リアホナ2013年3月号  被災後3年目の支援のかたち

被災後3年目の支援のかたち

心の復興,とは何か─町田ステーク高尾ワード 本多 隆治兄弟

「次はいつ来るの?」仮設住宅の子供たちは帰ろうとする本多隆治兄弟にこう投げかける。これは本多兄弟にとっての“マジックワード”(魔法の言葉)だ。「被災地の人にとって,訪れるボランティアは『通り過ぎて行く人』なんですね。別れ際に『また来てね』と言ってもほんとうは期待していない。でも『いつ来るの』は具体的に期待している言葉です。」─2012年4月以来,本多兄弟は個人的に毎月,仮設「にっこりサンパーク」住宅団地を訪問し続けている。家族や友人たち5,6人とワゴン車1台で訪れる小規模のボランティアである。「次はいつ来るの」と初めて言われたのは秋風も冷たくなった11月のこと。定期的な訪問を始めて8か月が過ぎていた。

日本町田ステークの徳沢清児会長の勤務先では,18年後の現在も阪神淡路大震災被災者への支援を継続して行っている。東日本大震災でも,そんな息の長いアプローチができたら……との思いから,町田ステークとして2012年,4回のボランティアツアーを計画した。町田ステークの会員であり,東日本大震災直後から現地入りして傾聴ボランティアなどの支援活動に携わってきた畠中耕三兄弟の紹介を受け,宮城県石巻市北上町を支援先と定める。石巻市立北上中学校に隣接する運動施設「にっこりサンパーク」に建設された178世帯の仮設住宅団地であった。

ここに町田ステークのボランティアバスが初めて訪れたのは,被災後1年を迎えた2012年3月のこと。北上中学校の畠山卓也校長は積極的にボランティア活動のコーディネートを行い,この仮設住宅を代わる代わる訪れる数々の団体を「にっこり応援団」としてまとめている。教会の支援活動もその一環として好意的に迎えてくださった。活動の場には北上中学校の体育館が提供された。ボランティアたちは中学校に寝袋で泊めていただき,畠山先生から毎回1時間ほど,被災時の様子を伺う機会にも恵まれた。

3月には仮設住宅の清掃と交流会,ハンドマッサージによる傾聴が行われる。7月には独身成人が主体となっての夏祭り,綿菓子や焼きそば,焼き鳥,かき氷の屋台を出し,仮設住宅の方々とゲームやカラオケで交流する。9月にはスポーツイベントと牛丼の屋台,12月には年末の仮設住宅清掃,クリスマス会とコンサートが行われる。渋谷インスティテュートの学生による聖歌隊「リトル・ウィットネシーズ」が同行し,NHKラジオ英会話に出演している東京南ステークのジェフ・マニング兄弟がサンタクロースに扮するとともに,フライドチキンなどクリスマスの食事とうどんを提供した。

畠山校長と住民代表の方は,7月と9月の食事提供に際して「わずかでもいいのでお金を取ってください」と言われた。緊急支援段階をすでに終え,仮設住宅に入居した人々には炊き出しは必要ない。住民の自立を促すうえでの要望だった。屋台や食事の売り上げは全額,義援金として仮設住宅の自治会に贈られた。

仮設住宅では,4畳半二間から6畳二間に家族が身を寄せ合って暮らしている。入り切れないため一家族が別の住宅に分かれて入居しているケースもある。隣との壁も薄く何かとストレスがたまる。また仮設住宅は山の上にあり,周囲に店などはないため,スーパーの移動販売車がやって来る。定期バスはあるが石巻に出るとなるとかなり遠い。「楽しみがあまりないんです。ですから教会が行ってイベントをするというのは悪くない。とても喜ばれます。」(本多兄弟)

遊び支援とは

一方,本多兄弟は2012年3月,最初にステークとしてここを訪れたとき,多人数でイベントをするだけではなく,人と人との関係を築く支援をしたいと思った。畠中兄弟に相談すると,この仮設にっこりサンパーク団地を継続的に訪問するよう勧められる。翌4月から始めて,どのような支援ができるのか,仮設住宅の世話役である佐藤のり子さんと相談しながら手探りする。そこで浮上したのが,子供たちの「遊び支援」である。畠山校長はブログにこう記している。「仮設のお母さん達の大きな悩みは,夏休み中の子どもをどう遊ばせるか,だそうです。特に,夏休みの平日の午後に,子ども達の面倒を見てくれるボランティアが来てくれることを強く待ち望んでいるようです。心当りのある方は,ぜひチャレンジしてください。子ども達と遊んだボランティアがすごくいい顔をして帰るのを何度も見ました。……子供にとって,遊んでもらうことが何よりの“心のケア”になります。この団体(ヘルピングハンズ)は,何度も仮設に来ています。回数も大切ですね。」

2012年7月,ステークでの訪問とは別に,本多兄弟たちは夏休みの子供たちへ4日間連続で遊び支援を行った。大きなビニールプー ルを用意して水を張る。しかし,初日の朝はだれも来てくれない。「一体何しに来てるのかな,と思いました(笑)。」待つうちに,ようやく一組の親子がやって来た。「入らせてもらっていいんですか?」「どうぞどうぞ!」それを皮切りにちらほら子供が集まり始める。午後からは子供たちの宿題も見る。2日目,3日目と次第に盛況となった。4日目の別れ際に子供たちは言う。「また来てね。」これが,本多兄弟と子供たちとの関係のささやかな一つの転機だった。

「子供たちはボランティアの人とあまり親しくならないようにしているような気がするんですね。仲良くなっちゃうと,さよならしなくちゃいけないじゃないですか。それはつらいことだと思うんです。たくさんの人とのつらい思いを彼らはしているでしょう」と本多兄弟は言う。一見,屈託なく楽しく遊んでいるようだが,子供たちは皆,重い被災体験を背負っている。多くの友達が避難した市役所の支所が目の前で津波にのまれるのを隣接する小学校の屋上から目撃した,閉じ込められる不安からトイレなど狭い所に入れない,お風呂を炊くガスのゴーッという音が津波を思わせて怖い,独りでお風呂に入れない,余震があると恐怖がよみがえる,といった心の傷を子供たちは抱えていると現地の佐藤のり子さんは話す。

本多兄弟はこう続ける。「親御さんも忙しいんです。仕事を見つけなきゃいけない,家を建てて仮設を出なきゃいけない……いろいろと悩んでいて子供に心を向ける余裕があまりない。皆,被災者ですから,だれも子供の面倒を見てくれない。だから,それが分かる人が行って,一緒に何かをするのは,もっともっと必要かな。子供たちって(普段は学校に行っているから)週末しかいないんですよ。週末は親御さんもたいてい,週日にできない雑事に追われているんです。だから土曜日に行って,朝9時ごろから集会所でゲームしたり,外で鬼ごっこしたり,お昼は一緒に作って食べて,3時ごろまでいて帰るんです。10月からはうちの奥さんが一緒に行くようになって,それまで子供を連れて来てすぐに帰って行ったお母さん方が集会場にとどまりおしゃべりしていくようになりました。何かやってるの,とお年寄りも来られます。」本多姉妹もこう言い添える。「彼らにはわたしたちのような,外から来る風が必要なんですね。」

変わっていく子供たち

2013年2月9日土曜日の朝9時,きれいな青空で気温は0℃,風が強く体感温度は低い。今日は本多兄弟らによる月例の「遊び支援」の日,仮設団地の中心部にある集会所へ何人かの子供たちが待ち切れない様子で駆けて行く。集会所は世話役の佐藤のり子さんが入れてくれた暖房ですでに暖められている。やがて,9時半から開始の約束どおり一行の車が到着する。本多兄弟にとってその朝はちょっとした感動の瞬間であった。─「初めて子供たちが(先に来て)待っててくれたんです。これまでは集会場に着いて,家々を回って子供たちに声をかけていましたから。」

午前中は集会場で部屋遊びと考えていたのに,子供たちは早速,「外へ行こう!」。「寒いよ」とぼやきながら本多兄弟は公園へとせき立てられていく。ここでは本多兄弟は子供たちに「お父さん」と呼ばれている。皆が「お父さん」を独り占めしようとする。ボール遊び,フリスビー,滑り台,なわ跳び……次々と呼び声がかかる。取り合ってけんかも起こる。子供たちは遠慮会釈なく率直だ。「わたしたちに今すごく心を許してくれているんですよ。何が違うかというと,わたしたちの帰り際,当初は何も言わないですよ,単に『バイバイ』だった。そのうちに,『また来てね』と言うようになった。最近何て言うようになったかというと,『次いつ来るの』『また第2週に来てね』。向こうから来ることを要求するようになったんです。その日はちゃんと予定を空けて待っててくれるんですね。だから,通り過ぎる人ではなく,また来てくれるって期待してもいいんだ,自分の中にとどまってくれる人だ,っていう気持ちを持ってくれたのかな。」昨年11月からは,それまで佐藤さんが配ってくれていた遊び支援開催のちらしを,佐藤さんの小学生の息子さんが配ってくれるようになった。「被災地の子供たちがどんどん変わるんですよ。それを見ているとわたしたちも励まされますし。彼らに必要なのはそういうことなのかな,って最  近すごく感じるんですね。」

一緒に何かをすること

午後に,ほかの支援団体から贈られたペーパークラフトなどのおもちゃとお菓子を子供のいる家に配った。本多兄弟にはどの家に子供がいるか分からないので,その場に来ている子供たちにお手伝いと道案内を頼む。「でも,今,物が必要かというとそうでもないんです。先月,わたしたちは凧を持って来ました。子供たちとそれで遊びましたけど,わたしたちが帰った後で彼らが凧揚げをするかというと,しないと思います。彼らは凧が欲しかったわけじゃなくて,一緒に遊びたかったんです。クリスマスにプレゼントをもらうよりも何かを一緒にすることがもっとうれしいんだ,って感じましたね。」物資がいらないと,必要は満たされたと見なして支援団体の訪問は減っていく。しかし,彼らは違った支援を必要としている。「今は,何かを上げるんじゃなくて,隣にいて,何かを一緒にするとか話を聞くっていうことを,もっと親身になってする機会が必要だと強く感じますね。」

昨年12月,リトル・ウィットネシーズが二人一組で午前中に仮設住宅の清掃に訪問したとき,お年寄りに「掃除はいいから,座って,お茶飲んでって」と迎えられ,こたつでみかんを頂きながら世間話をしたというペアもあった。そうして住人と直接触れ合って伝えたので,午後のコンサートには30人以上の人が誘い合って来てくれた。これは大盛況の部類だという。仮設住宅の人は人との触れ合いを求めているのだろうか。本多兄弟はうーん,としばし考え込む。

「……彼らは自分が何を求めているか意識していないと思います。仮設住宅の人は毎日を生きるのに精いっぱいで,気力が低下していると言われます。例えば仮設団地の花壇に花を植えるから,と言ってもなかなか集まらない。でも,人が生きるためには野心(新たなことに挑戦する意欲)というか,『希望』が必要なんです。ご本人も意識していないかもしれないけど,それを引き出すお手伝いをするのが外から来たわたしたちの役割だと思います。」

次回の3月は春休みなので,ちょっと特別な活動を計画している。「今度はお店をやろうよ。何をやりたい?」「ホットケーキ」「焼きそば……」「自分なら何を食べたいか考えてよ。材料を準備してくるから。」今,子供たち自身に計画させて,それを支援する形の活動を模索している。ささやかでも,予定を立てることは未来を志向すること,そこに「希望」が宿る。

顔の見える支援,人間関係を築いていく支援には時間がかかる。少しずつ変化していく子供たちは地域の未来そのものだ。大規模な予算をかけて大勢で行くボランティアとは違った形の支援がここにある。本多兄弟は続ける。「わたしは,昨年4 月から行き始めたときに一つ決心したことがあるんです。ここの仮設がなくなるまで行こう,全員いなくなるまで行こう,と。

わたしの今年の課題は,車1台で行っているのを,2台,3台として,『彼らと一緒に何かをする』人を増やすこと。個人ベースでやっているので,仮設の人たちの都合に柔軟に合わせて活動できます。ただ,教会の中には人を助けたいという人が多いとわたしは信じています。昨年,被災地に苗を持って行くため,ひまわりの種を植えるのを初等協会に手伝ってもらったんです。そんなふうにワードやステークとして後方支援的なことをして,被災地とかかわり続けてくれたらいいなあと思いますね。」

月に1度来て子供たちと遊ぶという,ほんのささやかな支援かもしれない。しかし畠山校長先生もブログに東北弁でこう書いている。「支援の心は“,少~し助けで,永~ぐ助けで。そして,ちょぺっと楽しんでけらい”です。」◆