リアホナ2013年2月号  震災,2年目のクリスマス

震災,2年目のクリスマス

愛はいつまでも絶えることはない─支援と交流を続ける会員たち

2012年12月22日,昨晩からの冷たい雨が昼過ぎまで降り続いていた。千葉ステーク千葉ワード,稲毛ワードの合同クリスマス会が開かれたこの日,稲毛ワード扶助協会会長の木下美知子姉妹は目を輝かせていた。「早く準備をしないとねぇ,もうすぐ来るころだから……。」来客は福島県のいわき支部の会員18人である。

「いわき支部にクリスマスを届けに行こう」─前年(2011年)の12月23日,稲毛ワードの会員約60人がいわき支部を訪問した。その模様が地元新聞に掲載され,被災地の方々をも励ました。その後も互いに交流を続けた。いわき支部の清水英之会長は,「昨年は震災の直後に訪問いただき,ありがとうございました」とあいさつし,いわき支部の会員から,昨年のお礼と感謝を込めた聖歌隊の歌が3曲プレゼントされた。千葉・稲毛ワードからは総勢70人近くが出演し,1時間にわたる降誕劇が演じられた。3ユニットの会員たちはクリスマスの食事を共にし,楽しんだ。

いわき支部から参加した鯨岡笑子姉妹は, 「楽しかったです。人数も多くて,教会も大きくてびっくりしました」,浦田清子姉妹は「御霊を感じました」と言う。猪狩勉兄弟は, 「以前,福島県内で伝道した姉妹宣教師に25年ぶりの再会ができ,良い思い出になりました」と笑顔を見せた。

いわき市内の様子を尋ねると─「原発の影響で,双葉郡からの避難者により一時的にいわき市内の人口が増えているんです。皆さんつらい生活をされています。住宅や生活費は支給されるものの,仕事がないんです。そのために昼間からお酒におぼれる人もいたりして……。このような方々に希望のメッセージをお届けしたいですね。」(猪狩兄弟)「以前は接客業をしていましたが,今では除染の仕事をしています。県外からもそういう方がたくさん増えています。」(浦田姉妹)清水支部会長は,「いわき支部には,以前は60人くらいが集っていました。しかし震災後,双葉郡の会員25人ほどは(避難先で)それぞれにばらばらの生活をせざるを得ない状況にあるのです」と寂しげに語る。それぞれの生活に,震災と原発事故が影を落としている。しかしこの日ばかりは,千葉・稲毛の会員からもらった元気でいわき支部の会員たちは満面の笑顔だった。

東日本大震災最後の避難所

埼玉県加須市にある旧県立騎西高校は,福島県双葉郡双葉町の被災者が今も生活する最後の避難所である。2012年12月24日午前9時半,藤沢ステークから到着した2トントラックが騎西高校の体育館に横付けされた。震災当時は人の出入りが頻繁であった倉庫代わりの体育館も,今では物資が不足してがらんとしている。双葉町の若い臨時職員がやって来て底冷えのする体育館の物資置場に立つと,会員たちはリレー方式で黙々と物資を搬入し始めた。ステーク会長会の呼びかけに,年末年始の生活に少しでも足しになればと会員が持ち寄った米や水,カップ麺,お汁粉,衛生用品等の品々。そこには,今なお避難所で生活し,2度目の冬を過ごす人たちへの思いが込められていた。今回の訪問では,藤沢ステークからの代表13人のほかに,さいたまステーク桶川ワードほかの会員5人も物資を持ち寄って参加した。必要なときに必要なものを使っていただく,そっと置かれたクリスマスの贈り物。搬入を終えると,会員たちは住民が待つ校舎へと急いだ。

この日は教会の協力で,果物もプレゼントすることができた。2011年の炊き出しや差し入れでは,野菜や果物が非常に喜ばれた。山積みされた箱入りのりんご・みかん・バナナを流れ作業でビニール袋に詰め合わせると,会員たちは3つのグループに分かれ,被災された方が居住している1階から3階までの各教室を回った。一人一人に果物が手渡されると,表情がぱっと明るくなり,「こんなにたくさん,立派なものを頂いて」の言葉が返ってきた。感謝の気持ちを上気した顔が伝えている。話が弾む。こんなささいなことで,避難生活での腑に落ちない悶々とした思いは払拭される。外出している人の分も確保して,その人の四角い住まいにプレゼントを置く。

帰り際,会員たちは大きな洗濯袋を抱えた81歳の女性から声をかけられた。階段の壁に手を添えながら,不自由な足で慎重に階段を下りて来ると,その人は深々と頭を下げ,「今日はほんとうにありがとうございました。どうかわたしたちのことを忘れないでください。」それだけ言うと,後は涙で言葉にならなかった。ほとんどが年金暮らしの後期高齢者のこの避難所。要介護者も少なくない。藤沢ステークの渡邊幸由会長は「これからも継続したいんですよ。温かい手を握って,また来ましたよってね」と語る。参加した会員は皆,「来てよかった。できることを今後も続けていきたい」と決意を新たにした。桶川ワードの山崎博子姉妹は「すごく喜ばれてよかった。皆さんが過去のことを明るく話せるようにまでなられたことがほんとうにうれしい。これからも協力し合って,息の長い奉仕をしたい」と語り,「これから(騎西高校に置かれている)双葉町役場が移転するとしても,避難所は残ると思います。そうなると避難所は手薄になるため,今後も援助が必要です」と,ますますの協力を呼びかけた。

周りは田んぼだけの寒風が吹き抜ける騎西高校。会員たちは,そこで感じたぬくもりにクリスマスのほんとうの意味を見いだして感謝しつつ,帰途に就いた。

皆さんを忘れません

一昨年(2011年)12月に武蔵野ステークは,福島県伊達郡川俣町の仮設住宅に2回目の訪問をした。新年の準備に,希望された各家庭の窓ふきなどを行い,生活支援物資を運んだ。やがて,太陽が稜線に隠れようとする時間帯を迎える。山間部の夕暮れは早い。空からは白いものが少しずつ舞い始めていた。集会場の前に仮設住宅の住民と教会員が集まった。聖歌隊が「もろびとこぞりて」,「ふるさと」,「聖し,この夜」を歌う。住民から「わたしたちの歌詞カードはないですか?」との声が上がり,聖歌隊のカードの半分を住民に手渡した。住民も聖歌隊も,2,3人で1枚のカードを分かち合う。大合唱となった。当時,活動を管理していた齋藤博昭兄弟は回顧する。「今思い返してみると,あのときがすべてを変えたんですね。」歌は繰り返され,皆,涙を流していた。「時間になりました。わたしたちはこれで帰ります」と齋藤兄弟があいさつし,別れの握手を始めた。住民と会員があちこちで抱き合い,別れを惜しむ。なぜだか分からないまま,双方涙が止まらなくなった。「わたしたちは,皆さんを忘れません」と齋藤兄弟が伝え,皆,集会場を後にした。「なぜあのときこの言葉が出てきたのか今でも分かりません。しかしながら,主はいつもわたしたちに語ってくれますよね,『わたしは,あなたを忘れることはない』(イザヤ49:15)って。思わず出てきたのだと思います。」

その言葉のとおり2012年5月には,音楽と癒しの時間を過ごす準備をし,傾聴とマッサージのために訪れた。集会場内で聖歌隊が歌い,音楽家の演奏などが続く。その合間に「ご希望の方は,ハンドマッサージをいたします。声をかけてください」と呼びかけた。最初は遠慮がちに,やがて想定の倍以上の方が手を挙げた。用意していた整理券をあわてて半分にちぎり,番号を書き直す。ゆっくり一人一人と話をしながら手を揉む。時間は足りなかった。

心のつながりを求めているんです

2012年10月の訪問時には,地元,福島ワードの会員も加わることとなった。訪問する約40人の半数以上が事前に手揉みの訓練を受けた。ブースを4つ作り,整理券はたっぷり用意した。川俣町の古川道郎町長には, 「心と体のケアに来てくださいました。今日は4回目,( 川俣町を)心にかけていただきまして感謝いたします」と歓迎される。これまでの活動が複数の地元の新聞で何度か採り上げられていて,よく知られていた。復興の陣頭指揮に立っている古川町長の腕も揉んで差し上げた。

地元での調整に当たった福島ワードの早川秀輝兄弟は,「このボランティアは奇跡です。地元にいるわたしたちだけではできませんでした」と言う。ステークを越えた協力態勢のほか,教会外の方の厚意もそこに加わっている。ひばりが丘ワードの丸山芳子姉妹の勤める歯科医院の院長は,資金と,使い捨ての医療用ゴム手袋などを提供され,手袋はマッサージに活用された。「これで院長の思いも一緒に届けることができました」と丸山姉妹は笑顔で語る。

ひばりが丘ワードの高畑千枝子姉妹はこう話す。「仮設住宅の皆さんは,心の交流,つながりを求めているんですね。(早朝出発,深夜帰着の日帰り行程のため)わたしたちが現地に滞在できるのはわずか2時間くらいなんです。それであれだけ皆さんとお近づきになれたことは奇跡ですよ。川俣町のみならず被災地の状況はいろいろと報道されているけれど,家族や親戚でもない見知らぬわたしたちが関心を示していること,心配していること,困難な状況に共感することを喜んでくださったんでしょうね。まだまだわたしたちにはいろいろなことができると思いますよ。」

被災から2年,教会の支援の形も変化していく。今後のわたしたちには何ができるのか─以下は次号,町田ステークの教会と個人の事例から考えていこう。◆