リアホナ2014年8月号 主は,できる限りの祝福を与えようとしておられます

主は,できる限りの祝福を与えようとしておられます

─ 5 月24日大阪,D・トッド・クリストファーソン長老のディボーショナルより

信仰により備えた分だけ祝福される─クリストファーソン姉妹

クリストファーソン姉妹は,夫を亡くしたやもめが預言者エリシャを訪ねてきた話を紹介した。やもめには負債があったが支払う力がなかったため,債主が来て子供を奴隷にしようとしていた。エリシャは,家に何があるのかと彼女に尋ね,「一びんの油のほかは,はしための家には何もありません」と答える彼女にこう命じる。「ほかへ行って,隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。そして内にはいって,あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり,そのすべての器に油をついで,いっぱいになったとき,一つずつそれを取りのけておきなさい。」(列王記下4:3 − 4 )言われたとおりにした彼女は,器に満たされた油で負債を支払い,残りの油で生計を立てることができた。

この話はわたしたち一人一人に応用できる,とクリストファーソン姉妹は語る。「彼女は何も持っていないかわいそうなはしためでした。直面している問題は,彼女の能力よりはるかに大きな問題でした。しかし,彼女は信仰により祝福されました。受けるべき祝福に備えた分だけ,主は祝福を与えられました。彼女が備えた全ての器に,一つ一つ油を満たされたのです。彼女の信仰は偉大で,2 ,3 個ではなく多くの器を借りてきました。もとのびんには少しの油しかないことを知っていましたが,預言者が他の器も油でいっぱいになると語られたので,彼女はその言葉を信じました。天父はわたしたちにもたくさん祝福を準備しておられることを知っています。主は皆さんが直面しているチャレンジを御存じです。主はわたしたちが助けを必要としているときに助けてくださいます。わたしたちが想像するのとはまったく違う方法で助けてくださいます。信仰にふさわしい祝福を与えてくださるのです。」

祝福を受ける準備を─クリストファーソン長老

「わたしは妻からこのやもめの話を聞くのが好きです。」クリストファーソン長老は姉妹の話を繰り返し,この大事な話を覚えておくようにと聖徒たちに語った。「このやもめは信仰をもって器を集めました。わたしたちに準備ができているものを主が与えてくださることを彼女は知っていました。主は,できるだけたくさんの祝福をわたしたちに与えようとしておられます。しかし,主が祝福してくださる力を,わたしたち自らの行動により制限してしまうことがあります。祝福を受ける準備をしなければ,わたしたちは祝福を受けられなくなってしまうのです。」

クリストファーソン長老は,イエス・キリストでさえ生涯において信仰を行使されてきたこと,そして最後に全てを受けられたことを聖徒たちに思い起こさせた。「わたしたちにも同じことが起こります。恵みに恵みが加えられ,より多くの光と知識を受けます。それは,全てが満たされるまでです。……ですから,祝福を受ける準備をするのが遅くなりすぎないようにと願っています。他の人を待つ必要はありません。わたしより先に走っても大丈夫です。主が皆さんを,わたしやモンソン大管長と同じだけ愛しておられるからです。もし皆さんが早めに祝福を受ける準備をするなら,より多くを受けることになります。しかし,憐れみ深い神はわたしたちにまだ準備ができていない分まで祝福を与えようとはされません。わたしたちがそれを受けて何もしなければ,罪に定められてしまうからです。」

戒めが自分たちの自由を制限するものだと思っている多くの会員,特に若い人に向けてクリストファーソン長老は語る。「それは逆です。神様がわたしたちに戒めを与えられたのは,わたしたちが進歩するためです。戒めはわたしたちを高め,より多くの機会と自由を与えてくれます。わたしたちは段階を踏んで神に近づき,やがて神の持っている全てを受けるようになります。はしごの一つ一つの踏み台のように戒めが存在します。ですから,もっと戒めが欲しい,もっと戒めを下さい,という姿勢が大事です。」

聖典は,聖霊が話す言語を教える

現代は,一人一人が聖典を携帯できる祝福された時代である。「これは歴史上初めてのことです。それはおそらく,わたしたちが過去のどの民よりも聖文を必要としているからです」とクリストファーソン長老は語り,毎日聖文を研究する必要があると強調した。「聖典は聖霊が話す言語を教えてくれます。」長老は聖典を研究する人について,教義と聖約18章36節を引用する。「そのために,あなたがたは,わたしの声を聞いたこと,そしてわたしの言葉を知っていることを証できるのである。」

クリストファーソンご夫妻には5 人の子供がいる。毎朝家族で聖典を読んできたが,時には眠ってしまう子供たちもいた。「しかし,これを何年も続けてきたので,わたしの子供たちは聖霊の声を認識できるようになっています。聖典の言葉が彼らにとってよく知られた言葉になっているのです。聖霊が語られるその声と気持ちを理解することができます。聖典は彼らの良き友人です。子供たちは霊的に自立しており,わたしに頼る必要がありません。これは父親として行ってきたことの中で,一番良かったことだと思っています。つまり,聖霊の言語を教えることができた,ということです。」

「光と真理と啓示を受けるというこの約束は,皆さんにも当てはまります。主は,皆さんに教えたいことがあります。皆さんが聖典を学ぶとき,主は個人個人に教えてくださるのです。」ここでクリストファーソン長老は,かつてハワード・W・ハンター大管長が提案された聖典の勉強法について紹介する。それは,毎日何ページ,毎日何章と,読む量を決めるのではなく,時間を決めて毎日読むということだ。「毎日一定の時間で,主が霊感を与えてくださる分を読んでいけばいいのではないでしょうか。ある日は数節しか読まないかもしれません。しかし,深く考えることができます。その場で祈ることもできます。祈っている間に新しい光,理解が注がれるかもしれません。深く考えているときに何か霊感を受けるかもしれません。それを書き留めることができます。何かを書き留めるために祈りを中断しても差し支えない,と主はおっしゃると思います。主はそのことで気分を害されることはありません。むしろ,教えられたことを受け容れ,それを覚えようとしている皆さんの姿を見て喜ばれるに違いないと思うのです。読む時間は多くても少なくても大丈夫です。それについてよく考え,祈ってください。聖典を研究しているときわたしたちは, 霊感を受ける状態にいます。読んでいる内容について,主はさらに深い理解をお与えになるかもしれません。またはその箇所に書かれているのとまったく別のことについて霊感を与えられるかもしれません。霊感を受ける状態にいるので,主がそれを与えてくださるのです。」

この地で栄える=祝福を受けられる

約3 年前,クリストファーソンご夫妻はジンバブエを訪問した。アフリカの中でも特に貧しく,多くの課題を抱えた国だ。ハラレという町で成人会員を対象に集会を行ったとき,笑顔の美しい活気あふれる会員を見た長老の脳裏にモルモン書の言葉が浮かんできたという。「わが子よ,わたしの言葉に耳を傾けなさい。わたしはあなたに誓う。あなたは神の戒めを守るかぎり地に栄えるであろう。」(アルマ36:1)その瞬間,長老が聖霊によって理解したのは,この約束がアメリカ大陸だけではなく,最も貧しい国に住むジンバブエの聖徒たちにも当てはまるということだった。「もし皆さんが神の戒めを守るならば,ここで栄えるでしょう。他の国に行かなくても大丈夫です。」クリストファーソン長老は,自分が宣言した言葉に耳を疑った。それは信じ難い約束だったからだ。「しかし,御霊がわたしに語られたのです。このことは真実で,彼らにはこの約束があるのだと。」

「地に栄えるとは,十分食べる物や着る物がある,健康であるという意味でしょうか」─と長老は聖徒たちに問いかけ,言葉を継ぐ。「それより大切なことは,主の祝福を受けられる状態にあるということです。主の御霊があること,聖霊の賜物があるということです。……これは日本にも当てはまる話です。皆さんは主とつながることができるので,この地で栄えることが可能です。主は皆さんがどこにいるか,皆さんの名前も,詳細まで全て御存じです。主は,皆さんのことを今以上に深く愛することはおできになりません。皆さんが主の戒めを守るならば,この地で栄えることを約束します。」

苦難の時には心を和らげてください

クリストファーソン長老は,聖徒たちが抱える生活上の問題についても心を寄せた。「皆さんが課題を抱えていることを知っています。涙する問題もあると思います。しかし,それは世界中の全ての人が直面する問題なのです。それはこの世の人生の一部です。」苦難に遭うとき,苦々しく思い,心がかたくなになり,神に背く人もいる。そのようなときには主の約束を思い起こすように,と勧めた。

「苦難によってわたしたちの心は神に向くようになります。それはわたしたちを神に近づけるのです。苦難に遭ったときには心を和らげてください。そうすれば神に近づきます。皆さんは神の性質をより深く知ることができるようになります。そしてキリストの贖いを理解するようになります。皆さんには救いの約束も与えられています。それはバプテスマを受けたときに与えられました。神殿に入るならば,昇栄の約束も受けることになります。つまり,神の持っている全てを受けることができるのです。現在どんな苦難に遭っていても,最終的には完全な成功を得る,ということを信じることができます。最高の幸せを得るのです。それを思うと,堪え忍ぶことはもう少し簡単になります。」

さらに長老は,わたしたちが神と再会するときの様子について語った。「将来,皆さんは神を目の当たりにします。そして,その顔を仰ぎ見るときに,それは馴な染じみの顔であることを知ります。なぜなら,現世に来る前に長い間一緒に暮らしてきたからです。その顔を見て驚くことはありません。皆さんは,『ああ,父だ。わたしの父だ』と言います。

また,わたしたちは皆,イエス・キリストに会う日を楽しみにできます。忠実であるならば,再会のときに喜びを得ることができるのです。」◆