リアホナ2013年3月号  イエス・キリストは霊的な避難所です

イエス・キリストは霊的な避難所です

阪神淡路大震災から18年目にして,初めて語る被災体験

─神戸ステーク西宮ワード 七里 隆幸兄弟

七里隆幸兄弟は阪神淡路大震災で凄惨な体験をされました。心に受けた衝撃も強く,被災直後はそれを言葉にすることができませんでした。東日本大震災後の今,自分の経験が役に立つなら,との霊的な促しを感じ,初めて寄稿されました。(編集室)

1995年1月16日,西宮ワードでは恒例の新年会と餅つきがあり,楽しく過ごした一日でした。伝道を終えて2年半が過ぎようとしていたわたしはその日,今年も新たに信仰生活を力強く頑張ろうと決意して教会から帰ったのを覚えています。その夜,モルモン書を読んで祈り,これまでになくすがすがしい思いで寝床に就きました。

1995年1月17日,午前5時46分ごろ,木造2階建住宅の2階で寝ていたわたしは非常に強い揺れを感じ,目が覚めました。地震だとは感じましたが,また目を閉じて眠ろうとしました。そのとき,2度目の震度7以上の直下型地震とともに柱が折れていく非常に大きな音がし,家が45度くらい急激に傾いていきました。ガラスの破片が足に突き刺さり,壁に掛けていたステレオのスピーカーが頭上に直接落ちてきました。激痛のあまり,思わず右手を上げて「主よ!」と叫びました。その後地震はやみ,静かになりました。外はまだ暗く,人々の叫ぶ声が聞こえていました。1階で寝ている母親のことを思い出し,傾いた部屋をよじ登ってベランダの窓を開けて外を見ると,一階の部屋の辺りは完全に潰れており母親の生存している確率は低い状態でした。不安な気持ちで瓦礫の隙間から母親を呼び続けました。すると小さな声で「助けて!」と声が聞こえましたので,「生きていてよかった!」と思いました。しかし,潰れたガレージから懐中電灯を取って来て中を照らすと,柱と柱の間に首と腰を挟まれた母親が見えました。わたしは次の余震が来る前に助け出そうとしましたが,人の力では救い出すことは不可能でした。そこでひざまずいて祈りました。駐車場からジャッキを取り出して,首が挟まっている柱と柱にしっかり挟み込み,ゆっくりと慎重に上げていくと,挟まっていた首を外すことができました。空間を作り,腕を引っ張ってそこから救い出すことに成功しました。

隣人に手を差し伸べる

その後,貯蔵していた食料が無事であるのを見て少し安心したのを覚えています。家の中から毛布を取り出し,母親の肩を覆い,近所の方の救出作業に独りで向かいました。当初,叫び声がしていた傾いた家の中の人に声を掛けました。その家の2階で寝ていた小学生くらいの3人の女の子は脱出した後でした。1階で寝ていたご両親のあたりに声をかけるも返事がありません。潰れた1階部分の上に2階が崩れ落ちており,あたりは真っ暗で,ジャッキによる救出も不可能でした。申し訳なく思いますがその状況では,救助隊による救出を待つほかなすすべがありませんでした。もう一人の近所の方は,傾いた家に閉じ込められていましたが生存を確認することができました。

やがて周りも明るくなってきたので,駐車場の地震でへこんだ乗用車に(顔色もなく腰の骨を骨折していた)母親を乗せて,ほとんど倒れていた電柱をジグザクに避けながら病院までたどり着きました。病院のロビーには多くのけがをした被災者がいっぱいに横たわっていました。目の前で力尽きて亡くなっていく人,友人の死を前に泣き叫んでいる人,死んだ人に一所懸命人工呼吸を続ける人,担架で運ばれて来る人……なすすべもなく見守っているほかありませんでした。医師も手の施しようがなく困っていました。

母親をロビーに横たえ,食べるものを探しに出かけました。けれどもコンビニは全滅です。ちょうどそのとき,タイミングよく兄が大阪から駆けつけ,おにぎり2つとコロッケ1つが入った容器を2セット持って来てくれました。母親のもとへ届けようと急ぎました。途中で,2人のやせた老夫婦が寒さに凍えおびえて座っているのを見ました。そのときふと,イエス・キリスト様ならどうするだろうと考えました。持っていた2セットのうち1つを差し上げるとほんとうに喜ばれました。母親もその行為をほんとうに喜んでくれました。キリストへの信仰がなかったらできないことでした。

被災の中での導きと守り

その後再び全壊した家に戻ったところ,救助隊が救出作業を行っていました。瓦礫の撤去作業を兄と手伝い,わたしが助け出せなかったご夫婦のご遺体を発見しました。そのときの心痛は表現することができません。幼い3人の子供たちが来ましたが,変わり果てた父母の姿を見せるに忍びず,救助員の方が毛布をご遺体に掛け,わたしたちはそこで黙祷をささげました。(そのご夫婦は生命保険をかけておられ,3人の娘さんたちは親戚に預けられたと後に聞き,少し安心しました。)

職場の神戸営業所も潰れ,住む家もなく,唯一残ったへこんだ車に寝泊りして心身ともに疲れ果てました。避難所の小学校の体育館で,被災3日後から始まった自衛隊員によるお弁当の支給を受け,毛布にくるまって寝ていました。その体育館は,次から次に運ばれてくるご遺体の安置所にもなっており,数体のご遺体と同じ場所で寝ていました。1週間以上お風呂に入っていませんでした。使えるコインランドリーもなく,ガーメントを洗濯するのに困ったわたしは心底,助けを求めて神様に祈りました。「このまままっすぐ行きなさい」という言葉を感じ,車をずっと走らせました。「そこを左に曲がりなさい」と感じ,またしばらく走行していると,「そこです」という言葉と同時に,だれもいない看板もほとんど分からないコインランドリーに到着しました。そこで全部洗濯することができました。心から感謝の祈りをささげました。(とても不思議な経験でした。)

そのような中にあって,伝道中お世話になった伝道部会長(土田勝兄弟・準子姉妹)や同僚たちから連絡がありました。必要な物資を聞かれ,名古屋および関東の兄弟姉妹の方々がそれらを持って西宮ワードに駆けつけてくださいました。彼らが持ってきた援助物資,特に軽トラック数台,給水タンク等は非常に役立ちました。水道水の出る西宮ワードの蛇口から水をタンクに入れ,市内の水道水が止水した地域に供給する奉仕をしていました。彼らとともにボランティアに参加し多くの祝福を得ました。「人のために奉仕するとき自分自身の問題を忘れる。」スペンサー・W・キンボール大管長の言葉が実感されました。

それからまた数週間後,全壊した家に戻りました。近所の方が見守る中,傾いた2階の自分の部屋に入って最初に取り出したのはモルモン書でした。それから苦労して集めた先祖の記録。モルモン書がなぜ大切なのか,心配して見守ってくれていた近所の方にそのとき証することができました。それは伝道にもなりましたし,最善のことでした。次に戻ったときには,他のもろもろの思い出の品々もすべて盗まれ,あるいは撤去され,家は解体業者に解体されて更地になってしまっていましたから。

どんな事態が起ころうとも,聖典を読むことと祈ることは怠ってはなりません。それをわたしは強く証いたします。今,被災している方々にお伝えしたいのは特にそのことです。それはわたしの願いであり,祈りです。振り返ると,わたしはそれらを実践しているとき,被災の中にあってもずっと平安となぐさめを感じ,イエス・キリスト様という霊的避難所の中で守られていたことに気づきました。イエス・キリスト様は今もわたしたちの一つ一つの悲しみ苦しみを共にしてくださっています。それを証します。

奇しくもわたしは現在,阪神淡路大震災の慰霊碑の後ろにある水道局内で勤務しています。1月17日,今年の阪神淡路大震災慰霊祭に参加しました。東日本大震災で亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。また被災されて頑張っておられる兄弟姉妹に,主の導きと助けと守りがございますように。◆