リアホナ2013年10月 2013年度の地域における福祉活動の強化

2013年度の地域における福祉活動の強化

 (地域福祉部)

貧しい人や助けを必要とする人への支援②/2

これまでのところ,わたしたちは,だれもが慰めや支えを必要としていること,神の子供たちの必要は多岐にわたり,その必要は人によって異なっていること,またすべての人が苦しんでいる人を見つけ,支援するという偉大な業に取り組むことができ,また取り組むべきであることを確認しました。この流れから,次に紹介するのは,わたしたちに何ができるか,どのように援助を与えるか,わたしたちの目標は何かという質問です。

わたしたちに何ができるか

もう一度引用しますが,アルマの民はすばらしい模範を示しました。こう書かれています。「また彼らは,各々自分の持っている分に応じて,貧しい者や乏しい者,病気の者,苦しんでいる者に自分の持ち物を分け与えた。」(アルマ1:27)王国を建設する業が前進するように,わたしたちは断食献金を通じてであれ,人道支援,神殿あるいは伝道関連の献金を通じてであれ,惜しみなく教会に献金することができます。

ベニヤミン王は,与えることによって受ける祝福の大切さを確認し,そのことをわたしたちに思い起こさせました。「さて,あなたがたに語ってきたこれらのことのために,すなわち,神の御前を罪なく歩めるよう,日々罪の赦しを続けて受けるために,自分の持っている分に応じて,それぞれ持ち物を貧しい人に分け与えるようにしてほしい。例えば,飢えている人に食べさせ,着る物のない人に着せ,病人を見舞い,各々の入り用に応じて霊的にも物質的にも助けを与えることである。」(モーサヤ4:26)したがって,大きな一歩とは,分かりやすく言えば,わたしたちの持っているものはすべて,貧しい人や助けの必要な人を援助するためにあるということに気づくことです。次の一歩は,周囲の人々の必要に気づき,助けの手を差し伸べるようにという聖霊の促しに従うことによって,もっとキリストのようになろうと努力することです。

大きな違いをもたらす小さなこと

苦しんでいる人を訪問し,ただそばにいて,顔をうずめて泣くことのできる肩を貸し,耳を傾けるだけでも,その人の大きな支えとなることができます。だれかに自分の気持ちを伝え,自分の抱えている問題を話すことによって解決しやすくすることで,その人は力を得,心の内に働きかける聖霊の助けによって,問題の答えや次になすべきことについての霊感を見いだすことができるのです。次々に助言を与えたり,裁いたりしてはなりません。善意から出たものであっても,助言者がどれほど「経験豊富」で「賢い」人であっても,そのような方法は,ほとんど助けにならず,効果的でないことが多いからです。その人の状況について知り,その人の苦難の原因について調べる必要があるかもしれません。例えば,子供が病気であれば,その病気について学び,経済的な問題を抱えた家族であれば,賢明な財政管理について学ぶのです。これらの事柄について一緒に情報を収集することによって,その人は学ぶ機会にあずかることができます。助けを必要とする人が政府および教会が提供している様々なリソースを求めるときに寄り添うことで,その人は次の段階に進む力を得ることができるのです。

助けながら救助する

いつも「人は自らの内に力があり,それによって自ら選択し行動する者〔である〕」(教義と聖約58:28)ということを認めましょう。失業している人,情緒的な障碍のある人,寝たきりの高齢者,独りで小さな子供を育てている親,愛する家族を最近失った隣人,被災者,これらすべての人々は,愛にあふれる天の御父の子供であるという事実を共有しています。彼らの置かれている状況がどれほど悲惨に見えたとしても,適切に対処すれば,「その人の中に眠っているものをすべて引き出し,霊の持つ潜在的な可能性を開花させて実を結ばせる」ことができるのです(ステーク会長の特別集会におけるJ・ルーベン・クラーク管長の説教からの抜粋,1936年10月2日)。わたしたちはだれかに援助の手を差し伸べるときに,その人も偉大な価値と大きな力を有する神の子供なのだということを思い起こすべきです。そうすることによってわたしたちは賢明に援助を与え,その人が自立し,霊的に強くなり,自尊心と高潔さを保てるよう助けようと努力できるのです(手引き第1部,5.2.2参照)。

地は満ちている

援助するときに,決して無力感を抱いてはなりません。「地は満ちており,十分にあり余っている」(教義と聖約104 :17 参照)という事実に気づくことが援助をするときに大切です。効果的に援助したいと思うなら,教会や地域社会のリソースを通じて利用できる多くの援助手段を把握することが不可欠です。情緒面や夫婦関係,家族の問題,依存症,あるいはストレスで悩んでいる会員は,ビショップや指導者,友人,また場合によっては専門家に助けを求めることができます。そのような援助は,地元の専門カウンセラーあるいはLDSファミリーサービスを通じて得ることができます(LDSChurch.jpにあるLDS FSウェブページ参照)。仕事あるいは教育の機会を探している会員は,政府の運営機関やその他の雇用機関,あるいは教会の職業支援センターに頼ることもできます。そのような人たちを助ける過程の一環として,「依存症立ち直りプログラム」,「結婚生活を強める」および「家族を強める」クラス,あるいは「キャリアワークショップ」,「自営業ワークショップ」などのプログラムに参加するよう勧めることもできます。

主の道にかなって支援する

時として,援助を提供するときに注意が必要なことがあります。ウークトドルフ管長は,そのことに関する説教の中で次のように語っています。「助けの必要な人を世話するための主の方法は世の方法とは異なります。主は『わたし自身の方法で行わなければならない』とおっしゃっています。主はわたしたちの目先の必要だけでなく,永遠の進歩に関心を寄せておられます。」(「主の道にかないて助けをなす」『リアホナ』2011年11月号)助けの手を差し伸べるときに,わたしたちはその人が自分自身を助けられるよう助ける方法で助けていることを確認する必要があります。「人に1匹の魚を与えれば1日食べさせられるが,釣り方を教えれば一生食べさせられる」ということわざは深い洞察を与えてくれます。

とは言え,助けを必要とする人がビショップに支援を求める準備をする際に,ビショップから苦痛に思える質問をされることがあるということは知っておいたほうがいいでしょう。ビショップは主イエス・キリストの代理人として真の関心から愛に基づき行動します。あなたが自分にとって最も必要なこと,自分の置かれた状況を克服するのに役立つ援助手段を明らかにし,行動計画を作成し,周囲の人々に奉仕する機会を見つけることができるように,ビショップはあなたを助けようと努力するでしょう。主の用向きを持てる者としてのビショップの役割は,あなたが自分自身を助け,自立するよう努力するのを助けることなのです。

してはならないこと

そうしないようにと勧告されているにもかかわらず,人は自分独自の方法でほかの人を助けようとすることがあります。あるいは,求められるものは何でも与えようとすることがあります。パニックに陥り,経済的に困窮している人は,これがなければ生活できないと思い込みがちです。しかし,そのことについて慎重に検討し調べれば,自分たちの要求と必要を満たす,より効果的な方法を見つけることができるものです。一方,相手の必要を即座に満たそうとすることによって,人は自分自身と自分の家族,さらには最初のうちは助けようとしていた相手まで苦しめることがあります。このようなことが,ほかの会員にお金を貸す,ほかの会員のローンを助けるために保証人として署名する,あるいはアパートの保証人として署名するといった行為の結果,教会の至る所で起こっています。このような行為は,善かれと思って行われたことであり,行われたその時点では,無害に見えますが,主の方法ではありません。この種の支援は,家族に対する場合,あるいは相手と自分の間にかなりの信頼関係がある場合は問題ないかもしれません。お金が愛や哀れみに基づいて与えられる場合,あるいはもしものときには,保証人が借り手のために犠牲を払う決意と能力があって署名する場合は容認できるかもしれません。しかし,ビショップ,ホームティーチャー,あるいは友人は,クリスチャンだからという理由だけで,決してこれらの犠牲を強いられていると感じたり,強いられたりするべきではありません。主の方法は,聖霊の導きの下,義務感からではなく愛によって働きかけることだからです。

視点

恐らく,貧しい人や助けの必要な人を支援するときに最も大切なことは,いつも感謝しへりくだることでしょう。今,このときにそのような人を助ける機会と能力を主から授かったことに感謝しましょう。そのような人に手を差し伸べることを可能にする技術と才能を伸ばせることに感謝しましょう。聖霊の導きに感謝しましょう。心から信頼しているからこそ,その人があなたに助けを求めてくることに感謝しましょう。十分にへりくだり,すべてのことを可能にしてくださるのは神であることを理解しましょう。十分にへりくだり,順境のときも逆境のときも,生涯を通じて,自分を支えてくださるのは神であることに気づきましょう。感謝しへりくだることによってこそ,与える側と受ける側,双方の教会員の人格を築き上げることができるのです(J・ルーベン・クラーク・ジュニアの言葉参照)。

貧しい人や助けを必要とする人の支援をする働きは,わたしたち一人一人に課せられた基本的な責任です。わたしたちが, この責任をもっと十分に理解し,その理解に基づいてもっと迅速に行動することで,ウークトドルフ管長の語った精錬を経験できますように。「物持ちでも貧しくても,どこに住んでいようとも,わたしたちは皆,互いを必要としています。自分の才能,時間,手段をささげることによって,わたしたちの霊は成熟し,精錬されるからです。」(「主の道にかないて助けをなす」『リアホナ』2011年11月号)◆