リアホナ2012年9月号  ドゥエイン・N・アンダーセン兄弟が逝去される

ドゥエイン・N・アンダーセン兄弟が逝去される

─北部極東伝道部会長,初代東京神殿会長を歴任,生涯で7回の伝道に赴く

戦後日本の教会の発展に大きく寄与し足跡を残したドゥエイン・N・アンダーセン兄弟が,2 012 年8月13日午前9 時3 0 分に米国ユタ州プロボにて逝去された。享年91。葬儀は8月18日,プリーザントビュー第4ワードにて行われた。

 アンダーセン兄弟は1921年3月にユタ州ブリガム・シティーで生まれた。やがて第二次世界大戦の暗雲が世界を覆いつつある中,1941年11月から3年間,専任宣教師としてハワイアン伝道部に赴任する。当時ハワイには,ハワイ人を教えるハワイアン伝道部と,ハワイ在住の15万人の日系人移民を教える日本人伝道部があった。アンダーセン長老が着任して2週間後の12月7日,突如としてオアフ島の真珠湾を日本海軍機動部隊が急襲,太平洋戦争が勃発する。ハワイへの新たな宣教師派遣は停止され,ハワイアン伝道部と日本人伝道部は合併状態になる。そうした中でアンダーセン長老はマウイ島にあった仏教寺院の熊谷僧侶と出会い,福音を教え,熊谷僧侶の人格に尊敬と称賛の気持ちを覚える。これがアンダーセン兄弟と日本との生涯にわたるかかわりのきっかけであった。

 伝道から帰還してほどなく,アンダーセン兄弟は陸軍に入隊,沖縄の首里戦線に送られる。最前線で戦いつつ,片言の日本語を覚え,壕に隠れている沖縄県民に投降を呼びかけ,安全に収容所へ送って保護する役割を果たした。沖縄の避難民に貢献した功績をたたえ,軍部から銅メダルを授与された。

 除隊後,1948年にペギー・ジーン・ヒュイシ姉妹とアリゾナ州メサ神殿で結婚する。1950年には朝鮮戦争が始まり,若人が戦地に駆り出されたため宣教師数が不足した。教会は既婚者からも宣教師を募った。1951年から2年間,アンダーセン兄弟はペギー姉妹と幼い娘を残し,後ろ髪を引かれる思いで日本伝道部へ赴任する。戦後2代目の日本伝道部会長ヴァイナル・G・マースのもとで働き,後に伝道部会長会の第二顧問を務めた。

 そして1962年夏,アンダーセン兄弟は北部極東伝道部会長に召されて三たび日本の土を踏む。ちょうど世界的な教会建築プログラムが始まった年で,アンダーセン会長の管理の下,1962年9月の東京北支部(中野)の鍬入れを皮切りに,全国各地で建築宣教師による教会建築が相次いで着工された。

 またアンダーセン会長は家族の救いに焦点を当てていた。そして家族に永遠の祝福をもたらすべく,日本人最初のハワイ神殿団体参入を計画する。当初はだれもが実現の可能性を疑うような途方もない計画に思われた。航空運賃を下げるためには飛行機を丸ごとチャーターしなければならない。航空各社との交渉は難航し,日本人教会員の人脈に助けられつつ,最終的にはアンダーセン会長が日本航空の副社長と直接交渉して契約にこぎつける。当時としては破格の航空運賃であったが,日本経済の高度成長が緒に就いたとはいえ1ドル360円の時代,日本人会員に求められる負担は1人当たり平均年収の半分近くに及んだ。そのため資金獲得活動が行われ,1人50ドルの援助がなされた。第1回訪問は1965年に実施され,164人の日本人聖徒がアンダーセン会長に引率されてハワイ神殿を訪れる。間もなくアンダーセン会長は帰国するが,神殿訪問ツアーはその後も2年おきに行われ,日本の聖徒にとって大きな置き土産となった。

 1980年には日本東京神殿が完成し,アンダーセン兄弟は初代神殿会長に召されて4度目の来日を果たす。1982年までの3年間にわたって,数多くの日本人に救いの儀式が施されるのを見守り続けたのである。

 その後も1986年から2年間,教会奉仕宣教師としてプロボで奉仕。1988年から2年間,神殿宣教師として南アフリカに赴任,1992年から93年までは教育宣教師として同じく南アフリカで奉仕する。ビショップを4度務め,祝福師,神殿の結び固め執行者であった。また父親,祖父,曾祖父として4人の子供と26人の孫,29人のひ孫に恵まれた。◆