リアホナ2013年1月 死者と生者の救いを家族で謳歌する

死者と生者の救いを家族で謳歌する

家族歴史と伝道は一つです─桐生ステーク桐生ワード 櫻井清兄弟・ひろこ姉妹

取材が始まるなり「これを見てください」と1枚の写真を示す。昔の写真を大きく引き伸ばして額に収めたもの─尖塔の上にはラッパを吹く金色の像。その下を肩で風を切るように闊歩するパンチパーマに黒サングラス,白い上下の服の青年。さげた袋の中には,「ソ連館で買ったウオッカとモルモンパビリオンで買ったモルモン経が入っていました。袋を落としてウオッカは割れてしまいましたが……。」櫻井兄弟20歳,兄と二人で訪れた1970年の大阪万国博覧会で何気なく撮ったスナップ写真が教会との最初の出会いを物語っていた。この年,櫻井兄弟は父親から譲ってもらった畑に自動車車体整備工場を開設した。4年後には,同業者の知り合いから紹介されたひろこ姉妹と結婚。二人の息子を授かることになる。

1986年2月,ひろこ姉妹が懇意にしていた英会話教室の先生から宣教師を紹介され,自宅に招くことになった。「“お姉さん”と呼んで慕っていた人で,高校時代には宣教師のレッスンを受け,バプテスマを受けるところまでいきましたが,両親の反対で受けられなかった方です」とひろこ姉妹は語る。教会員ではない人から宣教師を紹介されるという異例の展開だった。

櫻井兄弟は,訪問した宣教師が見せてくれた家族の写真に心を奪われた。10歳のときに両親が離婚,父親に引き取られて育った櫻井兄弟は“家族”に対する人一倍の憧れを抱いていた。「家族ってこんなもんじゃないよな,何でもっと仲良くできないんだろう。」子供をいい子に育てたい,まともに育てたい,家族が仲良く暮らせるなら─と,2か月後,当時小学6年生と4年生の息子たちとともに家族全員でバプテスマを受けることになった。

宣教師の愛を受けて

「教会員になりたてのころは義務感で教会に行く,そんな感じでした。4,5年,それも適当に通った後に教会から足が遠のいてしまいました。家業の自動車整備の仕事と子育てに追われ,教義を理解する前に。」それでも宣教師の訪問は途切れることがなかった。「あそこへ行けと,うち(櫻井家)に訪問することを申し送り事項として伝えていたんでしょうね。」

転機は2001年秋に訪れた。京都から来て最初の任地,桐生に配属された栗林裕志長老は,以後6か月にわたって櫻井家に訪問し電話をかけ続ける。週末には教会に誘い,教会に来ないと分かるとすぐに飛んで来て“どうしたんですか”“何かあったんですか”と心を配った。「ありがたいじゃないですか」と櫻井兄弟は感慨深げに言う。ひろこ姉妹も口を揃える。「最初は,レッカー出動があってとか,親戚がどうとか言っていましたが,年が明けるころには言い訳がなくなってしまいました。あと栗林長老の熱意にほだされて。『わかったよー,教会行くよー』ということで1月から教会に夫婦そろって出席するようになりました。」

人知では計り知れない経験

20 03年春,「皆さんにお膳立てしてもらって」神殿で夫婦の結び固めを受けた。そのとき味わった神殿の祝福を先祖にも味わってほしい─そんな思いから櫻井夫妻は先祖の情報を得るべく戸籍謄本を集め始めた。

そのころ櫻井兄弟はこんな夢を見る。「自分が育った家の中に大きなガラスケースがドスンと置いてあり,その中にある大きな桶の前に,亡くなった先祖,老若男女が15,6人正座していました。前の方に座っている小さい男の子に,『名前を教えてほしい,おじさん(櫻井兄弟)は言っただけじゃ覚えられないから紙に書いてほしい』と言うと,その子が名前を紙に書いて渡してくれました。」ほかにも何人かやりとりをした後に目が覚めた櫻井兄弟。その後,初めて死者のためのバプテスマを受けに東京神殿に行ったとき,地下のバプテスマフォントが夢の中の状況とそっくりだったことに驚いたという。「その子の名前は夢の中でははっきり覚えていましたが,夢から覚めると忘れていました。家族歴史相談員の相川兄弟からは,家族歴史を探求していけばそのうち(その子の名前に)行き当たるかも知れないよ,と言われました。」その夢は櫻井兄弟の家族歴史に対する思いに拍車をかけ,精力的に資料・情報を集め始める原動力となった。

同じころ,櫻井兄弟が経営する車体整備会社には,とある保険会社の女性が毎週集金に来ていた。女性の苗字と,すでに集めた家族歴史に出てくる先祖の苗字に同じ“園田”があったことから,「わたしの先祖に園田姓の家からお嫁に来てくださっている方がいます。あなたも同じ“園田”ですが,先祖と関係がありますか」と尋ねてみた。もしかすると,という思いから一応聞いてみたという櫻井兄弟。

よもやそこから大勢の先祖の救いにつながるとは想像もしていなかった。園田さんは,「身内から頂いた家系図がありますから櫻井家に行った人がいるか見てみましょう」と言い,早速その晩に電話が入った。「いました! 夫の先祖が行っています。後でお見せしますよ。」─後日,園田さんから譲り受けた家系図の写しは,1,500年前からの先祖を記したものだった。そこから見いだされた先祖の名前は600人を超える。「先祖に思いを馳せるときに神様は,人知では計り知れない方法で力を貸してくださることを知りました」と櫻井夫妻は口を揃える。

その後,園田さんは保険会社を退職し,櫻井兄弟の会社に出入りすることはなくなったが,櫻井夫妻と園田さんは意外な場所,意外なタイミングで再会する。「神殿から帰る途中,高速のサービスエリアで園田さんとばったり会いました。園田家の儀式はちょうど次の神殿参入あたりで,とお話しすると,こうして行き会えたのは偶然じゃないですねと,霊的な意義を感じてくださったようです」とひろこ姉妹は述懐する。伝道と神殿・家族歴史活動が一体であることを櫻井兄弟は強調する。「神殿に行くのを一歩踏み出したときにいろいろなことがくっついてくる,という感じです。神殿に行って, 家族歴史の大切さがよりいっそう分かってくる。で,それに伝道がついてくる。家族歴史を調べるという行為は伝道につながってると思うんですよね。まず身内から,一人でも教会員になってもらいたいっていう気持ちがあるわけです。神殿参入と系図探求と伝道というのはもう完全に一つです。バプテスマは生者であっても死者であってもバプテスマなんです,わたしにとっては。」そしてこう続ける。

「亡くなった人に対しては一人一人に(儀式を)してあげないといけないんですが,生者は後々の影響を与える力を持っていますので,生者をひとり導くっていうのはものすごい可能性を秘めています。(系図・神殿や伝道で)何千人も導ける子孫がそれに続きますから。」その言葉を裏打ちするように,櫻井夫妻の周囲では生者の救いの業も活発に行われている。

愛の行いが心を開く

櫻井家には,専任宣教師や求道者,新会員がひっきりなしにやって来る。家庭の夕べに招待することはもちろん,レッスンの場所を提供することもしばしば。取材の当日も,最近バプテスマを受けた近所の姉妹が求道者の息子を連れて,宣教師のレッスンを受けるために櫻井家にやって来ていた。「どんなものでも準備して一緒に食べてもらいました」とひろこ姉妹。「姉妹は大変なんですけど……」と清兄弟がひろこ姉妹をいたわる。櫻井夫妻の周りでバプテスマを受けた人々は一人の例外もなく櫻井家に招かれて食事をした。「どなたでも。いつもそこには食事があって家族になりました。たまに息子を招くと『いつもだれかいるね。家族だけで食事することってないよね』って言われます」とひろこ姉妹は苦笑する。「こんなに家庭的な食事と時間を過ごすのは初めてです,楽しい」と,後に改宗した男性は語った。

櫻井兄弟は「わたしの伝道の熱意は栗林長老の影響を受けているんです」ときっぱり言う。「原点は彼ですね」とひろこ姉妹も追認する。「しつこい(笑)というのがわたしの中では印象深かったです。また電話来たよ,また電話来たよと。新しい求道者を見つけてもとんとん拍子で行く人は少ないです。出会いがあったときに諦めない,出会った縁のところに集中するというのはわたしたちの責任かなという気がします。」

2 0 0 7年1 2月に,膵臓の持病が悪化して救急車で足利の日赤病院に搬送された甥(ひろこ姉妹の姉の息子)のために宣教師を伴って病院へ駆けつけ,癒しの祝福を施したのは櫻井兄弟だった。「鎮痛剤投与の後も顔を真っ赤にしてベッドがきしむほどのたうちまわっていた甥が生気を取り戻していく様子を,姉をはじめそこに集まった皆が見ました。」その後大宮の病院に転院した後も,ひろこ姉妹と清兄弟は頻繁に見舞いに訪れたのだった。─2008年にはこの2人の親族がバプテスマの水をくぐった。

それ以前にも2006年に1人の親族が改宗,2 011年5月から9月までの4か月間には,親族を含む4人の方の改宗を助けた。

青春を謳歌するかのように「福音を謳歌させてもらっています」と櫻井ご夫妻は言う。夫婦で神様の話をし始めると,奥の深さで夜明け近くまで話が止まらないこともあるという。福音が夫婦のきずなを強めてくれる。ひろこ姉妹は「楽しくってしょうがない。なんでこんなすばらしい福音を放棄していたんだろうと思います」と,教会から足が遠のいていた期間を省みる。櫻井ご夫妻の中には義務感はすでにない。「戒めを守らなきゃとか責任を果たさなきゃとかいう気持ちはどっかでなくなっちゃってるんですよね。それがあるとプレッシャーだと思うんです。この世の生活と福音の生活とをうまくすり合わせないといけない─とか,それって逆に難しい。信仰生活で楽しんじゃおうって言っちゃったほうがむしろ楽です。」屈託のない笑顔が似合う櫻井夫妻である。◆