リアホナ2013年10月 御霊を知る場所 札幌・仙台

御霊を知る場所 札幌・仙台

竹下心也リアホナスタッフライター  札幌・仙台セッション担当

木曜日─smyc4日目の夜,消灯時間の10時はもう間近。とあるカンパニーの兄弟たちの“振り返りの時間”にて。二段ベッドが立ち並ぶ宿泊棟の一室は喧噪と言ってもいいほどのにぎやかさ。風呂上がりで就寝前の若い男性たちは楽な服装でリラックスしている。

青少年たちと寝食を共にしながら“養育係”“世話人”の役目を果たすカウンセラーの兄弟が「始めるよ~」と声をかける。ベッドから降りて通路の狭いスペースに集まって来る若い男性たちはしかし,一日の終わりの少しく霊的な時間を過ごそうという雰囲気ではない。おもむろに賛美歌がフェードインで始まる。一人,また一人と賛美歌に加わり歌声が大きくしっかりしたものとなっていく。少々若者風,今風のアレンジが効いている。

そして賛美歌が終わり開会の祈りが始まったその瞬間─最後の歌詞を歌い終わり祈りの態勢を作る際に生じる衣擦れの音がやんで一瞬の静寂が訪れ,祈りの最初の一語が発せられたその瞬間─上からあふれんばかりの御霊が降り注ぐ。鳥肌が立った。

これがあの青少年たち? お祈りや証の割り当てから逃げ回る青少年たちなの? その口から出る一つ一つの言葉に重みがあり意味が込められ,御霊の流れは尽きることなく部屋中に満ちている。

ふと気づくと,それはカウンセラーを家長とした家庭の夕べとなっていた。まずは小さなタブレット端末で映像の教材を観る。この4日間の様々な局面で幾度も感動し御霊に感じ入り涙を搾り取られた兄弟がぼそっと一言「涙腺カピカピだよ。」映し出される短い映像教材を皆が食い入るように見つめている。小さな画面なので皆が顔を寄せ合って観なければならない。自然と互いの距離が縮み,ひしめき合う。映像が終わると聖文をひもといてのディスカッションが始まる。「マタイじゃないか。」「モーサヤ書じゃね,モーサヤの3章19節……」心地よい。傍観者として参加させてもらっている者までもがその心地よさのおこぼれにあずかっている。感動するには足もとに落ちたパンくずで十分だった。

自宅に戻った青少年たちが変化と成長を持続するためには,預言者の勧告する,家族で行うべきことを行っていくのが重要,とコーディネーターの兄弟は語る。「家族で祈るとか,聖文を読むとか,家庭の夕べとか。青少年は,このsmycの期間中,朝も祈って夜も祈って毎朝カンパニー,グループごとに聖文学習をしました。教会が何年も言い続けている基本原則がsmycの中に生きていて,それに従うからこそ青少年は,神様の愛を感じて変わることができるのでしょう。」

「青少年たちはどのような条件が満たされたときに変わるのか,その条件を発見・抽出し,smyc後も継続して青少年を見守るヒントとなる情報を親御さんや指導者に提供できれ。」─そんな取材テーマを胸に現場入りしたものの,明確な取材対象があるわけでもなく,どこから手をつけてよいのか暗中模索,五里霧中─4日目の,衝撃を受けたあの瞬間までは,あるかどうかも分からない宝探しをしているようで焦りと不安が募る一方だった。

何らかのプログラムや奇跡によって大きな変化がもたらされる,その瞬間があるはず,と山を張っていたが(もちろんそれもあったが),むしろ,小さなことの積み重ねによってもたらされる青少年の変化に大きな奇跡を見た。

セミナーを担当したある指導者は“御霊友達”を得ることがsmycで青少年が変わる大きな要因だろうと分析する。6日間,御霊を求める仲間と行動,寝食を共にすることは,証を強めたり信仰生活を支えるうえで大きな意義とインパクトを持っている。

札幌・仙台セッションは日本の約半分もの広大な地域から,その地域の端に集まる関係上,最終日のチェックアウト時間に大きな開きが設定されていた。北海道からの参加者はいち早く朝食を取り,他の地域の参加者が部屋の掃除や食事をしている時間に会場を後にする。そのため,金曜日の夕食が文字どおりの“最後の晩餐”となった。

食堂では食事の祝福の祈りの後,仕切った青少年が泣き出し,そのまた隣そのまた隣と泣きが入り,次々に伝染していく。「なんでわたしまで泣かなきゃいけないのよ。」泣き笑いだ。

少しでも長く仲間と一緒にいたい……6日目の朝,起床時刻のはるか前,まだ暗いうちから起き出した青少年たち。互いのTシャツにサインし合う姿が会場のそこかしこで見受けられた。◆