リアホナ2014年1月号 日本人が「救いの業を速める」には

日本人が「救いの業を速める」には

アジア北地域会長会第一顧問 青柳弘一長老

「救いの業」の衛星放送では,十二使徒のL・トム・ペリー長老が心躍るような発表をした。すなわち─

今日のように忙しく,インターネットを通じて人と人とがつながる時代には,伝道方法も変えなければならない。大管長会は宣教師がデジタル機器を通じてインターネットを使用することを承認した。午前中など訪問の成果が上がらない時間帯には,宣教師は集会所に常駐し,電子メールやブログ,フェースブックやツイッターといったSNS等を通じて,求道者との約束のフォローアップをしたり,『わたしの福音を宣の べ伝えなさい』に掲載された原則を教えたりする。今後数か月から1年をかけて,デジタル機器がすべての宣教師の手に渡される。また平日に集会所を開くことで,教会を訪問する人に中を案内することもできる。若人が18歳から伝道に赴き,全世界の宣教師の数が劇的に増加している今日はすばらしい変化の時代だ。

ただ,そうした表面上の変化とは別に,会員に求められていることは, 「すべての会員は宣教師である」とデビッド・O・マッケイ大管長が語った54年前と変わっていない。伝道の目的は,「人々にキリストのもとに来るよう勧める」こと。そのためには会員と宣教師が一致して一緒に働くことである。

またラッセル・M・ネルソン長老は放送の中で語る。この「人々」には活発会員,新会員,あまり活発でない会員,教会員でない人,さらに霊界にいる先祖まで,すべての人が含まれる。伝道も再レスキュー活発化も新会員の定着も,教師が福音を教えるのも神殿・家族歴史活動も,すべて「救いの業」であり,主の業はばらばらに切り離せないものだ,と。

青柳長老は「救いの業」についてこう話し始める。

「 救いの業」の衛星放送が行われたとき,多くの日本の指導者や会員は指示待ちに入ったかもしれません。「このプログラムはいつから始めるのですか,地域会長会から手紙が出ますか?」─けれども,十二使徒が宣言したのですからもう始まっているんです。ワードの伝道の鍵はビショップが,ステークの伝道の鍵はステーク会長が持っています。伝道主任にも召しに伴う権能があります。この鍵を回して啓示の扉を開けることが大切です。それをどう具体的に使うのか,「自分に何ができるだろうか」と自分で考え,自分で祈って霊感を受け,自分で決めて自主的に行動しなければなりません。

日本においては,これまで会員伝道というのはあまり進展していません。なぜできないのか,その原因,理由の一つは,わたしたちが福音を受け身として捉えていること,この日本人独特の文化が背景にあるのではないかと感じます。

衛星放送でペリー長老は,だれに言われてでもなく,飛行機の中で隣に座った人にいつも福音を紹介している兄弟について紹介し,いつ,どこにいても神の証人になるというバプテスマの聖約を守るのに割り当てを受ける必要はなく「割り当てを待つべきではありません」と語っている。

受け身・指示待ちから自由意志へ

Agencyという言葉があります。かつては「自由意志」,今は(free willと区別して)「選択の自由」と訳されています。教義と聖約58章26−29節を読むと,Agencyとは選ぶ自由だけではないと分かります。自分で考えて自ら選び,自分から進んで善いことを行うことです。この,自発的に率先して行うということがわたしたち日本人は割と苦手ですね。日本の学校教育や文化の中ではむしろ,他の人と同じようにやっていればいいという同調圧力が常に働いているようにも思えます。

ところが,回復されたキリストの教えの根本には自由意志というものがあります。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。」※2 自由意志によって自ら選び自分で行動する,そこに救いの道が開かれるという教えです。

受け身ではなく,自分で考え,自分で祈り,自分で霊感を受けたことに従って決心し行動すると,そこに大きな喜びが生まれます。自分の自由意志を使って自分でするところに神様の祝福がある。これが律法であり,喜びが得られる一つの方式,定められた原則だと思います。

指示されると,わたしたちは頑張るんです。例えば地域会長会からホームティーチングを10 0%やりましょうとか,会員伝道を頑張りましょうとかいった指示が出ると一生懸命それをします。ところが一時的に頑張るけれども,皆,疲れてきて長続きしないんです。その原因は,皆が受け身であって,指示されたから行う,義務感と責任感だけで行うところにあります。こうした日本人独特の文化的影響を変えていく,福音の文化に真の改心,真の改宗をしていくことが求められています。

隣人との間の壁を越えて

もう一つ,わたしたちはキリスト教のバックグラウンドがないために,人を愛する,人のために自分が働くということの理解が十分でないのかなと思います。自分のこと,自分の救いだけを考えている傾向があります。他のことに忙しすぎるのかもしれません。結局,伝道や再活発化,レスキューということが声高に言われても,それは自分の救いとはあまり関係がないと思われているのかもしれません。「わたし から祝福 を 受けたい と 思う 者は 皆,その 祝福の ため に 定められた 律法と その 条件 に 従わなければ ならない。」※3 戒めを守れば祝福を受けるということは日本の聖徒の皆さんはよく理解しています。自分で戒めを守って,自分で聖典を読んで,自分できちんとやるというのはある意味でわりと楽なんですね。

ところが他の人のことを考えると,非常にこれは取り組みにくい。人は皆,不完全ですし,一人一人考え方も違いますし,人のことを考えるには何倍も大きなエネルギーが必要です。他の人は自分ではコントロールできない。そこの部分が,わたしたちがまだ隣人に十分,手を差し伸べられない理由ではないかなと思います。

自分のことはよくできる。ただ,人のために何かをするときには自分の力だけでは十分にできない。その簡単でない,自分の力でコントロールできない部分を,主の力を受けてやろうとするところにわたしたちの信仰が現れると思います。このことが,伝道や,教会から足の遠のいている会員のレスキュー,家族歴史で亡くなった人を見つける……そういった働きに生きてくるのではないでしょうか。

人を愛して招く

青柳長老がアメリカの教会を訪問すると,よく会員の家庭に招かれるという。そこでは日本の「おもてなし」のようにごちそうが出てくるわけではなく,普段その家族が食べているものが分かち合われる。青柳長老が家を褒めると,「あなたはわたしの兄弟だから,この家はあなたの家でもあります。いつでも泊まりに来てください」と言われるという。

昔,西部の開拓者時代には,苦労して旅をしてくる人を皆,そんなふうにもてなしたんだろうなと思いました。分かち合うというのが身に付いている気がしますね。キリスト教の伝統文化の中にそういうものがあって,それはキリストの贖いの犠牲から来ています。そしてキリストの理念の根本は人を愛することにあります。人を愛する,人を助ける,人を救いに招く,こういう思いは(キリストの)愛から出て来るんだろうなと思います。

(日本人も,)皆さん人に親切にはできるんですけれど,もう一歩踏み込んで,人を招くということが必要なのかなという気がしますね。そして,招くに当たっては自分の力ではなくて主の力を信頼する。主の助けを借りて招くという,この部分が非常に大事で,そこに信仰が求められるのではないかと思います。

救いの業─喜びの生まれる場所

完全な愛はすべての恐れを取り除くという聖文があります。わたしたちが人を愛するとき,恐れが取り除かれて行動に移すことができます。さらに突き詰めて言うと,主の力をもっともっと信頼して,自分のことだけではなくて人のために主に頼ることが必要だろうと思います。そのとき,そこに主の力が加わるという,大きな喜びが得られるんですね。わたしたちは自分の救いのために,また人の救いのために自分で考え,主に頼って霊感を受け,

自分で選んで自分で決心して行う,というこの部分をもっと伸ばしていく必要があると思います。

そこに,(人の能力を強めるという)キリストの贖いの効力を自分で体験していく喜びがあります。それから自分自身で決意して行っていくとき,そこに喜びを感じますね。その喜びの理由は主の助けがあるからです。主の助けは,求めなければ得られない,受け身では得られない喜び,祝福だと思いますね。

将来,日本の教会が大きく発展するとアイリング管長は預言されました。※4 それが成就するのは,会員たちがほんとうに福音の喜びを感じているときだろうと思います。わたしたちの家族の中に良い夫婦の関係があり,愛し合い助け合い頑張っている親子の関係があり,そうした福音の喜びが外側に発散されるとき,「わたしにもあなたの教会の福音を教えてください」と世の人々が言ってくるのではないかと想像しています。◆