自分の意志で,考え,霊感を受け,決めて,行う

自分の意志で,考え,霊感を受け,決めて,行う

アジア北地域会長会第一顧問 青柳弘一長老

教会員へ(福音を教えること),新会員へ(改宗者の定着),教会を知らない人へ(会員伝道活動),教会から足が遠のいている人へ(レスキュー),霊界にいる先祖へ(神殿・家族歴史活動)─預言者は,様々な人への 「救いの業」に携わるよう会員に勧告していますが,行うことはただ一つ,「すべての人々を,イエスのもとに来て救われるよう『招く』こと」※1です。1月号に続き,日本において,この「救いの業」のもたらす祝福と喜びを,七十人の青柳弘一長老に語っていただきました。(編集室)

今 までの日本の教会の歩みを見てきますと,教会の使命─今は「救いの業」(Work of Salvation)という言い方に変わっていますけれど─である伝道やレスキュー(再活発化)を一所懸命やっても,かたや目に見えないところで,夫婦が離婚したり,親子の問題が生じたり,子供たちが教会から遠ざかったりといった現象が起こってきました。それは,福音に受け身になっていて,指導者から指示されたことには熱心に取り組むものの,福音の本質である「自分と家族の昇栄」への理解が十分でなく,わたしたちの焦点がずれていたからではないか,という気がします。

救いは個人の事柄であり,昇栄は家族の事柄である,と十二使徒は語っています。基本的に,救いはわたしたち自身の意志と責任とキリストの贖いでつかみ取っていくものです。自由意志(Agency)の原則により,家族が自分たち自身で昇栄すると決意しなければ家族の昇栄はありえない。

そこにこの福音の大きな原則があり,また力があると思います。自分自身でこの福音に取り組み,自分で自分を救い,自分で自分の家族を救う。この教義の本質を夫婦も親子もよく理解することが,今,必要だと感じます。

さらに,預言者ジョセフ・スミスの言葉を借りると「自分の救いだけでなく,人の救いもわたしたちの責任である」という部分に,もっと深い理解の光を当てていく必要があるだろうと思います。「救いの業」の衛星放送でバラード長老が言われました。わたしたちの究極の責任の一つは人に福音を伝えることである,と。人を救うために働くと,同時に自分自身が救われる,それが「救いの業」─愛の働きだろうと思いますね。

前例主義,形式主義の文化

すべての人ではありませんけれど,特にわたしたち1世,改宗者にとっては,日本社会の文化が生活の中で大きな影響力を持っていると思います。わたしがこの七十人の召しを受けて以来,心にいたく感じているのは,わたしもその一人ですが,やはり教義を十分理解していないということです。なぜならキリスト教の文化(的な背景)がないからです。福音の本質そのものを見ないで形(フォーム)だけ見ているところがあるような気がします。

例えば,家族は大切だということをわたしたちは何十年も聞いてきました。家族の中心は夫婦です。でも夫婦が,どれだけ自分の自由意志を使って夫婦の関係を良くしようと努力しているかと考えると,ほんの一部分しかやっていないのではないかと感じます。これはわたしの経験から言うのですけれど,人のしている良いことを見て自分もやろうと思うとき,受け身になっていると,「物まねの付け焼き刃」になってしまうんですね。子供や家族に対してもそうです。親として,他の親がやっていることと同じことはできるんです。しかし,「昇栄する家族」を作るために,誰もやっていないことに思いを馳せ,そこに自由意志を使うことがよくできないんですね。わたしたちの文化的な性癖といいますか,(自分独自の)発想ができないのです。

人のした前例を見て同様にするというのは形式的なことです。モンソン大管長は先の総大会で,ホームティーチング件数を月末に報告するために形だけ訪問するホームティーチャーについて語りました。※2 愛する担当家族に対してそれ以上に何ができるのか,自分の自由意志によって思いを馳せ,考え,祈り,霊感を受けて行う。これがモンソン大管長の言われているレスキューの本質だろうと思います。しかし,そこまではなかなか行きません。

忙しくて時間がないのも大きな原因だろうと思います。ついつい目の前のことに追われて気持ちが囚われ,形式だけを行うことに躍起になってしまいます。

わたしはここで日本人の文化と言っていますけれど,実は,これは日本だけの問題ではないようです。ある幹部の言葉によれば,世界の人々も皆,同じような問題に直面しているそうです。アメリカ人でも日本人でも,世界中の人は同じような性癖を持っています。わたしたちは福音を十分に理解して,自分の文化を福音の文化に改心するよう努める必要があるのではないでしょうか。

自分に何ができるだろうか─個人の作戦を練る

例えば,リチャード・G・スコット長老は奥さんの愛し方をよく話してくれます。彼が若く(貧しくて),奥さんに何も上げる物がなかったとき,(小さな)ハート型のカードを何百枚か手作りし,その一つ一つに愛の言葉を書いて奥さんにプレゼントしたという話があります。

奥さんが亡くなった後,遺品から自分がかつて贈ったカードが出てきました。彼女がそれをとても大切にしていたことを知ってスコット長老は非常に喜んだのです。

お金がないから妻に高いものを買ってあげられない。じゃあ何か自分にできることがあるだろうか。そして考えて祈り,いわゆる霊感を受けて,スコット長老は方法を考え出したと思うのです。わたしたちの中にそういう発想はなかなかないんですね。

自由意志(Agency)というのは,ものすごく大きな幅を持っているという気がします。「選択の自由」と言うと(Aを選ぶかBを選ぶか)ほんとうに狭い部分の自由意志のように感じますが,何をするにしてもわたしたちは,何でもゼロから自分で考えられる,幅広い自由があるように思います。

最も大切なことについて自分の考えと思いを巡らせる習慣が,わたしたちには十分身に付いていない気がします。それができるようになると,ほんとうの主の御心がもっともっと行えるようになるのではないでしょうか。同じことが伝道にも,あまり活発でない会員のレスキューにも言えるわけです。

自分で求める─Agencyの喜び

昨年8月に来日した,中央若い男性会長会のランドール・L・リッド兄弟は言いました。「わたしたちには神様から与えられた力があります。そしてその力を最大限に発揮するために,自分で考え,祈り,啓示を受け,自分で決心して行ってください。そうすればもっともっと大きな力が集まり,大きなことができます。」昨年3月に来日したタッド・R・カリスター長老は「自分の努力に神の力を足せばこの世のすべての力に勝る」という公式を提示しました。※4

わたしたちに今,最も求められているのは,指示されるまで受け身で待っているのではなく,自分に何ができるかを自分で考え,それを神に祈り求め,御霊・啓示を受けて自分で決めたことを率先して自発的に行う,ということではないでしょうか。自分自身の将来のこと,夫婦・家族のこと,隣人に福音を伝えること,隣人のレスキュー,亡くなった先祖のこと─すべての救いの業にバランスよく,自分で求めて自分で考えて取り組んでいく姿勢が,今,非常に必要とされています。まさに人の救いのために,自ら進んで主の御手の道具となって,主の器として働く,そこに主の力が加わる。

「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。」※5 これは自由意志によって自分で求めるという原則であり律法です。主の御心を求め,啓示によって御心を知るならば,主の力を受けられます。教義と聖約第132章に,前世から定められた祝福の公式というものがあります。この自由意志(Agency)の律法に従うなら,わたしたちは祝福,言い換えれば喜びを十分に受けられると思います。

行動を選ぶ自由を行使する中で個人の啓示を求める

神様はわたしたちに行動する力を与えておられますので,それをもっと生かすためにも,自分で考えて行うことを強調していく必要があります。昨年8月にリッド兄弟が,「教会で今,取り入れられているプログラムの中のほとんどは個人が考え,個人が啓示を受けて始めたものです。セミナリーもそうですし,若い男性,若い女性もそうです」と話されたのを聞いて非常に感動しました。これはすばらしいことです。その自由意志によって行動できる範囲が大きく広がっていることを理解したら,わたしたちはもっともっとすばらしいことを成せるのではないかと思いますね。

責任を受けるときも同じことが言えます。わたしがビショップに召されたとき,最初に手引きを読んで,前任のビショップがしていたことを継続するように努力してきました。しかし,これは受け身的でした。ほんとうは,前のビショップと同じことをするためだけに神様は人を召しているわけではないのです。主は目的があってその人を召されているからです。宣教師にわたしはよく言います。「あなたをこの町に遣わされた神様の御心を熱心に求めなさい。神様はなぜあなたをこの町に遣わしたのか,だれを,あなたを通して導こうとされているのか,神様に尋ねてください」と。この啓示が非常に重要なのです。これはビショップにも,すべての指導者,教師にも当てはまります。神様は,この責任を通してわたしに何をしてほしいのか。神様はわたしたちのことをすべて御存じですから,この啓示を自分で求めて受ける必要があります。

そう考えていくと,教会の福音の中で今,またいつの時代でもいちばん求められているのは,自分で個人の啓示を受けることです。御霊という言い方をしていますが,御霊を受ける大きな喜びを感じることです。それは主を知る力となり,また証となって個人が強められる。そこに行きつくように思います。

「救いの業」で自発的に人の救いに関わるとき,そこに必ず主がおられる,そういうことなんですね。その点で,もっともっとわたしたちは主を信頼し,主を伴侶とし,主とともに歩む必要があると思います。(談)◆