リアホナ2014年1月号 この町に末日聖徒㉒ 人生というレースの伴走者を得て

この町に末日聖徒㉒  人生というレースの伴走者を得て

─元全日本自転車ロードレースチャンピオン 森幸春兄弟

森 幸春氏のもとへ,徳永悦世姉妹が「自転車の走り方を教えてほしい」と言ってきたのは5年ほど前のことだった。「そのころ彼女はトライアスロンをやっていて……トライアスロンの自転車はちょっと特殊で,(乗りこなすのが)非常に難しいんですよ。」

自転車と駆け抜けた人生

森 幸春兄弟は,自転車ロードレースの競技者として常に高みを目指してきた。1967年,高校1年のときに初めて,国体のロードレースに出場,150キロを走り抜いて80余名中24位。「雨だったんですよね,走っていてみんな脱落していくんです。ゴールしたら歩くこともできないです,もう寒い中を150キロですから。」ゴール地点の小学校の小さなプールにお湯が張ってあり,そこにそのまま飛び込んだくらいであった。それだけ大変な思いをして走りながらも自転車が大好きだった。

その後も自転車一筋の人生を歩む。高校卒業後,日本でトップクラスの吉田さんという実業団の選手と一緒にトレーニングを積んだ。「一緒に走らせてもらったら,いやあ,オートバイと一緒に走ってるような感覚なんですね。」吉田選手は平坦路を時速40キロほどのスピードで走る。世界レベルのレースでは,下り坂で時速100キロ近く出ることもある。

ロードレースで勝負するには,まず第1に速く走れなければならない,次にそのスピードを長く維持できなければならない,と骨身に沁みて知った。

19 70年の国体には吉田選手と一緒に出場した。作戦の立て方も分からないので, 吉田選手をマークすることにする。「吉田さんは優勝候補ですから,ついて行けば,必然的にいいところへ行けるんじゃないかと。」すると案の定,吉田選手は登りでスパートをかけ,5人ほどの先頭集団となった。森兄弟もその1人である。「見ると,過去に優勝経験のある,雑誌で見たことのあるような選手ばかりなんですよ。こんな人たちとわたし走っていいのかなあ,と。」自転車競技では,先頭を走る選手がいちばん空気抵抗が大きい。2番手の選手は同じスピードで走るのに先頭の8割ほどの力で済むという。そのため集団では定期的に先頭を交代しながら走ることになる。「周りの選手にきっと,遅いなこの若造は,って思われてる,こういう有名な選手たちの中で邪魔をしちゃいけない,そう思って一所懸命(先頭を)走ったんです。そしたら,『ちょっと速いぞ,あんまり(ペースを)上げるな』って言われたんですよ。」─驚きながらも,これはいけるかもしれない,と思った。最後まで先頭集団について行って4位でゴールした。

日本のトップクラスの選手と同等の結果を出せたことから,森兄弟は本腰を入れてレースに取り組むことを決意する。吉田選手と同じ自転車メーカーに就職し,実業団チームの一員として走り始めた。そのチームは全日本実業団競技大会で1973年から5年連続の団体優勝を果たすことになる。日本代表にも何度も選ばれ,海外遠征に参加した。

ところが,好成績を収めるとさらに上を目指したくなるのが競技者の性である。個人の競技者として世界レベルのレースに参加したいと願った。しかしサラリーマンの身でそれは許されない。実業団の自転車競技部に籍を置いていては限界がある。森兄弟は仲間たちとともに会社を辞め,ヨーロッパやアメリカでのロードレースに挑んだ。─「こてんぱんにやられました。……世界のプロの選手とわたしたちの差というのは,大人と子供と言ったら大げさですけど,すごい差なんですよね。」それは単に心肺機能や筋力の差だけではなく,150キロから250キロものレースを年間100回走り切る基礎体力の差,それだけのエネルギーを取り入れる消化器の強靭さの差でもあった。元来が狩猟民族の欧米人と農耕民族のアジア人との違いを見せつけられた思いだった。

それでも世界のレベルを肌で知っている経験は強く,森兄弟は1980年の国体優勝,1981年の全日本都道府県対抗ロードレース優勝,1982年の全日本選手権ロードレース優勝をはじめ,伝説的な多数の優勝を獲得する。海外においても1983年シクロクロス(オフロードレース)世界選手権47位など,80年代から90年代にかけてほぼ毎年,海外遠征を続ける。1990年,初めて日本で世界選手権が開催されたときは,主催国としてロードレースのプロの数が足りないという日本自転車競技連盟からの要請で,森兄弟を含む日本のトップクラスの選手がプロに転向した。

現在の森兄弟は,競技者としては引退し,ロードバイク専門の自転車店を営みながら,走り方のセミナーなどで後進の指導に当たっている。

不思議な生徒

当時,教会を知らなかった森兄弟に自転車の教えを乞いに来た悦世姉妹は,ほかのお客さんとは当初からどこか毛色が違っていた。冒頭に触れたように,特殊なトライアスロン用の自転車ではなく,安全なロードバイクから練習を始めるよう勧める森兄弟に,悦世姉妹は「最初から慣れておきたいので」と譲らない。「それは転んで怪我をする確率も高いし,自分の指導の考え方と違うから,トライアスロン専門の人に習ってください」と断ろうとすると,「転んだっていいから,( 責任を問うとか)そんなことは絶対にないので」と言う。それだけ熱意があるなら,と森兄弟は指導を引き受けた。

車に自転車を積み,危険のない所まで行って練習する。見ると,走る前に悦世姉妹は黙ってお祈りをしている。「何かな?と思ったんです。そのころは(何をしているか)分からなかったんですよ。何回かそういった講習を依頼されて一緒に走っていて,ちょっと聞いたんです。(すると)『わたしは教会に行っているんですよ。』あぁそうですか,と。」

練習中,急な下り坂に差しかかったとき,森兄弟は警告した。「ここは道に溝があって危ないから気をつけて走ってください,左側を走っていないと転倒したときすごい怪我になるから。」─果たせるかな,悦世姉妹はそこで転倒してしまう。すわ,大怪我か!と思った。「もう,わたしは責任を取って, (教える)仕事ができなくなるかもしれないな,と思うくらい,(スピードが出ていて)一回転したんです。……そうしたら『転んじゃいました』って。いや,考えられない,ちょっと擦り傷ができただけで,応急処置も必要ないくらいの怪我だったんですよ。(後に彼女は)『わたしは守られていますから』って言って。

こんなことはわたしの長い自転車人生で一度もない。柔道家で受け身をしていたとかであれば可能性もありますけど。『そんなことないですよ,( 子供のころから)病弱だったので運動もしてなかったんです。運動することは体にいいし,やっとできるようになったんです。トライアスロンも最初,泳げもしないし走れもしなかったんだけど,何とかできたんですよ。』彼女の話を聞いていくと不思議なことがすごく多いんです。『わたしは神様に守られていますし,そういうものなんですよ』って。じゃあ教会ってどんな所なのかなぁ,行ってみようかな,と思ったんです。」

悦世姉妹は森兄弟に,最寄りの鎌倉ワードへ行くよう勧めて,宣教師に連絡を取ってくれた。「『強制はないですから,行ってみて合わなければそれでもいいんですよ。行ったら(ずっと)行かなきゃいけないとか全然ないですから』って姉妹に言われて。宣教師に鎌倉駅まで来てもらって教会に行ったんです。まぁわたしも(競技者として)たばこもお酒もやらないので,( 戒めは)いいことだな,でもなぜこうなんだろう,ということも含めて,話を聞いていくと内容が深いんですね。教会に行くと,何かこう落ち着くんですよ。また宣教師がいい人たちなので。今時あの年齢で,純粋に人のために行動している,というのを感じたんです。」

宣教師が教える数々の戒めを森兄弟は,「えぇ大丈夫ですよ,大丈夫……」と受け入れていく。ただ一つ,安息日の問題が残った。森兄弟の自転車店は量販店と違い,ある程度経験を積んだお客さんと対話やカウンセリングをしながら,非常に繊細な調整を経てその人に最適な自転車をオーダーメイドで組み上げていくものだ。森兄弟独自の情報と一緒に自転車を売る店なので,顧客とのコミュニケーションの機会は重要だった。日曜日の店舗は一応,休みとしていたが,その日はお客さんと一緒に走ってアドバイスしたり,イベントに出たりセミナーを開催したりする日に当てていた。

「問題はチャンス」─発想の転換

「でも方法はあるんじゃないですか?」

一緒に自転車で走っていたとき悦世姉妹は,躊躇している森兄弟にあっさりと言う。─「教会に関しては,できることをすればいいので,100%できないと(教会に)来るなってことではないから,まずは考えているよりやってみたら,と。福音は,ただ単純にこうしなさい,じゃなくて,そういう発想の転換,脳を柔らかくすることも含めときは,そこから何かを得るチャンスだから。毎日が大変なら,それだけ頭と身体を使って学ぶ機会が与えられてありがたいですね』って。考えが全部前向きなんですよ。」目から鱗が落ちる思いだった。

2009年12月,森兄弟は鎌倉ワードでバプテスマを受ける。「毎週教会に行くようになって,ま,商売的には厳しいこともあるんですけど,(もともと)日曜日はお休みになっているのでお客さん(の側)も何てことはないんですよ。」案ずるより産むが易しで,一つクリアすると次へ向かうのが競技者の心理である。「自転車レースじゃないですけど,よーし,次の目標は神殿参入!(笑)。」改宗1年後にはその言葉どおり東京神殿に参入した。

人生のコーチ

華々しい経歴を持つ森兄弟に,自転車レースの世界を知る者はだれもが敬意を払う。森兄弟のアドバイスに対して,でも自分はこうしたい,と主張する人は悦世姉妹のほかに皆無だった。「ただ,(彼女の)言っていることは走り方でも何でも正しいんですよ。的確なんです。ランニングやっても筋がいい,もっと早く(素質が)分かったら日本代表になれたかもしれない。水泳でも,泳げなかったのが(今や)トライアスロンで泳いでいるわけですから。すごい,って言うと,『いや,わたしの力じゃないんだ』と。『(主に力を)与えてもらっているから,できないことはない,それに向かって一所懸命やるだけで,後は考える必要はないんだ』と言うんです。」

森兄弟と悦世姉妹はしばしば意見が食い違う。「でもよくよく聞くと,なるほど,そういうことか,その考え方は分かる。センスはいいね,って言ったんです。すると『良かったですね,言うこと聞かない(タイプの)生徒がいて(教え方の)勉強になりましたね』って(笑)。確かに,同じことをやっていたら10年たっても同じですから。」

ある意味で頑固で,自分の考え方に一途でないとトップクラスの競技者にはなれない。現役時代,その温厚かつ慎重・堅実な性格を反映した走りで,マークして一緒に走ると安心だ,とライバルたちにも信頼されてきた森兄弟。それでも,いや,それだからこそ, 伝説のアスリートに対して率直にアドバイスしてくれる人はいない。

「だって日本一になった森さんに,その態度は良くないよ,とかそんなこと言えないでしょ。」言いにくいことでも直言してくれる悦世姉妹は貴重な存在だった。

「お客さん本人にとっていちばん良いものを,というつもりで店をやってきたけど,まだまだだな,姉妹からそれをいちばん教わりました。もっと柔軟にお客さんに接するようになれたかな。」

そして今,悦世姉妹は森兄弟の伴侶として人生というレースを互いに伴走している。森兄弟が自転車のコーチなら,悦世姉妹は人生のコーチである。◆