末日聖徒リアホナ2012年9月号  この町に末日聖徒22  主はいつもそばにいて,助けてくださいます

この町に末日聖徒22  主はいつもそばにいて,助けてくださいます

刑務官として35年─盛岡地方部 横手支部 古川盛悦兄弟

古川盛悦兄弟は刑務官である。昨年春に定年を迎え,今は再任用されて,秋田県横手市にある秋田刑務所横手拘置支所の支所長を務めている。この春には教会の横手支部会長に召された。21歳で改宗してから40年にわたる信仰生活の折々に,古川兄弟は主の助けと導きを豊かに受けてきた。

1972年,岩手県出身の古川兄弟は,群馬県高崎市の大学で学んでいた。人生の意義について深く考えていた大学3年次の春休み,古川青年は古書店で『モルモン経』と記された不思議な本と出会う。「手に取ってみると,イエス・キリストが復活されアメリカ大陸を訪れていたことが記されています。何だこれは,しかもこの本には聖書と同じ心があるではないか,この宗派は何だ……。その本を買い,下宿に戻って一気に読み,感動し驚きました。」当時の『モルモン経』には巻末に日本中の教会の住所が載っていた。古川兄弟は自分から高崎の教会を尋ね当て,宣教師に教えを乞うた。

「1972年8月26日に高崎の教会でバプテスマを受けました。そのときまでには,モルモン書を3回ほど読んでいました。」実は,古川青年はバプテスマチャレンジを2度ほど断っていた。信仰を生涯持ち続ける自信がなかったのだ。そのとき宣教師はこう告げる。「古川兄弟,神様の国に確かに帰ることのできる方法があります。それは毎日,赤城山へ登ってきてくださいといった大変なことではありません。次の3つのことを続ければいいのです。」1つ目は毎日,朝と晩に個人の祈りをすること。2つ目は毎日少なくとも15分,聖文を読むこと。3つ目は,安息日に毎週教会に集い続けること。「どうですか?」と問われ,「それならできます」と古川青年は答えた。以来40年間,宣教師が教えてくれた3つの原則を守り続けている。「それは習慣となり,わたしの人生を助け支えてくれる大きな力となりました。」

主の愛に貫かれて

そのころ日本人会員には,伝道に出るようにと強く勧められてはいなかった。ところが,「不思議なことに,わたしの心臓付近の胸のところに静かな声が聞こえてきます。『あなたは伝道に出ないのですか。あなたも伝道に出ましょう……』そんなささやきが,教会で宣教師と会う度にわたしの心に響いて聞こえてきました。」しかしそこには葛藤があった。古川兄弟が5歳のとき父親は亡くなり,母親は同居していた姑(父方の祖母)を養いつつ,女手ひとつで彼と妹を育て上げてくれた。母も祖母も親戚も,古川兄弟が岩手に帰って来ることを期待している。「伝道に出ることは勘弁してください……」声が聞こえる度に古川兄弟はそう祈った。

「金木犀の香る10月,月の美しい夜,下宿でモルモン書を読んでいました。6回目のときです。クモラの丘のモルモンたちの戦いの箇所を読んでいると,モルモンがその丘で泣き悲しんでいる光景が心の中に浮かび見えてきたのです。主と天父の悲しみがわたしの全身を刺し貫き,涙がとめどなく流れました。なぜ人々は神様の僕を受け入れなかったのか,なぜ,滅びてしまったのか……聖典を読み明かし,夜が明けるまで泣けて泣けて仕方がありませんでした。そしてこう祈りました。『主よ,伝道に出たくないと言っていたわたしをお赦しください。』─わたしは,母の愛にこたえるべきか,神様の愛にこたえるべきかを悩んでいましたが,その晩,天父が母も,親族も,そしてすべての神様の子供たちを深く愛してくださっていることが分かりました。もし伝道に出れば,現世では誤解され,母や親戚を悲しませるだろう。しかし次の世では,途方もない親孝行をしたことを分かってもらえると確信できたのです。」

ほんとうの先祖供養

古川兄弟は,改宗前から墓相などに強い関心があり,ほんとうの先祖供養とは何かを考えていた。そして教会に,死者のためのバプテスマという救いの儀式があることを知って大いに喜んだ。─「そのころ(1972年春)わたしはこんな夢を見ました。ひなまつりのひな壇のようにたくさんの人たちが並んでいました。後ろの人たちはだれだか分かりませんでしたが,幾重にも座っています。最前列はわたしの知っている,当時亡くなっていた父方の祖父と,祖母でしたので,自分の先祖たちだと分かりました。わたしは一言『系図出して神殿で死者のバプテスマをしてあげるからね』と言うと,皆わたしに頭を下げ,ぼろぼろ涙を流し泣いていました。」そんな夢を見ていたので,古川兄弟は伝道に出る前に,出せる限りの直系の系図をハワイ神殿に提出するべく調べ始めた。そのとき,古川兄弟は叔母(父親の妹)からこんな話を聞かされる。

「せぇつ(盛悦)生まれたとき,ヤシばあさん(父方の祖母,この叔母の母)は,『この子がわたしの手を引いて,夜空の天上にかかっている階段を上ってきらきら輝いている門の方に連れて行ってくれた夢を見た。この子は,とってもいいことしてくれる子だと思う』と言っていた……。」─これは,ますます系図を出してあげなければ,と古川兄弟は決意を新たにした。

系図については伝道後もさらに調べ続け,伴侶の信子姉妹の助けも受けて,現在までに合計で約2,600人の先祖の名前を提出している。

「わたしは,神殿での儀式を終えた先祖はどう思っているか知りたいと,時々そのことを祈っていました。それからしばらくすると,叔母さんがわたしにこんなことを言ってきました。『ヤシばあさんが夢に出てきた。不思議なことにわたしの知らないたくさんの子供たちを抱っこしてにこにこしてすごく喜んでた……どういうことなのかね。』わたしにはその意味がすぐ分かりました。亡き祖母には生まれてすぐ亡くなった多くの子供たちがいて,その子たちとの結び固めの儀式もしていたのです。主は,わたしの祈りにこたえ,祖母は実の娘を通して,神殿の儀式を受けた喜びとその結果を教えてくれたのでした。」

御霊を伴侶とした刑務官

古川兄弟は,1974年3月から福岡伝道部に赴任し,九州の各地と沖縄で実り多い伝道をして1976年3月に帰還する。そして,年齢的にまだ受験資格のあった刑務官採用試験を受け,合格した。念願の東北勤務であった。

1977年4月,古川兄弟が最初に現場勤務に就いた盛岡少年刑務所は,犯罪性の進んでいる26歳未満の若い人たちを収容する施設だった。暴力団関係者も多く,けんか,反則など規律違反が多発していた。刑務所内には居室のほか,被収容者が日中に作業するいろいろな工場がある。

「各居室や工場内でわたしは,今まで見つからずに隠れてやっていた彼らの反則を次々に摘発することとなりました。巡回するとき異常があれば,何かおかしいと御霊が感じさせてくれたのです。」古川兄弟にはすぐにあだ名がつけられてしまった。「犬,というんです。鼻が利くわけですから。」全工場の被収容者が,運動場での運動時に古川兄弟の姿を見ると,駆け足するとき発声する声(いちに,いちに)に合わせてあだ名を叫んだ。揶揄することで摘発された悔しさをぶつけてきたのだった。しかしそれは,古川兄弟に彼らが一目置いていることの現れでもあった。

福音の指導の原則を応用して

その後,昇進試験に合格すると,古川兄弟は所内で1,2番目に人員の多い金属加工工場の担当を命じられた。そこは反則者の多い難しい工場だった。

「初めの3か月間は非常に苦しい思いを経験しました。主に導きと光を,力を求め,だれもいない工場で天からの光と導きを,そして負けない気力を願いました。」古川兄弟は彼らの精神面を改善するため,教会の神権個人面接を応用し,被収容者との定期的な個別面接をさせてほしい,と申し出た。上司は理解してくれ,古川兄弟が工場の食堂で個別面接をしている間,代わって作業を監督する職員を付けてくれた。荒れた工場の立て直しのために実験的な処遇を許可してくれたのだった。面接では,この刑務所に入ったとき彼ら被収容者自身が立てた目標を再確認させ,自己評価させ,古川兄弟もそれを評価し,できていることは褒め,足りないところは頑張るように励ました。

古川兄弟が担当になったとき,その工場の被収容者の共同室には優良室(規律違反のない行状の良い部屋で,月間成績で決まり,様々な特典で優遇される)は1室もなかった。度々反則者が出るためだ。朝の始業時の毎日の全体訓示,個別的な面接と指導,叱ったり,褒めたり,を続けた。

3か月後に初めて優良室が出た。「おやじさん,優良房が取れた」とうれしそうに古川兄弟へ報告してきた(被収容者は職員のことを「おやじさん」とも言う)。しばらくすると,この工場の被収容者が入るすべての共同室が優良室となった。約1年後には,工場単位で数えて1か月間反則者がまったくなくなり,優良工場という特典を得るようになった。一致団結力が高まり,ソフトボール大会,サッカー大会など所内行事でも優勝するようになった。「彼ら自身も信じられないようでした。」古川兄弟は1年7か月ほどその工場の担当をしたが,工場の心情の状態は劇的に良くなり,その状態で次の担当者へ工場を引き継いだのだった。

主を信頼することを学ぶ

工場を担当していたころ,古川兄弟はこんな経験をした。一日の終業時には毎日工具を点検するが,ある工具が1点なかった。被収容者に探させたが見つからない。このようなとき刑務所では職員を動員して捜索する。そのことを上司に報告すると,「今,君の工場は落ち着いているから,明日の朝,被収容者にもう一度探させてみろ。それで見つからなかったら明日,職員を残して捜索させるから……」と言われた。

「わたしは再度,だれもいない広い工場に戻り,天父に『どこにあるか示してください』と祈りました。静かな細い声を期待したけれども聞こえなかったので,しるしをお願いしました。『はなはだ勝手ながら,この鉄パイプを投げますので,その先でどうか示してくださるように』と祈ってパイプを放ると,床の上に置いてあったある工具箱を指し示します。その箱は終業時に職員が点検したはずのものでした。あるわけがない,とわたしは思い,その箱の先の場所を探したけれども見つかりません。その日はあきらめて翌朝の始業時,上司の指示どおりに工場の全被収容者に訓示して,昨日見つからなかったその工具を探させました。するとすぐ,一人の被収容者がやって来ます。『おやじさんありました。工具箱の隅に隠れていて昨日気がつきませんでした, すみませんでした。』その工具箱は何と,昨晩,主にお願いして示していただいたものでした。わたしは自分の思い込みを反省し,主にお詫びと感謝をささげたのです。」

導きに従うなら,主が助けてくださる

また古川兄弟がある拘置所に勤務していたとき,すでに妊娠していた女性の被告人を警察署から収容することとなった。市内の産婦人科で受診すると9か月目で,しかも逆子。古川兄弟は,産婦人科医師の

診察で入院予定日を決めてもらい,その日に勾留の執行停止(拘置所から釈放すること)を実施してもらえるよう検察官に願い出た。引受人は被告人の両親で,しっかりしているので心配はない。入院予定日の1週間前,医師の指示により再度,市内の産婦人科で受診させた。

ところがその産婦人科医は,胎児がまだ小さいので入院はまだいいと言い出し,その後の入院予定日を明示しなかった。

「困りました。検察官にこれを報告すれば執行停止日が延期になる。入院予定日が分からないので,執行停止の釈放がいつになるかも解らなくなる。─この状況を検察官に報告すべきか迷いました。心の中で主に尋ねると,母子のため予定どおり釈放したほうがいいと強く感じます。胎児は逆子で非常に危険でした。それはわたしの妻の出産でも経験しています。」

前年の担当検事であれば,母体保護のため余裕をもって執行停止し,自宅で休養させてから入院できるようにしてくれた。しかし当時,執行停止中の被告人がある大きな事件を起こし,検察庁も非難されたので,検察官は執行停止を厳格に行わなければならなくなっていた。

「わたしは,執行停止予定日までの女性の状況を見て判断することにしました。釈放指揮書到着予定日の前日,その女性に少し出血がありました。そして釈放予定日,検事から釈放指揮書が届くと,わたしは検察官に先の医師の所見は報告せず,予定どおり釈放するよう部下に指示しました。そしてその女性と,迎えに来た母親に,『医師に昨晩,少しの出血があったことも説明し,逆子なので今日入院させてくれるように頼んでください』と指導して釈放しました。

その日の夕方,検事から呼び出されてしかられました。『彼女,病院に入院しなかったそうですね。まだ入院しなくてもいいと先生が言っていたというじゃないですか。なぜ報告してくれなかったんですか。』検察庁トップの支部長検事からは,『今回の件,始末書を書いてもらいますから……』とまで言われました。検察庁の事務室の職員の視線もいつもより俄然冷ややかでした。

宿舎に戻ったわたしはすぐに主に祈りました。そして午後8時に再度,このように祈りました。『主よ,はなはだ勝手なお願いでまことに申し訳ありませんが,彼女が今すぐ出産で入院しなければならない状態になりますように。できますれば救急車が必要になりますように。』

翌朝8時40分ごろ,検事から直接わたしに電話がありました。『昨晩,彼女に出血が起こり,急遽タクシーであの産科医院に駆け込んだそうです,しかし出血があまりにひどくてその病院で対応できず,救急車を依頼して総合病院に搬送し,その晩に帝王切開で出産したそうです。母子ともに大丈夫だったようで,今回釈放しておいてよかったですね……。』タクシーで病院に駆け込んだ時刻は,わたしが祈り終えたすぐ後のことでした。

支部長検事からも再度呼ばれ,『今回,幸いにしてこんな結果になったので,始末書は出さなくていいが,今後はこのようなことのないようにしてください』と言われました。検察庁の事務室の職員の視線も,昨日とは打って変わったものでした。結果的に釈放日当日中に入院することとなったので,検事にも迷惑をかけなくて済んだのです。心から主に感謝しました。まさに昨晩祈り終えた直後に,主にお願いしたとおりのことが起きたのです。事情を知らない人たちは運が良かったと思うでしょうが,違う,主が助けてくださったのです。」

刑務官という仕事は,「緊張感のある職場ですので……」と古川兄弟は控え目に表現する。けれどもこれまで赴任した東北,関東,北海道の各施設で,この誌面に書き切れないほど様々な危機的局面に遭遇しながらも,今日まで大過なく務めてこられた。それは,「主の不思議な導きと助け」があったから,と35年にわたる勤務を振り返って古川兄弟は述懐する。「主はいつもそばにいて助けてくださいました。主はわたしたちやすべての人々を,深く愛しておられることを,心から証します。」◆