮肉なことに,受け入れられるために本当の自分を出さないことは,受け入れられたり愛されていると感じる助けにはあまりなりません。弱さも含めた素顔の自分を見せたら,自分は社会から受け入れられないのではないかと恐れてしまうのです。このような恐れはコミュニティー全体のためにもなりません。皆が理想的な面しか見せないと,そのコミュニティーは,不完全な点も含めてお互いのありのままを分かち合い,受け入れ合う寛容さが限られたものになってしまうかもしれないからです。

キリストを中心とした人間関係

福音で教えられている人間関係は,個人主義的な人間関係とは本質的に異なります。第1に,人の価値は人が作った集団に受け入れられるかどうかで決まるわけではありません。ウークトドルフ管長が教えているように,天の御父は,わたしたちの想像を超える「できる限り最高に清く,全てを包む」6 無限の愛をもって,わたしたちを愛しておられます。

第2に,全人類は神の息子娘であり,兄弟姉妹です。全ての人は初めから既に つながっているのです。7 霊的な意味で言うと,わたしたちは皆,文字通り兄弟姉妹です。この現実に目覚めると,国籍や宗教背景,精神的な疾患やその他の障がいがあっても,経済的な背景やその他どのような違いがあっても,その違いこそが人間関係を豊かにし,わたしたちが成長し愛する器を広げてくれることに気づきます。8 9

第3に,わたしたちを一つにし,人と人との結びつきを強くしてくれるのはキリストのような愛,すなわち慈愛であり,これはいつまでも絶えることがない唯一のものです。10 反対に,人との結びつきを弱くするものは,神や隣人を愛することと調和しない行為や態度です。ですから,一致について教える聖句では,神とお互いを愛することの大切さが繰り返し強調されているのかもしれません。11

本記事で採り上げた事柄の中で,自分自身や自分の人間関係に身に覚えのあることがあれば,一緒にそれを変えていきませんか。わたしたち一人一人にできることがあります。異なるということは障がいではなく,成長の機会として受け入れることができます。少しずつでもいいので,勇気を出してお互いに心を開き合いませんか。受け入れてもらえないと傷ついたり,悲しんだりすることもあるかもしれませんが,それは人との関係が大切であるからこそ避けては通れないのです。天の御父の子供としてのわたしたちの価値は絶対に変わりません。共通性ばかりに目を向けて,「こうあるべきだ。こうあるべきじゃない」というレンズを通してお互いに裁き合うのではなく,裁きは主に委ね,お互いにありのままの自分を見せ合い,受け入れ合おうではありませんか。お互いに誠実さと愛を体現することこそ一人一人の真の成長を促し, 真の一致を現実としてくれます。天の家ではそうやってお互いに関わっていくのですから。「神の前に住む者は長子の教会である。彼らは神の完全と神の恵みを受けたので,彼らが見られているように見,彼らが知られているように知る。」12 ◆