リアホナ2013年2月号  鈴木正三兄弟が逝去される

鈴木正三兄弟が逝去される

─モルモンパビリオン館長,日本人で二人目の祝福師,初代教会教育部長,初代JMTC所長などを歴任

2012年12月24日午後2時5分,戦後日本の教会歴史とともに歩んだ鈴木正三兄弟が神奈川県相模原市の自宅で家族に囲まれながら逝去された。享年81であった。

 鈴木兄弟は,1931年(昭和6年),神奈川県平塚市に生まれた。1951年に入社した貿易会社で,後に伴侶となる同僚の加藤政子さんから「教会に行きましょう」と誘われたことで,生涯を導く福音と出会った。1952年8月4日,晴れ渡った夏の日に二人でバプテスマを受け,翌年4月に横浜で結婚する。結婚後しばらくは経済的に苦しい時代が続いたが,什分の一を正直に納め続けた。やがて日本人として初代の横浜支部会長に召される。1960年には日本人最初の地方部会長会(東中央地方部)が組織され,鈴木兄弟は今井一男会長の第二顧問に召される。

 1961年,勤務先の転勤で大阪へ移った。同年,西中央地方部の地方部会長に召され,1965年の日本人聖徒によるハワイ神殿団体参入,また建築宣教師による教会堂建築プログラムといった画期的な教会の発展の時代にあって指導力を発揮した。

 1968年,日本東京伝道部の分割に伴い日本沖縄伝道部が組織されると,鈴木兄弟はエドワード・幸雄・岡崎会長の第一顧問に召される。折しも日本万国博覧会(EXPO'70)の会場建設が大阪の千里丘陵で始まりつつあった。教会はこの万博に出展を決め,モルモン館を建設する。鈴木兄弟はその館長に就任し,皇族をはじめとする多くの要人を迎えた。

 1972年には日本人で二人目の祝福師に召され,同時に常勤教会職員として日本人初の教会教育部長(現在の教会教育システム地域ディレクター)に就任し,日本におけるセミナリー・インスティテュートを立ち上げた。1976年には日本札幌伝道部会長に召され,1979年に帰還するとすぐ,日本宣教師訓練センター(JMTC)の初代所長に任命される。翌1980年には地区代表に召され,6年半にわたって奉仕した。

 1991年に教会教育部を定年退職し,翌年から夫婦宣教師として神戸伝道部で奉仕する。1998年には東京神殿会長会の第二顧問,1999年には同第一顧問に召された。2003年からは家族歴史宣教師としてソルトレーク・シティーで奉仕し,帰還後も東京神殿宣教師として奉仕した。

 大阪万博開催中の1970年7月31日,当時の皇太子殿下(今上天皇)がモルモン館を訪れることとなった。鈴木館長が案内する中,皇太子殿下は一つだけ質問をされた。「イエス・キリストとはどなたですか?」鈴木兄弟はこう答えたという。「イエス・キリストは神様の独り子で,この世を創造された御方であり,わたしたちはこの地上で生活したことについて,いつかイエス・キリストの前で裁きを受けます。わたしも裁きを受けます。」

 2003年当時のインタビューで鈴木兄弟はこう語っている。「イエス様のところへ戻って行くとき,( 皆を連れて行って),これがわたしの家族です,と言えたら……。それがわたしの希望,理想ですよ。(アドニー・Y・)小松長老によく言われたのね。『鈴木兄弟ほんとうにもう金とか財産とかそんなの全然問題じゃないよ,この地上ですることは,自分の子孫を一緒に神様のところに連れて行くこと。もうそれに尽きる。』」─鈴木ご夫妻は,日本の末日聖徒で有数の大家族を築いたことでも知られる。9人の子供とその伴侶,42人の孫,さらに曾ひ 孫まで含めた家族は80人を超える。その一族の木には鈴木ご夫妻から受け継がれた豊かな福音の実がなっている。

 昨年12月24日の早朝,鈴木兄弟の目が開いたので,伴侶の政子姉妹は大勢の家族で鈴木兄弟を囲み,いつものように聖典を読んだという。これが,現世における夫婦での最後の聖典学習となった。モルモン書ヤコブ第6章であった。イスラエルの血統をオリーブの木にたとえた預言に寄せて,主の果樹園で熱心に働き,キリストに従うべきことが説かれる。─「それは,父の遺言のようにも思えます」と,長男の鈴木謙三兄弟は語った。◆