リアホナ2013年7月号 「わたしのもとに来る心の貧しい人々は,幸いである。」※1

「わたしのもとに来る心の貧しい人々は,幸いである。」※1

重度の精神障碍を乗り越え,神殿で結び固められる

─大阪ステーク阿倍野ワード 御手洗 岩男 ,節子 ご夫妻

間もなく80歳を迎えようとしている御手洗岩男兄弟は,1933年12月,大分県に生まれた。勉強熱心な岩男兄弟は苦学して立命館大学の理工学部を卒業後,運輸省(現在の国土交通省)に入省する。当時は,日本の原子力事業の黎明期であった。1956年,茨城県那珂郡東海村に日本原子力研究所が設立され,日本の原子力研究の中心地となっていく。

この研究所内に船舶技術研究所というところがある。御手洗青年は技官としてそこへ出向を命じられ,原子力船「むつ」の炉心部の製作を行っていた。未来のエネルギーとして脚光を浴び,日本政府の肝いりで導入された原子力の研究と製造には多くの若い研究者・技術者が投入される。1963年10月には,日本原子力研究所の動力試験炉において日本初の原子力発電が行われた。

その翌年の1964年5月25日,岩男兄弟と節子姉妹はお見合いで出会い,結婚する。

それからわずか半年,1964年11月27日のことだった。研究所の4号炉にて操作訓練をしていたとき,機械の設計ミスにより実験用プールのクレーンの鉤が破損し,勢いよく跳ね上がった鉤はプールのわきにいた御手洗青年の頭部を直撃した。

脳挫傷,側頭骨骨折,頭蓋骨骨折。数日は昏睡状態が続き,目覚めた後も記憶障碍,計算・識字障碍,失見当識,性格変容など頭部の外傷から来る重い精神疾患を負っていた。「事故直後は,もう自分のことも,わたしと結婚したことも分からなくて」と節子姉妹は回顧する。「幼いときの記憶はありましたが,事故以前の1年ほどの記憶がなくなってしまっているんです。感情が不安定で話もできなくて,ずっと鍵のかかる部屋(精神病棟)でした。9種類の薬で(感情を)抑えていて,今も12個くらい飲んでます。被害妄想の症状が現れ, 『巡査が来るから隠れる』と,病室で隠れんぼをよくしました。視力はなかなか回復しません。失明ではなく,視神経をやられて視野が暗いものですから,朝から晩まで,こんばんは,とあいさつしていました。識字機能もなくなり,読むのは絵本から始めたんです。テレビ,新聞には興味なし,たばこが1日20本に増え,時間的感覚はありませんでした。」

12年間にわたる長い入院療養生活が始まった。東海村から東京慈恵医大病院,広尾日赤中央センター,東大病院精神科,そして大阪赤十字病院と転院を繰り返した。長い時間をかけてある程度の脳機能は取り戻したものの,「先生のおっしゃるには,回復ではなくて慣れなんだそうです。」かつての岩男兄弟に戻ることはなく,精神障碍者一級と判定された。

1965年5月,長男を出産した節子姉妹はその年の11月に運輸省に採用され,翌1966年7月に大阪港の近畿運輸局に転属,岩男兄弟の入院する大阪へ移った。

主の教えに救われる

1976年3月,岩男兄弟はまだ大阪赤十字病院に入院していたが,週末だけ外泊を許されて官舎に戻っていた。そのちょうど帰宅したときに二人の宣教師が訪ねて来たのであった。「門を開けてちょうど偶然に会ったんです。わたしはね,一応お断りしたんですよ」と節子姉妹は笑う。彼らが宣教師と聞くと岩男兄弟は,じゃあお入りください,と家に招き入れた。入院中に聖書を紹介されて興味を持っていたらしかった。それから,毎週土日の帰宅時にレッスンを受け,岩男兄弟は食事と服薬の時間が決められていたので,宣教師と食事も一緒にするようになった。

節子姉妹はそこで当時の『モルモン経』と出会った。特に第3ニーファイに心を引かれる。「神の国と神の義を求めればすべて添えて与えられるであろう,明日のことを思いわずらうなという聖句※2 があったりしたので,ああ,神様は見ていてくださるんだな,と。」モルモン書に強く共感した節子姉妹は,1976年5月8日,当時11歳の長男と岩男兄弟の3人でバプテスマの水をくぐった。

あの事故以来,ひたすら岩男兄弟を支える生活だった。入院中から現在に至るまで,週に1度くらい徘徊もある。教会で,神権会と扶助協会に分かれて目を離したすきに何度もいなくなったこともある。マンションの守衛さんや交番署のお世話になることもしばしばだった。夜中に外に出て行かないようセンサー付きブザーを備え,節子姉妹はずっと玄関に通じる廊下で就寝している。今では徘徊も岩男兄弟のストレス解消と理解し,GPS※3 で所在を把握しつつ,散歩のつもりで岩男兄弟に黙ってついて行くこともある。「それは病気だと思って別に苦にしてなかったんですね。けれども福音に出会うまでは,わたしが主人にしていることは一方的(にしていること)と思っていたんです。『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは,すなわち,わたしにしたのである。』※4 ああ,そうか!と思ったんですよ。(将来,)神様の御顔を見るときに,それは岩男兄弟の顔かもしれない。今の生活の意味が分かりました。福音が自分の身に付いて,ずいぶん気が楽になりました。それを早いうちに学んでよかったなあと思います。」

神殿の力

「改宗して25年,教会には行ってたんですけど,信仰生活は大変でした。岩男兄弟は朝,スーツを着ても,少し機嫌が悪いと教会に行かない。ごね出すんですね。無理には連れて行かなかったけど,割に教会が好きで,機嫌が良ければ行ってくれました。宣教師は大好きでした。でも,長い間たばこがやめられなくて。岩男兄弟の状況を見ると無理だろうと,神権指導者からも神殿に連れて行こうといったお話はなかったんです。」

節子姉妹は1987年3月,東京神殿で自身のエンダウメントを受けた。それから岩男兄弟の名前を神殿に入れ,熱心に祈りの輪に加わってきた。時折,岩男兄弟も一緒に神殿に来て,姉妹が入っている間,会員が付き添ってロビーで待っていた。神殿で1度,岩男兄弟の行方が分からなくなった。「もう遠い所へ行ってしまっていて。それでも,何度も神殿に来ているうちに,何か感じたんでしょうかね。」2003年に,岩男兄弟の意志で神殿に入りたいと望んだという。たばこもやめ,アロン神権の祭司の職を受けた。「わたしは(岩男兄弟の)家族の系図を置いておいたんです。おじいちゃんやおじさん,父方の流れ(系譜)を,ざんぶざんぶ水に浸けられてほんとうに喜んで。……神殿では男女の部屋が分かれますから,関目ワードの坂本兄弟と大津ワードの中野兄弟がついてくださって。彼らがいなければ無理でしたね。岩男兄弟の集中力が続かずにむずかったとき,一度平服に着替えさせて神殿の外に連れ出して,それからまた神殿着に着替えさせて……そこまでしてくださる方はちょっといらっしゃらないですね。」

幼子のように

それから岩男兄弟は大きく変わった,と節子姉妹は言う。「お祈りもちゃんとするようになりましたし,すごく霊的に変わりました。穏やかになりました。周囲の人に親切になり,自分から,こんにちは,とか声をかけるようになりましたね。小さい子供にはにこっと笑いかけて。何でしょうねあれは……何かを神殿で感じたんでしょうね,彼はそれを表現できませんけども。わたしにも,ご飯を作ってくれてありがとう,って言って,食事の祝福を皆のためにしてくれますし。」─岩男兄弟は人のために様々なことをするようになった。出会う人々に,「教会はいいところだよ,神様は生きていらっしゃるよ」と屈託なく声をかける。「わたしの父は天理教なんですけど,岩男兄弟が呼んで阿倍野ワードに来てもらったこともあります。(2011年にバプテスマを受けた)木下愛子姉妹も,うちのお父さんがいなかったら教会に入っていない,って言っています。」接骨院で知り合った西村公実姉妹も岩男兄弟に声をかけられ,2012年4月にバプテスマを受ける。さらに,公実姉妹のお母さんから紹介された早野瑠夏姉妹も7月にバプテスマを受ける。御手洗家ではそうした人々と宣教師を招待してレッスンや食事会をよく行う。また,岩男兄弟が通っている歯医者さんで神殿の話をすると,先生はご自分の系図を提供し,神殿で儀式をする許可を下さった。先生は緒方洪庵の直系の子孫であった。「本人は伝道という意識はないですから。彼はほんとうに幼子です。わたしたちはこう言ったらどう思われるかな,と心の中で思いますけど,彼は恐れを知らないですよ。」

神殿の果実を受けて

2012年6月8日の夜10時ごろ,中野正之兄弟が突然,御手洗家を訪問した。

この日,中野兄弟は阿倍野ワードで,地域家族歴史アドバイザーとして大阪ステークの訓練集会に臨んでいたのだった。その席上でのこと。「御霊がささやいたというか,彼(岩男兄弟)のところに行ってあげなきゃ,という思いになりましてね」と中野兄弟は振り返る。御手洗家は阿倍野ワードから歩いて10分ほどの場所にある。

中野兄弟は開口一番, 「永遠の結婚式をしましょう」と切り出したという。「今すぐ準備して,8月には神殿で儀式を受けましょう。ビショップにも相談してください。」中野兄弟は心に感じるままに語った。

節子姉妹は語る。「わたしは, 『(岩男兄弟は)エンダウメントも受けていないし無理ですよ』って言ったんです。すると中野兄弟は静かに一言,『姉妹,あなたが決めることですか?』と。はっと気がついたんです,高慢だったな,と。それは主がお決めになることなんですね。」

中野兄弟からの助言もあり,6月10日,岩男兄弟は阿倍野ワードで初めて聖餐のパスを行った。─「その人がいつも主とともにいる,聖霊がともにいるためには,神権者としてその働きをする機会が必要だと思います。そうしたら必ずその人はいろいろなことを感じるから,成長するし,活躍できるのではないかと思います。」(中野兄弟)

6月20日夜にはメルキゼデク神権のための面接を受け,6月24日の日曜日,大阪ステーク大会にて支持されて,岩男兄弟はメルキゼデク神権に按手聖任される。

それから神殿準備セミナーを経て,8月初旬,ビショップとステーク会長による神殿推薦状の面接に臨んだ。「面接のときは,わたしは一緒に部屋へ入らなかったんです。もし,岩男兄弟が行きたくないと言うなら仕方がないと思っていました。」部屋を出て来た大阪ステークの吹田会長は心配顔の節子姉妹に「大丈夫でしたよ」と笑顔を向けた。─「まさかこんなにスムーズに推薦状にサインを頂けるとは思っていなかったんです。」(節子姉妹)

神殿参入の当日,2012年8月14日は期せずして記録的な大雨となった。車いすで乗車できるよう個室を予約していた新幹線は運休となり,中野兄弟は代替便の手配に追われる。運行する本数が減り乗車率が高い中,それでも奇跡的に個室を押さえることができた。中野ご夫妻に付き添われて御手洗ご夫妻は東京神殿に向かう。予定より2時間遅れで神殿に到着し,岩男兄弟のエンダウメントと御手洗ご夫妻の夫婦の結び固めは無事に行われたのだった。◆